某社のBPO関係のセミナーで、中谷巌先生の講演「グローバル時代を勝ち抜くための日本企業の心構えとは」を聞いたのだが、相変わらず、アメリカかぶれからの転向を懺悔した「資本主義はなぜ自壊したのか」の延長線上の縄文12000年の歴史を持つ日本礼賛論に基づいた理論を展開していた。
バブル崩壊前後の日本の経済や企業の黄金時代を投影した日本の実力が、真の日本の実像であると言わんばかりに、それを生み出した日本の歴史や伝統、文化文明に培われた日本人の精神こそ、日本人の真の値打ちであり誇りであって、何でもかんでも、欧米のものを鵜呑みにして飛びついたり導入するのではなく、上手く日本化してきた歴史を踏まえるなど、日本の本当の良さを見直して回帰すべきであると言う論調である。
中谷先生の仰ることはそれなりに真実であろうし考慮に値するとは思うが、これは、ある意味では一方的な思い込みもあり、もし中谷日本礼賛論が真実であるとするならば、その日本の特質、日本を世界に冠たる経済大国に持ち上げたその要因こそが、時代の潮流に合わなくなって日本の今の苦境があるのであり、むしろ、そこからの脱却、そのリシェイプこそが必要ではないかと思っている。
中谷先生の論調については、これまで、何回も疑問を呈してきたが、たとえば、中谷先生の礼賛して止まない日本のものづくりの匠と工業製品の質の良さにしても、東京オリンピック前後には、日本製の鉄の質も国際水準に達せずトヨタ車さえ急坂を登れなかったし、私自身が大学生の頃には、まだ「made in Japan」は物まねの粗悪品の代名詞であったし(ドナルド・キーン先生がケンブリッジで、何故、猿真似の国の文学を勉強するのだと揶揄されたと語っていたのを以前に紹介したし)、伝統工芸は別として、日本が、高度な工業立国として世界に雄飛したのは、ほんの半世紀にも満たないのであって、縄文時代からの日本人に備わった特質でも何でもない。
そして、1960~70年代から快進撃を続けた日本経済を支えた終身雇用や従業員重視など一連の世界に誇るべき経済社会制度、企業経営の質の高さなども、その殆どは終戦後に生まれ出た日本の新しい伝統であって、それ以前とはかなり隔絶していて、まして、縄文時代の遺産である筈がない。
現在、官僚制度が叩かれている。エズラ・ヴォ―ゲルなどが説いたように、紛れもなく、日本を一等国にのし上げたのは官僚の力が大いに貢献していると思うが、今や、大前研一氏が指摘しているように、今回の屈辱とも言うべき菅・温家宝の廊下会談やレアアースなど一連の中国問題での不都合は、トップポストを民間の丹羽大使に与えた菅内閣に対する外務官僚の嫌がらせサボタージュだということだが、ここまでも、国益を無視した官僚の横暴が跡を絶たなくなるなど、官僚組織が制度疲労の極に達したと言うことで、如何に時代の潮流への逆行が恐ろしいことかを如実に物語っている。
これと同じことは、日本の経済界産業界にも言えることで、20世紀型の古い体質制度が、いまだに、支配的で、轟音を轟かせて進行しているグローバリゼーションと激変を続けている新経済社会への世界の潮流に乗れずに、キャッチアップ出来ずに取り残されてしまって、生産性も先進国の最低水準にまで下落し、日本企業の国際競争力の低下も極に達して、目も当てられない状況に堕ち込んでしまっているのである。
中谷先生は、欧米は、一神教の奴隷を前提とした階級社会の文化で、ビジネススクールでは、エリートが如何に人々を支配して統治するかを教えており、底辺を大切にして現場力を涵養する日本には、全く向かない学問であり、まして、工業大国日本産業が築き上げて来たコンセンサス重視の経営哲学にはマッチしないと言う。
したがって、ICT技術なども、そのまま取り入れるだけではダメで、日本の企業の経営に合った形で導入すべきだと言う。
しかし、私自身は、最新のICT技術のそのままの導入さえ、まともに出来ない状態であるにも拘わらず、(日本の場合も、まともにICT革命に乗れない故に国力経済力が低下しているのだが)、日本企業の多くが、時代の潮流に取り残されて時代遅れとなってしまった自社の経営システムに合わせて、無理にカスタマイズしてICT技術を導入していることこそ問題だと思っている。
ICTは、電気のようにゼネラル・パーパス・テクノロジーであるから、自由自在に活用すべきであって、自社独特のICTシステムに固守するなどは愚の骨頂で、グローバルスタンダードとなったオープン・ビジネス・システムに、出来るだけ乗らない限り企業の将来は暗いと言うべきであろう。
経営にしても、今、快進撃を続けて好業績を上げている企業の大半は、創業者などのワンマン、カリスマ経営者による強力なリーダーシップを発揮した欧米型のトップダウン経営が主流を占めており、プロ意識と能力の欠如した経営戦略なき古い形の経営集団に先導された前世紀型の製造業重視の日本経済界の地盤沈下の潮流は止めようもない状態である。
