熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「船渡聟」&「無布施経」

2014年06月16日 | 能・狂言
   国立能楽堂公演に通っていると、原則的に能と狂言が、一曲ずつ演じられるので、能の場合には、「能を読む」や岩波の能楽鑑賞案内などを読んで予習して行くのだが、狂言の方は、何となく分かり易いと言う意識があって、ブッツケ本番で見ている。
   ところが、十分に曲の意図するところや面白さ滑稽さなどを理解するためには、やはり、それなりの準備が必要だと言うことを、最近、強く感じている。
   先月見た狂言が面白かったので、その舞台について、思い出してみたいと思う。

   コトバンクによると、狂言とは、猿楽のこっけいな物真似の要素が洗練されて、室町時代に成立したせりふ劇。
   文化デジタルライブラリーには、狂言は対話を中心としたせりふ劇です。大がかりな舞台装置は一切用いず、言葉やしぐさによってすべてを表現します。狂言の大きな特徴は「笑い」。中世の庶民の日常や説話などを題材に、人間の習性や本質をするどく切り取って、大らかな「笑い」や「おかしみ」にしてしまいます。太郎冠者を始め、様々な登場人物たちが織りなす物語。そこに描かれているのは現代にいたるまで変わらない、普遍的な人間の姿です。
   歌舞を中心とした優美な象徴劇・能に対し、写実的な演技によって、滑稽に人間の姿を描く喜劇・狂言。
   決して、そのような単純な説明で定義づけられるようなパーフォーマンス・アーツではないような気がしている。

   さて、インターネットを叩けば、演じられる狂言に関する資料はいくらでも探せるのだが、今のところ、纏まっているので、岩波講座の狂言鑑賞案内と台本を見るための岩波の狂言集などに頼っている。
   国立能楽堂では、能の場合には、前の席の背もたれの字幕案内を見れば良いのだが、狂言の場合には、アイ狂言も含めて、要約程度で詞章などは表示されないので、それに、語りだけでは理解し難かった部分を理解する為にも、狂言集は、非常に役に立っている。

   ところが、同じ演目であっても、大蔵流と和泉流(鷺流もあるが略する)とでは、場合によっては、台本自身も大きく違っていたりして面白い。
   今回、演出の様々な形と言う企画公演で、狂言「船渡婿」を大蔵流と和泉流に2夜に分けて演じられたのだが、残念ながら、私用で両方行けず、大蔵流の舞台だけを見た。
   岩波の狂言集も山本東次郎家の台本を底本にしていて、私が観たのも同じ大蔵流の茂山千五郎家の舞台であったので、殆ど同じで助かった。

   その前に理解しておかなければならないのは、狂言における聟入りは、結婚後初めて妻の実家に行く「聟入り」の儀式で、聟養子にはいることではなく、まず結婚ありきで、基本的に結婚後に行われていたと言うことであり、聟と舅が初対面だと言うことである。
   聟志願の者を含めて聟をシテとする狂言を聟狂言と言っており、何しろ初めてのことゆえ、何も知らない聟の無知や無才を笑い飛ばす主題が多いが、祝儀であるために、舅が聟の失敗をとりなすハッピーエンドとなる。

   聟入りに行く聟が,途中,渡し舟に乗る。酒好きの船頭が,聟がみやげに携えた酒樽に目をつけ,寒さに託けて無心する。飲ませなければ船を漕がないと言うので仕方なく酒を振る舞うのだが、聟本人も飲みたくなり酒盛りに興じて,ともに気持ち良くなって謡って舞い,船が岸に着くまでに酒樽を空けてしまう。そのまま舅の家へ持参するが,盃を交わす段になり,舅がその酒を使おうとするので、酒樽を受け取った太郎冠者に空樽だと悟られて,聟は大恥をかく。逃げる聟を舅が〈苦しうないことでござる)と追いかけて幕。
   これが、大蔵流なのだが、和泉流では、この船頭が、先刻酒を無心した客が、家をたずねてきた自分の聟だと分かり、面会を渋るも、妻と一計を案じてひげを落として対面し、顔を袖で隠し続けるのだが、見破られて大恥をかく。「面目ない」と舅は謝るが、「どうせ舅殿にお持ちした酒なので」ととりなして祝言の謡を謡う。
   主客逆転しているのが面白い。

