熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ミラノ・スカラ座・・・「ファルスタッフ」

2013年09月12日 | クラシック音楽・オペラ
   ミラノ・スカラ座のヴェルディ、それも、シェイクスピア原作の「ファルスタッフ」であるから、文句なしに観劇に出かけた。
   最近、ファルスタッフを観たのは、7年前のフィレンツェ歌劇場のライモンディの凄い「ファルスタッフ」と、作曲者は違うが、昨年ウィーン・フォルクスオーパーで、オットー・ニコライの「ウインザーの陽気な女房たち」。
   現地では、随分前に、ウィーン国立歌劇場やロンドンのロイヤル・オペラで素晴らしい舞台を観ているのだが、ロンドンのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)で、2度、シェイクスピア劇でも鑑賞しているので、私にとっては、かなり、お馴染みのオペラである。

   
   イギリスに赴任して、初めて、ロンドンのバービカン劇場で、RSCのシェイクスピア劇を観たのが、「ヘンリー4世」で、
   この時の重要登場人物が、怪しげなロンドンの下町で家来として仕えて、ハル王子に追剥強盗あらん限りの悪行を教え込む太鼓腹の放蕩無頼の巨漢がファルスタッフで、ハル王子がヘンリー五世になると即座にお払い箱となって野に下る、そんな無頼漢であった。
   肩書こそ騎士だが、国家の運命などわれ関せず、欲と言う欲はひとつ残らず味わい尽くし名誉心など一かけらもない勝手気ままな自由人で、居酒屋猪首亭に入り浸り。
   このヴェルディのオペラは、台本作者のヴォイトが、この「ヘンリー4世」と落ちぶれたファルスタッフを描いた「ヘンリー5世」のイメージを加味して、シェイクスピアの喜劇「ウインザーの陽気な女房たち」を下敷きにして書いたファルスタッフのオペラで、喜劇を書きたくてウズウズしていたヴェルディが、喜んで書いた80歳間近の最晩年の作品である。

   エリザベス女王も、このヘンリー4世をご覧になったのであろう。
   陛下は痛くご執心で、シェイクスピアに、ファルスタッフを主人公にして恋の物語を書けとお命じになって生まれたのがこの戯曲で、何故か、イギリスでは、ファルスタッフが、シェイクスピアの登場人物で、最も愛されているキャラクターだと言うから面白い。
   この口絵写真(旅行中に撮影)のスカラ座の前に立つヴェルディと同じように、シェイクスピアの故郷ストラトフォード・アポン・エイヴォンのRS劇場前広場にファルスタッフ像が立っている。

   さて、ヘンリー5世に追放されて流れ着いたのがウインザー。元より羽振りが良くないので、質の悪い子分を連れて来たが、彼らが窃盗や狼藉で静かな田舎町に騒動を巻き起こす。
   そんなところから、このオペラは始まるのだが、シェイクスピアの原作よりも、かなり、シンプルにして、
   ファルスタッフ(アンブロージョ・マエストリ)が、金蔓にしようと目論んで、名家で富裕なフォード夫人アリーチェ(バルバラ・フリットリ)とページ夫人メグ(ラウラ・ポルヴェッレッリ)に、同文のラブレーターを送り、ものにしようとするが、口説こうと訪問中に、逆に、夫フォード(マッシモ・カヴァレッティ)が帰って来たと大きな洗濯籠に入れられて、テムズ川に放り投げられ、これに懲りずに、また、夜の森でのデートに誘われて、妖精や化け物に変装した一同に散々とっちめられると言う話になっている。
   これに、フォードが、娘ナンエッタ(イリーナ・ルング)を医師カイウス(カルロ・ボージ)と結婚させようとするのだが、相思相愛のフェントン(アントニオ・ポーリ)との恋物語や、アリーチェからの逢引きの使者として口八丁手八丁の陽気なクイックリー夫人(バニエラ・バルチェッローナ)を登場させ、また、嫉妬深いフォードが、アリーチェの浮気を確かめるために、フォンターナと名乗ってファルスタッフを訪問し、アリーチェを口説いてくれと頼むと言う挿話が加わっている。

   この最後の件だが、ファルスタッフは、クイックリー夫人の色よいアリーチェからの誘いを聞いた後だから、もう、良いところまで行っていると返事するので、フォードは錯乱状態。舞台が一瞬暗くなって、フォードが歌いだすモノローグが、「夢か、うつつか・・・」悲劇「オテロ」のパロディだと言うから、晩年のヴェルディの冴えも流石である。

