国立能楽堂の開場三十周年記念公演の特別九月公演の最後は、狂言オンパレードである。
「夷大黒」「通円」「八尾」「祐善」「老武者」と言うかなり正統派の狂言で、シテが総て面を掛けて出て、囃子方や地謡も登場すると言う、能擬きに近い狂言もあって、非常に興味深かった。
笑いとか滑稽と言うだけではなく、能を本歌取りしたパロディ版もあって、一見だけでは、十分に消化できない感じの狂言もあって、多少、かってが違ったが、面白かった。
最後の一番長くて、大勢の人物が登場し、宴会や合戦場面も出て来る「老武者」が秀逸で、野村萬斎のシテ/祖父が中々魅せてくれて、私には、古典の狂言を越えて、良質な戯曲の舞台を観ているような感じがしたのだが、ロンドンでシェイクスピア演劇を学び、本格的な芝居の舞台でも活躍している萬斎の芸術的な深みだろうと思って観ていた。
人間国宝の万作が、後見に立ち小道具などの世話をしていた。
この「老武者」だが、老人たちの祖父軍と若者たちの若衆軍の争いが演じられるのだが、その元となるのは、稚児をめぐる争いだと言うのが興味深い。
中世には、美しい稚児をもて囃す風習があって、寺院で、僧侶の身の回りの世話や修業をする稚児である少年たちは、僧侶の恋の対象でもあったと言うのである。
この狂言は、曽我の里に住む稚児(金澤桂舟)とそのお供の三位(石田幸雄)が、お忍びで、鎌倉見物の途中、藤沢の宿に泊まるのだが、美しい稚児の宿泊を聞いた若者たちが、お盃を頂きたいと宿にやって来て宴会を始める。その宴会に加わろうと祖父が来るのだが、宿屋(福田博治)や若衆に追い返され、腹を立てた祖父が老人たちを引き連れてやって来て派手な合戦となる。
結局、最後は三位にいなされて両者が和解して、稚児を担ぎ上げて陽気に橋掛かりを引幕に消えて行く。
ところで、6月にも、中世の男色模様を扱った狂言「文荷」について書いたが、太郎冠者と次郎冠者が、主人が恋人の稚児に当てた手紙を届けに行く途中、粗相をする話だった。
また、片山幽雪の「関寺小町」を観た時も、関寺の住僧たちが寵愛する稚児を連れて登場し、老女小町が、稚児に酒を注がれてほろりとして優雅な舞に触発されて、よろよろしながらも、五節の舞を思いながら舞うと言うシーンがあるのだが、当時、乙女のように初々しく着飾った稚児に思いを馳せると言う男色趣味が普通であったと言う反映であろう。
あの能を大成した世阿弥さえも、義満の男色の相手だったと言うし、信長と蘭丸の男色関係も有名である。
私が最初に男色を知ったのは、プラトンからで、プラトニック・ラブ(Platonic love)と言うのは、「肉体的な欲求を離れた、精神的な愛」と言うことではなくて、男同士の愛で、プラトンの時代にはパイデラスティアー(paiderastia、少年愛)が一般的に見られ、プラトン自身も、若くて綺麗な少年を愛する男色者であったと言うことからである。
プラトンは『饗宴』の中で、男色者として肉体(外見)に惹かれる愛よりも精神に惹かれる愛の方が優れており、更に優れているのは、特定の1人を愛すること(囚われた愛)よりも、美のイデアを愛することであると説いてはいるのだが、これを、高度な哲学とみるかどうかは、人夫々であろう。
「夷大黒」は、男が、比叡山の三面の大黒天と西の宮の夷三郎を、しめ縄を張って勧請すると、両神が、トレードマーク通りの姿で登場し、それぞれの由来を語って、宝を授けると言うお目出度い話である。
「通円」は、能の「頼政」のパロディ版で、宇治橋で三百騎あまりの敵兵を迎え撃った合戦で負けて自害したと言う故事を踏まえて、通円という茶屋坊主が、宇治橋完成の時の供養の際に、大勢のお客にお茶を点てすぎて死んでしまったので、旅僧(千五郎)に、亡霊(茂山正邦)として現れて、その時の奮闘ぶりを再現して、舞って、弔いを頼んで消えて行くと言う夢幻能形式の舞台である。
