8月の国立能楽堂の公演は、何時ものように、ほぼ4回の能・狂言の舞台ではなくて、夏スペシャルと言うことで、狂言と落語・講談と言う面白い組み合わせの公演である。
落語や講談は、国立演芸場で聞くことが多いのだが、能楽堂の松をバックにした舞台正面真ん中に置かれた釈台を叩きながらの講談や、場違いのような場所にぽつんと置かれた紫色の座布団で語る落語の一寸変わった雰囲気も、中々面白い。
やはり、客層が、能楽堂に通っている人の方が多いようなので、笑いの雰囲気が、落語などでは、一寸、演芸場のお客さんとは微妙に違っている感じがして興味深かった。
講談は、人間国宝一龍齋貞水の「鉢の木」。
能の「鉢木」を踏まえた作品で、執権北条時頼が、佐野源左衛門尉常世が傑出した人物であることを聞き、旅僧に身をやつして雪中を上野国佐野を訪れ、常世が、秘蔵の鉢木の梅、松、桜を、薪代わりに切って火にくべて暖を取らせると言う話である。
幸いにも、昨年12月に、この能楽堂で、能「鉢木」を鑑賞する機会があった。
シテ/佐野常世・野村四郎、ワキ/最明寺時頼・福王茂十郎。
一度は妻が宿りを断るのだが、能では、常世が、講談では、妹が連れ戻すところが違っているが、領地を一族に横領されて極貧生活に喘ぎながらも、貧しい中から粟飯炊いて供し秘蔵の鉢木を薪として僧を持て成す折り目正しい感動的なシーンはそのまま同じ。
諸国の武士が鎌倉に召集され、講談では、二階堂信濃守に迎えられて常世が時頼御前に案内されるところで終わっていたようだが、能では、痩せ馬にまたがり錆びた長刀を持ち、千切れた腹巻を着た常世が、時頼に召されて、梅・桜・松に因む新領を与えられると言う晴れ舞台で終わっていて、非常に清々しい。
貞水の講談は、本格的な講釈で、大部分、読み聞かせを主体にした流麗な文体ながらも古語調であったので、能楽堂の音響効果の所為か、やや、後方に座っていた所為か、私には、残念ながら、十分に聞き取れなかった。
この鉢の木の話は、子供の頃から聞いていて知っている話なので、能と講談で、鑑賞出来て幸運であった。
落語は、柳家さん喬の「死神」。
金の工面が出来なくて死のうと思っていた男が、死神に出会って金儲けの方法を指南されると言う話。
医者になり、病人の枕もとで、死神が枕元にいる時には寿命でダメで、足元にいる時には死神の教えた呪文を唱えれば死神が消えて回復させられると教えて、その通りに診断して大金持ちになる。
ところが、ある時、大金持ちの病気を治すことになったのだが、死神が枕元にいて助けることが出来ない。多額の礼金を積まれた男は、死神が眠っている間に、病人の布団をくるりと回して死神を退散させて大金を受け取る。
しかし、死神に、自分の命と交換にして命を助けたのであるから、お前の命は風前の灯の蝋燭だと消えかけた蝋燭を示されて、とうとう、誤って吹き消してしまう。
冒頭から、橋掛かりで演技を始めて、蝋燭を持って橋掛かりに消えると言う、舞台の照明をも小道具に使った面白い落語で、国立演芸場では見られない落語シーンであった。
狂言は、シテ/新発意・山本則俊、アド/住持・山本東次郎の「花折」。
能「西行桜」をパロディ的狂言に仕立てたと言う花見の話である。
寺の庭の桜が満開だが、何時も留守の時に、花見客で庭を荒らされるので、今回は、新発意(新米の僧)に、花見禁制だと言って出かける。
しかし、何時ものように、花見客がやって来たが断るのだが、門前で花見を始めたので、新発意は、仲間に加わりたくて、花にお神酒を上げよと言って、皆寺内に入れてしまって酒盛りを始める。花は神ではないと言われて、鼻紙(ハナガミ)と言うではないかと言うあたりの屁理屈が面白い。
酔った勢いで、帰り客に桜花を手折って土産にして持って帰らせ、寝込んでしまったところに、住持が帰って来て、散々荒らされた庭を見て、新発意を怒る。
あの棒縛や附子の話も同じだが、主人が、ダメだと言うことを、裏をかいて行い、太郎冠者や次郎冠者が、何かと理屈をつけて逃げまわると言う狂言の常套の話なのだろうが、とにかく、大名にしろ権威者にしろ上司にしろ、悪智慧を働かせてやり込めて笑い飛ばすと言う、逆転劇と言うか、ある意味では、下克上が面白い。