   このオペラの舞台は、ファルスタッフが逗留するイン・ガーター亭、フォード邸のDK、そして、最後は、ウインザーの森とペイジ邸の広間。
   ガーター亭は、どちらかと言えば、ロンドンのジェントイルマン・クラブを模した感じで一寸豪華過ぎる雰囲気で、フォード亭は至ってモダン。
   最後の妖精たちの舞う夜のウインザーの森は、それなりに雰囲気があって面白かったが、今まで、非常に美しくて幻想的な素晴らしい舞台を観ているので、一寸、印象が違った。

   「人々は、すべて、騙されて生きている」。「この世はすべて冗談、人間はみな道化」と言ったシェイクスピアの透徹した人生訓が、このオペラのエンディング。
   このオペラは、ベルカント風のアリアはなく、正に、音楽が奏でる演劇なのだが、夜の森の冒頭シーンで歌われるフェントンのソロ「唇をついて舞う喜びの歌」や、妖精の女王に扮したナンエッタのソロ「夏のそよ風に乗って」の美しさは、格別である。

   さて、前回は、イタリアの至宝ライモンディのファルスタッフだったが、
   今回は、1970年イタリアのパヴィア生まれで、ヴェルディの諸役を中心に世界の舞台で活躍中。なかでもファルスタッフは最大の当たり役だと言うマエストリ。豊かな声、自身も認めるファルスタッフそのもの(?)の堂々たる体躯、コミカルさをもちながらも人生の“哲学”を感じさせる奥深い表現など、当たり役として極められたファルスタッフが、聴衆をうならせるはず。 とHPで広報されているように、一寸、英国流シェイクスピア劇の雰囲気とは多少違う感じがするものの、理想的なファルスタッフで、最初から最後まで、楽しませてくれる。
   興味深いのはHPのインタビューで、
   「カーセンの演出ではファルスタッフをイタリアンではなく、ブリティッシュとしてとらえているという点で随分と考え方の違いがあった。カーセン演出はコミックでありながら、マリンコニック(哀愁)なところも大変意識していて、とても詩的に仕上がっていることを納得。第3 幕冒頭で、馬と対話するシーンで、それまでやりたい放題行動してきたファルスタッフがコミカルな表現からマリンコニックな表現に変わるところは人生を省みるようで、ファルスタッフを自分自身の作品だと言ったヴェルディ自身の人生にも重ねているように感じる。」と言っており、最晩年になって、ヴェルディが、何故、喜劇作品に挑戦したのか、その謎が解けそうで興味深い。

   普通は、前述のライモンディのように、ファルスタッフのイメージに合わせるべく、体躯や衣装に工夫をこらすのだが、ブッツケ本番、生身の体で、ファルスタッフを歌い演じきれる役者・歌手は稀有である。

   ヴェルディは、テノールではなく、バリトンを主役にオペラを書いており、もう一人の主役のバリトンが、フォードのカヴァレッティ。2004年にベルガモのドニゼッティ劇場でデビューして、スカラ座で「セビリャの理髪師」のフィガロも歌ったと言うから、まだ、若くて非常にエネルギッシュで、ガーター亭でのフォンターナになって、マエストリを相手に互角に渡り合うなど、将来が楽しみである。

   私が最も期待していたのが、アリーチェのフリットリで、前回のフィレンツェ歌劇場公演でも、ライモンディを相手に素晴らしい舞台を見せていた。
   その時の私の感想が、「フリットリのアリーチェだが、歌の上手さは抜群であり、その上に品があって実に優雅でコケテッシュ。何回か、RSCやオペラで他のフォード夫人を見ているが、これほどぴったりした役者は少ない。」

   クイックリー夫人のバルチェッローナ、注目の若手ルングとポーリが演じる若い恋人たちなど素晴らしい歌手たちも加わって繰り広げた珠玉のような、最高峰のスカラ座のファルスタッフ。
   何よりも、1975年イギリスのオックスフォード生まれで、サイモン・ラトルやクラウディオ・アッバードに薫陶を受けて、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのダニエル・ハーディングの素晴らしい指揮が、華を添えたことは間違いない。
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九月大歌舞伎・・・不知火検校

2013年09月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
  随分昔になるので、記憶は定かではないが、勝新太郎の映画で「不知火検校」を見た記憶がある。
   あまりにも凄惨な無頼漢の検校の話なので、好きなテーマではないが、何十年ぶりかの舞台と言うので、「悪の華相勤め申し候」と言う幸四郎の芝居を見たくて、新橋演舞場に出かけた。

   悪がきの頃から手癖の悪い富の市(幸四郎)は、鈴ヶ森で、癪に悩む旅人に出会い、療治の途中で懐の200両の大金に気づき、殺して奪う。それを目撃した生首の次郎(橋之助)が杉の市を脅したので山分け。その気風にほれ込んだ次郎は、江戸での再会を約し、掛守を証拠に、江戸の親分鳥羽屋丹治(彌十郎)を訪ねろと再会を約す。
   富の市が頭目になって、この二人と丹治の弟玉太郎(亀鶴)のタグチームが、江戸市中を盗賊として荒らしまわる。

