熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場2月文楽・・・「曽根崎心中」

2010年02月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   2月文楽の最後は、昼の部の「大経師昔暦」に引き続いて、近松門左衛門の大作「曽根崎心中」で、簔助がお初を遣い、勘十郎が徳兵衛を遣う師弟コンビによる息の合った素晴らしい舞台であった。
   この師弟による曽根崎心中は、3年前に見る機会があったのだが、それは、最晩年の玉男が、病気休演で出られなくなり勘十郎に代わって実現したもので、その前に、藤十郎が襲名披露公演で、絶品のお初を演じており、歌舞伎と文楽同時に、曽根崎心中を楽しむことが出来て非常に面白かった。
   
   私が最初に見た文楽が、ロンドン公演での玉男と文雀コンビによるこの曽根崎心中で、帰国後、もう一度みて(この時のお初は簑助)一挙に近松ファン度が増した。
   この浄瑠璃そのものも、非常に数奇な形で生まれ出でており、初演当初も大変な人気で、潰れかかっていた竹本座を一挙に再建したと言う。
   しかし、ながく途切れていて、戦後に復活上演されたのは、まず歌舞伎で、昭和28年8月、新橋演舞場の上方歌舞伎で、鴈治郎父子が演じて、扇雀(藤十郎)のお初が一世を風靡し、文楽の方は、遅れて、昭和31年1月に、玉男が抜擢されて徳兵衛(お初は二代目栄三)を遣い、斬新な新しいやり方で舞台を作り上げた。
   藤十郎のお初と玉男の徳兵衛は、1000何百回も演じられていると言うから、二人をスターダムに押し上げた最高の戯曲と言うべきであろう。
   
   
   藤十郎と組んで歌舞伎で活躍していた近松門左衛門が、竹本義太夫に頼まれたとかで、それまで、伝承化されているような歴史上の事件や人物を作品にしていた浄瑠璃の世界に、初めて世話浄瑠璃として、それも、生々しい庶民の心中事件を取材して、事件後一ヶ月ほどで書き上げて上演されたのが、この曽根崎心中。
   その後、近松は、京都から大坂に移り住み、歌舞伎から離れて浄瑠璃を書き続けた。
   門左衛門の直系の近松洋男さんは、近松が、同志であった大石良雄やわが子同然であった近松勘六兄弟など縁深き人々を切腹で亡くし、幕府権力の無慈悲・理不尽さと、大名と言えども公権力に圧殺され、名もなき庶民は長いものに巻かれて従うほかなかった残酷なあの時代故に、虐げられて、何の抵抗する手段も持たなかった弱い人々に強い共感を覚えて創作したのだろうと言う。

   醤油屋の手代徳兵衛が、主人から妻の姪と夫婦になれと強いられて江戸詰めを言い渡され、堂島新地の遊女お初にも身請け話があって、義理に追い詰められた相思相愛の二人の切羽詰った心中事件と言う実話に、近松は、徳兵衛を騙して金を取った悪人九平次を創作して付け加えて、話を面白くした。
   幸か不幸か、お初と徳兵衛は、損得抜きで恋に溺れ込み離れられない間柄になってしまった。他の歌舞伎や文楽に出てくる花魁や太夫と言った高級遊女ではなく、場末の堂島新地の安女郎であるお初には、客を選べず、身請けと言われても嫌いな男で心中しか恋を貫き通す道は残っていないし、手代の徳兵衛も義理との板ばさみのみならず、身請けする力もなければその算段もない、優男でがしんたれで、二人が添い遂げられるのはあの世しかない。
   離れたくない添い遂げたい、ただ、一途に恋をしたが故に、死への旅路を選ばなければならなかったしがない薄倖の二人に心を動かされた近松は、九平次と言う小道具を使っただけで、素晴らしく昇華された恋の物語を創りあげたのである。