詞章も「頼政」を文字っており、お茶を点てすぎて死んだと言うあり得ないような奇天烈なテーマで、滑稽な文句を踏まえて如何にも深刻そうな舞台を展開していると言う、ちぐはぐな可笑しみが、この狂言の味であろうか。
テレビでお馴染みの逸平が、所の者で、一寸出する。
「八尾」は、間抜けで如何にも人間らしい閻魔大王(野村又三郎)の話。
萬狂言で紹介した閻魔大王が博打打ちの亡者に負ける「博打十王」と前半は同じで、仏教信仰の発展で極楽へ行く死者が多くて、財政的に困窮を極めた閻魔大王が、自ら客引きのために、六道の辻に出かけて死者を待っていると、河内の国八尾の男(罪人)が来る。
罪人(井上松次郎)が八尾の地蔵から閻魔へ当てた手紙を携えてきており、その手紙には、この男は八尾の地蔵の檀那又五郎の小舅で、大スポンサーだから、極楽浄土へ送って欲しいと書いてある。
八尾の鬼である閻魔大王が、昔は、八尾の地蔵と良い仲であったと言う設定が面白く、地蔵から艶めかしい手紙を貰った閻魔大王は、ほろりとして、泣く泣く、男を極楽へ送ると言う、どこか憎めない人間らしい閻魔大王の話である。
この狂言も、地蔵は男であるから、前述の男色の話と同じで、地蔵は可愛かったのである。
「祐善」は、先の「通円」と同じ舞狂言と言うことだが、もっと能に近い本格的な夢幻能形式で、ワキツレ2人やアイまで登場する。
祐善は、傘張りながら、あまりにも傘張りが下手で、傘を張り死にしたと言う話なのだが、何故、日本一の傘張り下手と言う突拍子もないテーマが、狂言に成るのか。
祐善の最後の有様は、旅僧(善竹十郎)が供養中に、地謡の、傘づくしの謡をバックにして、祐善の霊(大藏千太郎)が舞い語りするのだが、「これぞまことの極楽世界の編傘や、南無阿弥傘のほのかに見えてぞ失せにける」のエンディングへの流れがしっくりこなかった。
いずれにしろ、これまで接し得なかったような狂言の世界を垣間見た感じの公演で、非常に勉強になり楽しませて貰った。
狂言の世界は、奥深いのであろうが、どこまで、真面目に鑑賞すべきなのか、一寸、考えさせられた一日でもあった。
「夷大黒」「通円」「八尾」「祐善」「老武者」と言うかなり正統派の狂言で、シテが総て面を掛けて出て、囃子方や地謡も登場すると言う、能擬きに近い狂言もあって、非常に興味深かった。
笑いとか滑稽と言うだけではなく、能を本歌取りしたパロディ版もあって、一見だけでは、十分に消化できない感じの狂言もあって、多少、かってが違ったが、面白かった。
最後の一番長くて、大勢の人物が登場し、宴会や合戦場面も出て来る「老武者」が秀逸で、野村萬斎のシテ/祖父が中々魅せてくれて、私には、古典の狂言を越えて、良質な戯曲の舞台を観ているような感じがしたのだが、ロンドンでシェイクスピア演劇を学び、本格的な芝居の舞台でも活躍している萬斎の芸術的な深みだろうと思って観ていた。
人間国宝の万作が、後見に立ち小道具などの世話をしていた。
この「老武者」だが、老人たちの祖父軍と若者たちの若衆軍の争いが演じられるのだが、その元となるのは、稚児をめぐる争いだと言うのが興味深い。
中世には、美しい稚児をもて囃す風習があって、寺院で、僧侶の身の回りの世話や修業をする稚児である少年たちは、僧侶の恋の対象でもあったと言うのである。
この狂言は、曽我の里に住む稚児(金澤桂舟)とそのお供の三位(石田幸雄)が、お忍びで、鎌倉見物の途中、藤沢の宿に泊まるのだが、美しい稚児の宿泊を聞いた若者たちが、お盃を頂きたいと宿にやって来て宴会を始める。その宴会に加わろうと祖父が来るのだが、宿屋(福田博治)や若衆に追い返され、腹を立てた祖父が老人たちを引き連れてやって来て派手な合戦となる。
結局、最後は三位にいなされて両者が和解して、稚児を担ぎ上げて陽気に橋掛かりを引幕に消えて行く。
ところで、6月にも、中世の男色模様を扱った狂言「文荷」について書いたが、太郎冠者と次郎冠者が、主人が恋人の稚児に当てた手紙を届けに行く途中、粗相をする話だった。
