最底辺の10億人の国々は、制約のない競争選挙の所為で国内協力は挫折して、指導者に主権があるために国外協力も頓挫し、政治的暴力からアカウンタビリティのある正当な民主主義へと着実に移行すろどころかまるで程遠く、彼らはどん詰まりに向かって進んできた。
最貧のアフリカ諸国では、民主主義によって、深刻な危機が、益々増幅されてきていると言う悲しい現実を、ポール・コリアーは、この本で、克明に報告しているのだが、しかし、その民主主義以前の段階で、内戦や反乱状態から抜け出せない国が、アフリカには多い。
コリアーは、内乱や反乱について、その動機よりも、反乱が実現可能かどうか、実現可能な場所なら反乱は起こると言う実現可能性仮説を検証している。
反乱の実現可能性の違いを端的に説明し易いと考えた五項目に分けて、二箇所の架空の地域の紛争リスクをシミュレーションしたのである。
その結果、山岳地帯、若い男性の割合が多い、どちらの地域も人口50万としたが、一方は単一国に対して10万人ずつ5カ国に分裂している、天然資源輸出に依存、フランスの安全保障の傘下にある、と言った特徴を持った地域では、そうではない地域よりも、99倍も反乱リスクは高かったと言う。
それに加えて、内戦や反乱が恐ろしいのは、テロリズムを助長していることで、アルカイダが訓練キャンプをアフガニスタンに置いたのも、国際的に承認された政府がなく都合が良かったからで、同様のことは、長い間全く無政府状態に放置されてきたソマリアにも起こっており、更に、イエーメンにも飛び火するなど先進国のみならず世界中を恐怖に陥れている。
反乱勢力に対して効果的に対抗できる能力がその国家になければ、反乱勢力を支える武器や資金の大半はその国外から来るのであるから、外部から、それを阻止して武力衝突自体の発生を困難にする以外に方法はないのである。
この解決のために、コリアーは、最小限の国際介入が、最底辺の10億人の国の大部にある政治的暴力が持つ強大な力を、危険な力ではなく善良な力として解き放つ可能性があると考えている。
最小限に抑えたとしても、国際介入の正当性は確保すべきであるが、国家の存続に不可欠で国家の発展に必須である最も重要な二つの公共財、アカウンタビリティと安全保障は、外部から国際社会が供給すべきだと説く。
国際社会によるこのような公共財の提供は積極的にやるべきで、このような最低限の国際介入が功を奏して、最底辺の10億人の国々が嵌っている罠を解き放てば、国内供給に置き換え得ると言うのである。
この二つの公共財を国際社会が提供しなければならない理由は、国内的な供給が不可能だからである。
これらの典型的な最底辺の10億人の国々は、公共財の提供に必要な集団行動を達成するためには、あまりにも民族的にパッチワーク状に分裂し過ぎており、さらに、国そのものが小さ過ぎるために、公共財が多くの周辺諸国に外部波及して内部化できない。
したがって、国家が分裂して小規模なアフリカの場合には、各国の次元では公共財を供給できないので、国家主権を侵害しない範囲での相互協力によるのが最も効果的で、この次元でこそ、国際社会がアカウンタビリティと安全保障の供給を引き受けるべきだと言う。
コリアーは、域内協力におけるアカウンタビリティについて、アフリカ相互審査機構(APRM)での各国政府が任意に他国政府の評価を受ける相互監視メカニズムについて触れているが、しかし、ムガベのジンバブエを筆頭に現状のように独裁者が国家を蹂躙するような民主主義から程遠い国が存在するような現在のアフリカで、チェック&バランスを働かせて、その国の政治経済社会情勢を透明化して監視するシステムの構築など簡単に出来るのであろうか。
もう一つ興味深いののは、旧帝国が画策した国境は民族を分断していることが多いため、七つ程度の大きな国に束ねて、現在以上に国内の多様性を拡大せずに国家の規模を拡大する方が、現状よりずっと安全になると言うコリアーの考え方である。
現在のアフリカは、主権がなさ過ぎるのではなく、多く持ち過ぎで、国家主権と言う概念に対する過剰な尊重姿勢が問題なのだとする姿勢は、ネオコロニアリズムとも呼ばれる所以でもあるのだろうが、しかし、国連などの国際機関の肝いりで、有能なアフリカの指導者による汎アフリカニズムを育成し強力にバックアップすることは、有効であるばかりではなく必須であろうと思われる。
コリアーの素晴らしいところは、この本を、先進国の知識人に向けて書いているばかりではなく、私がその為政者であればと言う視点から、現にアフリカを支配しているリーダーたちに向かって進むべき道を説いていることで、アマゾンのアメリカ判のブックレビューでもアフリカの読者のコメントが掲載されていて興味深い。