   
   私は、何時見ても簔助のお初の人形ぶりに感に堪えないほど感動する。
   生玉社殿の段でのお初が、音沙汰のないのを心配してかき口説きながらしなだりかけて男の手を懐に導く情の濃さや、徳兵衛が語る縁談断り話などを下からじっと見上げて必死になって聞く姿など、木偶の坊でもほろりとせざるを得ないであろう。
   もっと美しい表情は、天神森の段の心中直前の仕草や振る舞いで、特に、最後の「早よう殺して・・・」と目を閉じて徳兵衛を見上げる恍惚とした姿で、徳兵衛の切っ先が鈍り逡巡する。玉男は、好きな女を見ながら刺せるかと言って顔を背けて止めを刺していた。
   藤十郎の時もそうだったが、歌舞伎では、最後は心中を暗示して直前で幕が下りるが、文楽では、海外公演で、お客の理解を助けるために、この場を設定したようで、私も、玉男の徳兵衛が簔助のお初に崩れ折れるエンドをロンドンで見たが、凄惨だが実に美しいそのドラマチックなシーンが今でも目に焼きついている。
   勘十郎の徳兵衛は、玉男を踏襲している感じだが、最後のシーンをやや斜めに振るなど、少しずつ微妙なニュアンスを加えながら、新しい徳兵衛像を模索しているように思った。尤も、このラストの演出でも、玉男と簔助との相談で、自由に変えてきたと言うから、演出家のいない文楽には、決定版などなくて、人形遣いの独壇場なのである。

   やはり、凝視していて見ていたのが、この口絵写真(文楽カレンダーからコピー)の天満屋の段で、お初が、縁の下の徳兵衛に「死ぬる覚悟があるかききたい」と足で合図して、「どうせ徳さまは、死ぬ覚悟、わしも一緒に死ぬるぞやいの」と迫り、刃物に見立てた徳兵衛が、その足をのど仏に宛がうシーンで、殆ど目を閉じて中空を仰ぎながら、心中を覚悟したお初の毅然たる風情は秀逸である。
   徳兵衛が死んだら可愛がってやると言われて、「私を可愛がらしやんすと、お前も殺すが合点か。」と応えるお初に、九平次が恐れをなして尻尾を巻く。
   健気で一途に徳兵衛を思いすがり付く乙女のような可愛いお初だが、心意気があり勝気で、終始徳兵衛をリードしながら果敢に生きている。あの八つ橋のような「遊女は買い物騙すもの」と言った打算や駆け引きなど一切ない貞節な女の物語を、簔助は、詩情豊かに紡ぎ切っていて感動的である。

   この足のシーンだが、先代の鴈治郎の徳兵衛と藤十郎のお初での初演での舞台写真でも同じだが、文楽では、女方の人形に足は吊らないので、この足をどうするか問題となり、栄三は反対したが、玉男が白い足を見せたいとして、この演出が定着したのだと言う。

   私は、社会人になったのは、大阪だったので、曽根崎のお初天神あたりも歩いていたが、何故、遊女の名前が神社の名前や、おかしいいことないか、と思った記憶がある。
   あの忠臣蔵から程なく、大坂の人も通わぬ人里離れた寂しい天神森で起きた薄倖の若い男女の心中物語を、日本のシェイクスピア近松門左衛門が浄瑠璃にして大坂人を泣かせた。
   「この世の名残、夜も名残。死にゆく身をたとうれば、仇しが原の道の霜、一足ずつに消えてゆく。夢の夢こそ、あわれなり。」こんなに美しい浄瑠璃を書かれれば、文楽人形も感に堪えない超ど級の美しい舞台を作り出さねばと頑張るのは当然であったのであろう。

   勿論、素晴らしい大夫の浄瑠璃語りが舞台を造形し、それに呼応して色彩感豊かに伴奏する三味線あっての曽根崎心中であるのだが、特に、天満屋の段の嶋大夫(三味線 清友)の、時には肺腑を抉るような、時には、とつとつと、そして、切々と訴えかけるような、緩急自在にシチュエーションを変えながら展開して行く感動的な語りが、どんどん奈落へ追い詰められて行く二人の姿を炙り出して胸に迫る。
   字余りや字足らずで、近松は嫌いでんねん、と言う住大夫が、何もかもがきれいずくめの浄瑠璃で、あんまり好きやおまへんと言う曽根崎心中だが、何故か、私は好きなのである。
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