また、片山幽雪の「関寺小町」を観た時も、関寺の住僧たちが寵愛する稚児を連れて登場し、老女小町が、稚児に酒を注がれてほろりとして優雅な舞に触発されて、よろよろしながらも、五節の舞を思いながら舞うと言うシーンがあるのだが、当時、乙女のように初々しく着飾った稚児に思いを馳せると言う男色趣味が普通であったと言う反映であろう。
あの能を大成した世阿弥さえも、義満の男色の相手だったと言うし、信長と蘭丸の男色関係も有名である。
私が最初に男色を知ったのは、プラトンからで、プラトニック・ラブ(Platonic love)と言うのは、「肉体的な欲求を離れた、精神的な愛」と言うことではなくて、男同士の愛で、プラトンの時代にはパイデラスティアー(paiderastia、少年愛)が一般的に見られ、プラトン自身も、若くて綺麗な少年を愛する男色者であったと言うことからである。
プラトンは『饗宴』の中で、男色者として肉体(外見)に惹かれる愛よりも精神に惹かれる愛の方が優れており、更に優れているのは、特定の1人を愛すること(囚われた愛)よりも、美のイデアを愛することであると説いてはいるのだが、これを、高度な哲学とみるかどうかは、人夫々であろう。
「夷大黒」は、男が、比叡山の三面の大黒天と西の宮の夷三郎を、しめ縄を張って勧請すると、両神が、トレードマーク通りの姿で登場し、それぞれの由来を語って、宝を授けると言うお目出度い話である。
「通円」は、能の「頼政」のパロディ版で、宇治橋で三百騎あまりの敵兵を迎え撃った合戦で負けて自害したと言う故事を踏まえて、通円という茶屋坊主が、宇治橋完成の時の供養の際に、大勢のお客にお茶を点てすぎて死んでしまったので、旅僧(千五郎)に、亡霊(茂山正邦)として現れて、その時の奮闘ぶりを再現して、舞って、弔いを頼んで消えて行くと言う夢幻能形式の舞台である。
詞章も「頼政」を文字っており、お茶を点てすぎて死んだと言うあり得ないような奇天烈なテーマで、滑稽な文句を踏まえて如何にも深刻そうな舞台を展開していると言う、ちぐはぐな可笑しみが、この狂言の味であろうか。
テレビでお馴染みの逸平が、所の者で、一寸出する。
「八尾」は、間抜けで如何にも人間らしい閻魔大王(野村又三郎)の話。
萬狂言で紹介した閻魔大王が博打打ちの亡者に負ける「博打十王」と前半は同じで、仏教信仰の発展で極楽へ行く死者が多くて、財政的に困窮を極めた閻魔大王が、自ら客引きのために、六道の辻に出かけて死者を待っていると、河内の国八尾の男(罪人)が来る。
罪人(井上松次郎)が八尾の地蔵から閻魔へ当てた手紙を携えてきており、その手紙には、この男は八尾の地蔵の檀那又五郎の小舅で、大スポンサーだから、極楽浄土へ送って欲しいと書いてある。
八尾の鬼である閻魔大王が、昔は、八尾の地蔵と良い仲であったと言う設定が面白く、地蔵から艶めかしい手紙を貰った閻魔大王は、ほろりとして、泣く泣く、男を極楽へ送ると言う、どこか憎めない人間らしい閻魔大王の話である。
この狂言も、地蔵は男であるから、前述の男色の話と同じで、地蔵は可愛かったのである。
「祐善」は、先の「通円」と同じ舞狂言と言うことだが、もっと能に近い本格的な夢幻能形式で、ワキツレ2人やアイまで登場する。
祐善は、傘張りながら、あまりにも傘張りが下手で、傘を張り死にしたと言う話なのだが、何故、日本一の傘張り下手と言う突拍子もないテーマが、狂言に成るのか。
祐善の最後の有様は、旅僧(善竹十郎)が供養中に、地謡の、傘づくしの謡をバックにして、祐善の霊(大藏千太郎)が舞い語りするのだが、「これぞまことの極楽世界の編傘や、南無阿弥傘のほのかに見えてぞ失せにける」のエンディングへの流れがしっくりこなかった。
いずれにしろ、これまで接し得なかったような狂言の世界を垣間見た感じの公演で、非常に勉強になり楽しませて貰った。
狂言の世界は、奥深いのであろうが、どこまで、真面目に鑑賞すべきなのか、一寸、考えさせられた一日でもあった。