熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

花鳥風月を愛すると言うこととは

2010年02月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
    昨年末に、孫に、春の花の球根を沢山持って行って、庭土を掘って土を作り肥料を施すことを教えて、植えさせた。
    最近の温かさのお陰もあって、一斉に目を出し始めたのであろう、嬉しそうに芽が出たと電話をして来た。

   私など、宝塚の田舎で、子供時代を過ごしたので、近所の農家の田植えを手伝ったり、畑仕事のイロハくらいは見よう見まねで覚えたし、季節の移ろいによって、自然がどんどん変わって行く姿を、田園地帯の生活で体験していた。
   塾もなければ、宿題などをした覚えもなく、毎日、野山を駆け回って遊び呆けていたのだが、その自然べったりの生活が、私を育ててくれたような気がしている。
   あまり自然との関りのない生活をしている孫には、少なくとも、子供の頃から、花や木の生長を実感しながら、自然と親しむことを教えたいと思っていたので、千葉に来ると、必ず、近くの田園地帯を散策したり、森や林、そして、森林公園などに連れて行って、花鳥風月の営みを実感させることにしていた。

   花鳥風月と言うと、何となく、文学的であり、芸術の香りがするのだが、それはそれで、高度な知的な感性の営みとして、ここでは、花や鳥や月と言った美しい自然の営みや景色を言っているのだが、切っ掛けは、球根から芽を出して綺麗なチューリップの花が咲くまでの移ろいに不思議を感じると言ったような身近なことでも良いと思う。
   万葉集や古今和歌集などを学んで、京都や奈良を歩いて、歌心を刺激されたのは、大学生以降だが、そんな高度な鑑賞眼に至らなくても、美しい花や鳥を見て感激し、月の煌々と照る曠野を見て哀れを感じ、爽やかな風に幸せを感じると言った、自然との触れ合いに、感じ入って心を動かされば、それで、十分だと思っている。
   しかし、自然と親しむといっても、やはり、それなりの心の準備や、姿勢、そして、勉強して学ぶことが必要なのである。

   私が、ガーデニングを含めてだが、花や鳥と言った自然との関りに興味を持ち始めて動き始めたのは、やはり、海外に出てからで、花の国オランダでの花との出会い、そして、ロンドン郊外のキューガーデンに住んで、メンバーチケットを持って、休みが取れれば週末に、世界最高と言われている植物園キューガーデンに通い詰めて、植物を観察し写真を撮り続けた、あの頃からだと思う。
   日本に帰国した年、家を建てた時に植えた乙女椿が大きくなっていて、ピンクのぽんぽんダリアように美しい花を見て感激して、それから、椿の花の栽培にのめりこんで行ったのだが、少しずつ、花や鳥など自然の営みに関心を持ち始めて行った。

   昔、若い頃に、京都や奈良などの名園などを訪れたり、欧米でも、素晴らしい庭園や植物園などを訪れたが、現在は、美しいとか素晴らしいと言った名園などには、殆ど関心がなくなり、どちらかと言えば、自然の雰囲気に浸りながら、その時々の印象なり感性を大切にして、自分なりに楽しんでいると言うことである。
   したがって、花鳥風月を愛すると言った大げさなことではなく、時には、私の小さな庭のガーデニングに没頭し、時には、植物園や公園に行ってどっぷり自然に浸り、時には、園芸店に出かけて、花や木を探すと言った身近な自然との関わりそのものが、楽しいのである。

   椿一つ取ってみても、非常にバリエーションに富んでいて、例えば、すぐに花弁が落ちる椿もあれば、寿命の長いものもある。
   しかし、どちらがどうと言うことではなく、綺麗に咲いて、花がすぐに落ちる玉之浦や小磯の落ち椿の風情は、格別である。
   淡いピンクの大輪の花弁を付ける曙椿や花富貴などは、実に優雅で美しいのだが、残念ながら、花弁が弱いのですぐに傷んで色が変わると、観賞価値が落ちてしまう。
   私の庭にあるだけでも、ほんの3~4センチくらいの小輪から15センチもある大輪まで、それも、一重もあれば八重もあり、色に至っては、白から濃赤までバリエーションは豊富である。
   これらを、集めて植えて見て、その成長と変化を観測しながら楽しむと言った身近なガーデニングでも、それなりに、楽しいのである。

(追記)写真は、匂い椿港の曙とめじろ
コメント
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