したがって、私自身は、今正に、丁度、龍馬の時代と同じ日本の危機の時代であって、日本の旧体制を根本から覆して新しい経済社会体制を築くべく平成維新を起こさない限り日本の明日はないであろうし、日本企業の経営においても、中谷先生が価値を置く時代遅れになった日本の経営哲学(あるとすればの話ではあるが)そのもの、あるいはその相当部分を、根本的に変える必要があると思っている。
経営学やICT技術は、あくまで、和魂洋才の洋才の様なものであって、まず、そのままの状態で飲み込むべきであって、飲み込めていない状態でどうこう言うべきではなかろう。後ろを振り返っている余裕など、全くなく、明治初期や終戦後に、ダボハゼのように旺盛に洋才を貪り食ったような我武者羅な精神が必要なのである。
先に述べたように日本企業の経営手法やシステム、あるいは、中谷先生の言う日本ないし日本人の特質の多くは、和魂の域には達していない傍流であって、歴史始まって以来の地滑り的なグローバルベースでの時代の潮流の変化に伍して行けないようなものは、どんどん捨て去って、ICT技術であろうと、最新の経営学であろうと、どんどん飲み込んで消化、かつ、昇華して、とにかく、出来るだけ早く、眠ってしまった日本を始動させるべきであると思う。
日本および日本人の価値ある特質にマッチした経営手法や技術の導入によって日本化して行くべきだと言う中谷先生の言は如何にも正しいように聞こえるが、その日本および日本人の特質の多くが、時代遅れでポンコツになっており、それが新しい歴史への息吹と胎動を邪魔しているのであって、それを捨て去って、グローバルベースで進行する新しい時代の潮流に同化しない限り、明日の日本はないと言うのが私の主張である。
日本に今必要なのは、過去の成功体験や成功体質の放棄であり、創造的破壊であるから、むしろ、極論すれば、過去の権威や特質は害になる。
誤解のないように付言しておきたいのは、私自身は、中谷先生のように、日本の素晴らしい文化や伝統、歴史的偉業や遺産などは勿論のこと、日本と日本人を限りなく誇りに思っていることは人後に落ちないと思っているし、和魂の大切さも十二分に認知しているつもりである。
日本の、そして、日本人の素晴らしさを誇り自覚して振る舞うことは大切だが、過度に美化して後ろ向きになることは、超音速で激変する今日では、むしろ明日の日本のために、危険すぎると言うことである。
バブル崩壊前後の日本の経済や企業の黄金時代を投影した日本の実力が、真の日本の実像であると言わんばかりに、それを生み出した日本の歴史や伝統、文化文明に培われた日本人の精神こそ、日本人の真の値打ちであり誇りであって、何でもかんでも、欧米のものを鵜呑みにして飛びついたり導入するのではなく、上手く日本化してきた歴史を踏まえるなど、日本の本当の良さを見直して回帰すべきであると言う論調である。
中谷先生の仰ることはそれなりに真実であろうし考慮に値するとは思うが、これは、ある意味では一方的な思い込みもあり、もし中谷日本礼賛論が真実であるとするならば、その日本の特質、日本を世界に冠たる経済大国に持ち上げたその要因こそが、時代の潮流に合わなくなって日本の今の苦境があるのであり、むしろ、そこからの脱却、そのリシェイプこそが必要ではないかと思っている。
中谷先生の論調については、これまで、何回も疑問を呈してきたが、たとえば、中谷先生の礼賛して止まない日本のものづくりの匠と工業製品の質の良さにしても、東京オリンピック前後には、日本製の鉄の質も国際水準に達せずトヨタ車さえ急坂を登れなかったし、私自身が大学生の頃には、まだ「made in Japan」は物まねの粗悪品の代名詞であったし(ドナルド・キーン先生がケンブリッジで、何故、猿真似の国の文学を勉強するのだと揶揄されたと語っていたのを以前に紹介したし)、伝統工芸は別として、日本が、高度な工業立国として世界に雄飛したのは、ほんの半世紀にも満たないのであって、縄文時代からの日本人に備わった特質でも何でもない。
そして、1960~70年代から快進撃を続けた日本経済を支えた終身雇用や従業員重視など一連の世界に誇るべき経済社会制度、企業経営の質の高さなども、その殆どは終戦後に生まれ出た日本の新しい伝統であって、それ以前とはかなり隔絶していて、まして、縄文時代の遺産である筈がない。