   杉の市は、師匠の不知火検校から、旗本・岩瀬藤十郎(友右衛門)の奥方・浪江(魁春)からの借金30両を断るように頼まれて訪問すると、岩井は不在で、奥方の浪江に会うと、奥方の療治を条件に、検校は断ったが自分が無証文で貸すと言う。
   主のいない深夜、胸に手が入ると、当然の成り行き。一転俄かに掻き曇り雷鳴落雷の大嵐。裾を捲った富の市の手が奥に・・・舞台が真っ暗になって雷鳴と豪雨の音のみ。
   翌朝、帰って来た岩瀬を丸め込んで、昨夜預けた30両を返せと浪江に申しつけ、夫に内緒の借金なので狼狽する浪江を尻目に、ほくそ笑んで帰って行く。

   杉の市は、更に悪への欲望を満足させるためには地位が不可欠だと、不知火検校を殺し、自らが二代目を襲名しようと考えて、丹治と玉太郎を実行犯に選んで決行する。師匠を殺めようとする富の市に恐れをなした丹治は、富の市を殺そうとするが相手は上手。

   
   浮世絵画で名を成した湯島おはん(秀太郎)を妻にするが、指物師房五郎(翫雀)と言う愛人がいるのを知っていて、検校は、最高の長持を注文する。長持を製作している間も、二人は逢瀬を繰り返すので、出来上がった長持を見て、検校は誉めそやすが、お礼の療治と偽って針を刺して殺し、それを知って動転するおはんも絞め殺す。

   江戸城の御金蔵破りを目論む富の市は、御金蔵の取り締まり組頭となった岩瀬の療治のために、翌日、立派な駕籠に乗り、江戸城に向うが、祭の群衆で賑わう中を、寺社奉行石坂喜内(左團次)に囲まれて捕縛される。
   検校の悪行に怖気づいた玉太郎が、奉行に訴え出たのだが、捕縛されて花道を退場する検校の庶民を見下して馬鹿にした捨て台詞が、この舞台の悪の華たる検校の検校たる所以であろうが、私には、実に白々しくて空虚であった。

   私には、窃盗と人殺しの連続の舞台で、その殺伐さと無味乾燥ぶりに食傷気味だったのだが、面白かったのは、一寸不謹慎な表現をしたが、富の市が、岩瀬の奥方を籠絡させて行く場面で、魁春が、非常にオーソドックスなのだが、中々、品格と奥行きのある素晴らしい演技を披露していて上手いと思った。
   映画では、勝新太郎の奥方中村玉緒が演じたのだが、見ものであったであろう。

   
   何故だか分からないが、孝太郎のおはんの母おもとの秀太郎、おはんの愛人房五郎の翫雀も、三人とも関西の役者で固めていたのだが、雰囲気が違っていて面白かった。

   不知火検校のタイトルロールを演じた幸四郎だが、中々、駆け出しの按摩から貫録十分の検校まで、正に、緩急自在に、実に心地よい役作りの連続で、千両役者の風格であり、それに、時々、観客を喜ばせるアドリブ風のセリフや仕草のサービスぶりも堂に入っていて、中々のものである。
   ただ、私には、挿話が多すぎて、富の市や検校たちの悪辣ぶりや人殺しなど事件ばかりの連続で、南北張りのもう少し底の深い悪や心理描写などが欠けていて、もう一つ、感興が盛り上がらなかった。

   RSCのシェイクスピア劇と比べれば分かるが、シェイクスピア戯曲の場合には、非常に短い会話で舞台展開が激しいのだが、舞台を展開せずに同じ舞台上で、シーン転換を演じることが多い。
   ところが、歌舞伎の場合には、どうしても舞台がしっかりと組み立てられているので、バックを多少展開する程度では、追い付かずに、照明を消したり幕を引いたりするので、劇の流れが止まってしまうきらいがある。

   それに、シェイクスピアのオセロやハムレットなどの悲劇のように、深い心理描写や心の葛藤など人間の表現に深さがあるのだが、今回のように、悪業の連続で、見せる舞台に力点を置くと、どうしても、舞台シーンにばかり気が入って、物語を楽しむと言う芝居の楽しみが、少し薄れてしまう。
   私など、悪の華などと言う、悪を美しいと思うような感覚がないので、そう思うのかも知れないが、これが、歌舞伎の歌舞伎たる所以なのかも知れないと言う気持ちもしていて、一寸、複雑である。



   
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