正味二時間程度で、バリエーションに富んだ夏の夜の催しとして面白いのだが、9時前の終演でも、能楽堂の外の夜風は、まだまだ、うだるように蒸し暑い。
落語や講談は、国立演芸場で聞くことが多いのだが、能楽堂の松をバックにした舞台正面真ん中に置かれた釈台を叩きながらの講談や、場違いのような場所にぽつんと置かれた紫色の座布団で語る落語の一寸変わった雰囲気も、中々面白い。
やはり、客層が、能楽堂に通っている人の方が多いようなので、笑いの雰囲気が、落語などでは、一寸、演芸場のお客さんとは微妙に違っている感じがして興味深かった。
講談は、人間国宝一龍齋貞水の「鉢の木」。
能の「鉢木」を踏まえた作品で、執権北条時頼が、佐野源左衛門尉常世が傑出した人物であることを聞き、旅僧に身をやつして雪中を上野国佐野を訪れ、常世が、秘蔵の鉢木の梅、松、桜を、薪代わりに切って火にくべて暖を取らせると言う話である。
幸いにも、昨年12月に、この能楽堂で、能「鉢木」を鑑賞する機会があった。
シテ/佐野常世・野村四郎、ワキ/最明寺時頼・福王茂十郎。
一度は妻が宿りを断るのだが、能では、常世が、講談では、妹が連れ戻すところが違っているが、領地を一族に横領されて極貧生活に喘ぎながらも、貧しい中から粟飯炊いて供し秘蔵の鉢木を薪として僧を持て成す折り目正しい感動的なシーンはそのまま同じ。
諸国の武士が鎌倉に召集され、講談では、二階堂信濃守に迎えられて常世が時頼御前に案内されるところで終わっていたようだが、能では、痩せ馬にまたがり錆びた長刀を持ち、千切れた腹巻を着た常世が、時頼に召されて、梅・桜・松に因む新領を与えられると言う晴れ舞台で終わっていて、非常に清々しい。
貞水の講談は、本格的な講釈で、大部分、読み聞かせを主体にした流麗な文体ながらも古語調であったので、能楽堂の音響効果の所為か、やや、後方に座っていた所為か、私には、残念ながら、十分に聞き取れなかった。
この鉢の木の話は、子供の頃から聞いていて知っている話なので、能と講談で、鑑賞出来て幸運であった。
落語は、柳家さん喬の「死神」。
金の工面が出来なくて死のうと思っていた男が、死神に出会って金儲けの方法を指南されると言う話。
医者になり、病人の枕もとで、死神が枕元にいる時には寿命でダメで、足元にいる時には死神の教えた呪文を唱えれば死神が消えて回復させられると教えて、その通りに診断して大金持ちになる。
ところが、ある時、大金持ちの病気を治すことになったのだが、死神が枕元にいて助けることが出来ない。多額の礼金を積まれた男は、死神が眠っている間に、病人の布団をくるりと回して死神を退散させて大金を受け取る。
しかし、死神に、自分の命と交換にして命を助けたのであるから、お前の命は風前の灯の蝋燭だと消えかけた蝋燭を示されて、とうとう、誤って吹き消してしまう。
冒頭から、橋掛かりで演技を始めて、蝋燭を持って橋掛かりに消えると言う、舞台の照明をも小道具に使った面白い落語で、国立演芸場では見られない落語シーンであった。
狂言は、シテ/新発意・山本則俊、アド/住持・山本東次郎の「花折」。
能「西行桜」をパロディ的狂言に仕立てたと言う花見の話である。
寺の庭の桜が満開だが、何時も留守の時に、花見客で庭を荒らされるので、今回は、新発意(新米の僧)に、花見禁制だと言って出かける。
しかし、何時ものように、花見客がやって来たが断るのだが、門前で花見を始めたので、新発意は、仲間に加わりたくて、花にお神酒を上げよと言って、皆寺内に入れてしまって酒盛りを始める。花は神ではないと言われて、鼻紙(ハナガミ)と言うではないかと言うあたりの屁理屈が面白い。
酔った勢いで、帰り客に桜花を手折って土産にして持って帰らせ、寝込んでしまったところに、住持が帰って来て、散々荒らされた庭を見て、新発意を怒る。
あの棒縛や附子の話も同じだが、主人が、ダメだと言うことを、裏をかいて行い、太郎冠者や次郎冠者が、何かと理屈をつけて逃げまわると言う狂言の常套の話なのだろうが、とにかく、大名にしろ権威者にしろ上司にしろ、悪智慧を働かせてやり込めて笑い飛ばすと言う、逆転劇と言うか、ある意味では、下克上が面白い。
正味二時間程度で、バリエーションに富んだ夏の夜の催しとして面白いのだが、9時前の終演でも、能楽堂の外の夜風は、まだまだ、うだるように蒸し暑い。