現在、官僚制度が叩かれている。エズラ・ヴォ―ゲルなどが説いたように、紛れもなく、日本を一等国にのし上げたのは官僚の力が大いに貢献していると思うが、今や、大前研一氏が指摘しているように、今回の屈辱とも言うべき菅・温家宝の廊下会談やレアアースなど一連の中国問題での不都合は、トップポストを民間の丹羽大使に与えた菅内閣に対する外務官僚の嫌がらせサボタージュだということだが、ここまでも、国益を無視した官僚の横暴が跡を絶たなくなるなど、官僚組織が制度疲労の極に達したと言うことで、如何に時代の潮流への逆行が恐ろしいことかを如実に物語っている。
これと同じことは、日本の経済界産業界にも言えることで、20世紀型の古い体質制度が、いまだに、支配的で、轟音を轟かせて進行しているグローバリゼーションと激変を続けている新経済社会への世界の潮流に乗れずに、キャッチアップ出来ずに取り残されてしまって、生産性も先進国の最低水準にまで下落し、日本企業の国際競争力の低下も極に達して、目も当てられない状況に堕ち込んでしまっているのである。
中谷先生は、欧米は、一神教の奴隷を前提とした階級社会の文化で、ビジネススクールでは、エリートが如何に人々を支配して統治するかを教えており、底辺を大切にして現場力を涵養する日本には、全く向かない学問であり、まして、工業大国日本産業が築き上げて来たコンセンサス重視の経営哲学にはマッチしないと言う。
したがって、ICT技術なども、そのまま取り入れるだけではダメで、日本の企業の経営に合った形で導入すべきだと言う。
しかし、私自身は、最新のICT技術のそのままの導入さえ、まともに出来ない状態であるにも拘わらず、(日本の場合も、まともにICT革命に乗れない故に国力経済力が低下しているのだが)、日本企業の多くが、時代の潮流に取り残されて時代遅れとなってしまった自社の経営システムに合わせて、無理にカスタマイズしてICT技術を導入していることこそ問題だと思っている。
ICTは、電気のようにゼネラル・パーパス・テクノロジーであるから、自由自在に活用すべきであって、自社独特のICTシステムに固守するなどは愚の骨頂で、グローバルスタンダードとなったオープン・ビジネス・システムに、出来るだけ乗らない限り企業の将来は暗いと言うべきであろう。
経営にしても、今、快進撃を続けて好業績を上げている企業の大半は、創業者などのワンマン、カリスマ経営者による強力なリーダーシップを発揮した欧米型のトップダウン経営が主流を占めており、プロ意識と能力の欠如した経営戦略なき古い形の経営集団に先導された前世紀型の製造業重視の日本経済界の地盤沈下の潮流は止めようもない状態である。
したがって、私自身は、今正に、丁度、龍馬の時代と同じ日本の危機の時代であって、日本の旧体制を根本から覆して新しい経済社会体制を築くべく平成維新を起こさない限り日本の明日はないであろうし、日本企業の経営においても、中谷先生が価値を置く時代遅れになった日本の経営哲学(あるとすればの話ではあるが)そのもの、あるいはその相当部分を、根本的に変える必要があると思っている。
経営学やICT技術は、あくまで、和魂洋才の洋才の様なものであって、まず、そのままの状態で飲み込むべきであって、飲み込めていない状態でどうこう言うべきではなかろう。後ろを振り返っている余裕など、全くなく、明治初期や終戦後に、ダボハゼのように旺盛に洋才を貪り食ったような我武者羅な精神が必要なのである。
先に述べたように日本企業の経営手法やシステム、あるいは、中谷先生の言う日本ないし日本人の特質の多くは、和魂の域には達していない傍流であって、歴史始まって以来の地滑り的なグローバルベースでの時代の潮流の変化に伍して行けないようなものは、どんどん捨て去って、ICT技術であろうと、最新の経営学であろうと、どんどん飲み込んで消化、かつ、昇華して、とにかく、出来るだけ早く、眠ってしまった日本を始動させるべきであると思う。
日本および日本人の価値ある特質にマッチした経営手法や技術の導入によって日本化して行くべきだと言う中谷先生の言は如何にも正しいように聞こえるが、その日本および日本人の特質の多くが、時代遅れでポンコツになっており、それが新しい歴史への息吹と胎動を邪魔しているのであって、それを捨て去って、グローバルベースで進行する新しい時代の潮流に同化しない限り、明日の日本はないと言うのが私の主張である。
日本に今必要なのは、過去の成功体験や成功体質の放棄であり、創造的破壊であるから、むしろ、極論すれば、過去の権威や特質は害になる。
誤解のないように付言しておきたいのは、私自身は、中谷先生のように、日本の素晴らしい文化や伝統、歴史的偉業や遺産などは勿論のこと、日本と日本人を限りなく誇りに思っていることは人後に落ちないと思っているし、和魂の大切さも十二分に認知しているつもりである。
日本の、そして、日本人の素晴らしさを誇り自覚して振る舞うことは大切だが、過度に美化して後ろ向きになることは、超音速で激変する今日では、むしろ明日の日本のために、危険すぎると言うことである。