最貧のアフリカ諸国では、民主主義によって、深刻な危機が、益々増幅されてきていると言う悲しい現実を、ポール・コリアーは、この本で、克明に報告しているのだが、しかし、その民主主義以前の段階で、内戦や反乱状態から抜け出せない国が、アフリカには多い。
コリアーは、内乱や反乱について、その動機よりも、反乱が実現可能かどうか、実現可能な場所なら反乱は起こると言う実現可能性仮説を検証している。
反乱の実現可能性の違いを端的に説明し易いと考えた五項目に分けて、二箇所の架空の地域の紛争リスクをシミュレーションしたのである。
その結果、山岳地帯、若い男性の割合が多い、どちらの地域も人口50万としたが、一方は単一国に対して10万人ずつ5カ国に分裂している、天然資源輸出に依存、フランスの安全保障の傘下にある、と言った特徴を持った地域では、そうではない地域よりも、99倍も反乱リスクは高かったと言う。
それに加えて、内戦や反乱が恐ろしいのは、テロリズムを助長していることで、アルカイダが訓練キャンプをアフガニスタンに置いたのも、国際的に承認された政府がなく都合が良かったからで、同様のことは、長い間全く無政府状態に放置されてきたソマリアにも起こっており、更に、イエーメンにも飛び火するなど先進国のみならず世界中を恐怖に陥れている。
反乱勢力に対して効果的に対抗できる能力がその国家になければ、反乱勢力を支える武器や資金の大半はその国外から来るのであるから、外部から、それを阻止して武力衝突自体の発生を困難にする以外に方法はないのである。
この解決のために、コリアーは、最小限の国際介入が、最底辺の10億人の国の大部にある政治的暴力が持つ強大な力を、危険な力ではなく善良な力として解き放つ可能性があると考えている。
最小限に抑えたとしても、国際介入の正当性は確保すべきであるが、国家の存続に不可欠で国家の発展に必須である最も重要な二つの公共財、アカウンタビリティと安全保障は、外部から国際社会が供給すべきだと説く。
国際社会によるこのような公共財の提供は積極的にやるべきで、このような最低限の国際介入が功を奏して、最底辺の10億人の国々が嵌っている罠を解き放てば、国内供給に置き換え得ると言うのである。
この二つの公共財を国際社会が提供しなければならない理由は、国内的な供給が不可能だからである。
これらの典型的な最底辺の10億人の国々は、公共財の提供に必要な集団行動を達成するためには、あまりにも民族的にパッチワーク状に分裂し過ぎており、さらに、国そのものが小さ過ぎるために、公共財が多くの周辺諸国に外部波及して内部化できない。
したがって、国家が分裂して小規模なアフリカの場合には、各国の次元では公共財を供給できないので、国家主権を侵害しない範囲での相互協力によるのが最も効果的で、この次元でこそ、国際社会がアカウンタビリティと安全保障の供給を引き受けるべきだと言う。
コリアーは、域内協力におけるアカウンタビリティについて、アフリカ相互審査機構(APRM)での各国政府が任意に他国政府の評価を受ける相互監視メカニズムについて触れているが、しかし、ムガベのジンバブエを筆頭に現状のように独裁者が国家を蹂躙するような民主主義から程遠い国が存在するような現在のアフリカで、チェック&バランスを働かせて、その国の政治経済社会情勢を透明化して監視するシステムの構築など簡単に出来るのであろうか。
もう一つ興味深いののは、旧帝国が画策した国境は民族を分断していることが多いため、七つ程度の大きな国に束ねて、現在以上に国内の多様性を拡大せずに国家の規模を拡大する方が、現状よりずっと安全になると言うコリアーの考え方である。
現在のアフリカは、主権がなさ過ぎるのではなく、多く持ち過ぎで、国家主権と言う概念に対する過剰な尊重姿勢が問題なのだとする姿勢は、ネオコロニアリズムとも呼ばれる所以でもあるのだろうが、しかし、国連などの国際機関の肝いりで、有能なアフリカの指導者による汎アフリカニズムを育成し強力にバックアップすることは、有効であるばかりではなく必須であろうと思われる。
コリアーの素晴らしいところは、この本を、先進国の知識人に向けて書いているばかりではなく、私がその為政者であればと言う視点から、現にアフリカを支配しているリーダーたちに向かって進むべき道を説いていることで、アマゾンのアメリカ判のブックレビューでもアフリカの読者のコメントが掲載されていて興味深い。