   私が観た大蔵流の舞台は、シテ/聟 逸平、アド/舅 七五三、アド/太郎冠者 童司、アド/船頭 あきら であった。
   実際の親子である七五三と逸平の呼吸の合った滲み出るような滑稽さが、素晴らしく、逸平の飄々とした表情が、特に船頭、そして、太郎冠者との掛け合いに可笑しみを醸し出して面白かった。
   船頭の櫂の動きに合わせて、逸平は、体を逆方向に左右にリズミカルに動かせて、雰囲気を出しており、実に上手いと思ったのだが、
   千作が、「エーイ、エーイ」と船頭が向こうに押した時に、前に乗っている聟がふわっと反対側に動くのを、医学的にも合っていると岐阜の医科大の教授に褒められたと書いている。聟には後が見えないのだが、聟も船頭の漕ぐのに合わせて揺れなければならないので気をつけていたと言う。
   

   ところで、千作も万作も、船頭が好きだと言っており、万作は、シテが聟ではあるけれど、自分で船頭をシテにして演じていると言う。
   聟の持つ酒樽に目をつけて、寒さに震えながら飲みたい一心で、振舞ってくれるよう頼むのだが、聟も祝儀に持参する酒樽ゆえにおいそれとOKと言えない。飲めないとなると脅迫まがいになって、寒さで手が凍えたと言って櫓を離すので船は流れる。切羽詰った聟は、一口だけと言って振舞うが、二口になり三口になり、聟も辛抱できなくなって盃を受け、酔った二人は調子に乗って舞い謡い、酒樽を空にする。
   一口飲んで、御酒の風味はと聞かれて、ひいやりとしただけで風味など分からない、もう一つと言うあたり、庶民の心理描写が秀逸で、特に、その船頭が、訪ねる舅だったと言う捻った和泉流の話が面白い。

   その前に観たのが、和泉流の「無布施経」。
   シテ/住持 萬斎、 アド/施主 万作
   毎月檀家へ祈禱にきている僧が,読経を済ませて帰るとき,この日は、毎月出るはずの布施がない。これが例になっては困ると思って,施主に謎をかけて布施を出させようとする。引き返して来て、雑談や説法にかまけて、執拗に布施への暗示をくり返し,最後に、袈裟を落としたふりをして,自分の袈裟は、「フ、フ、ふせ縫い」になっていると言ったので,施主もようやく気がつき,布施を持ってくる。 ところが、今度は、僧の方がバツが悪くなって受け取ることが出来ないので、次で良いと断るのだが、施主が無理に胸元に布施を、さしこむと、隠していたなくした筈の袈裟がポロリと出て、僧は面目を失う。

   この狂言については、狂言二人三様の千作の巻に、載っていて、今回演じた万作、萬斎、それに、千作のコメントが面白い。
   流派によって宗旨が異なっていて、茂山へは浄土宗、野村家は法華宗だと言う。
   萬斎によると、千作は心の揺れよりも、布施を貰いたい強欲さの方に最後までポイントがあり、万作は、苦悩する人間タイプと言うか、「ハムレット」じゃないけれど、行きつ戻りつするところにポイントがあり、自分がやる時には、人間の真理みたいなところにスポットを当てると語っている。

   坊さんものは、人間ぽくって、結構好きだと言うのだが、それは、狂言だから、イカサマ山伏が多い様に、そうなるのであろう。
   三宅藤九郎のように、お坊さんらしい恰好をしてお坊さんらしく喋り、数珠を左の手首にかけて洒落たいでたちで演じ、万作の父は、坊さんらしい恰好をしては出るが、写実はしないで、思うがままに自分が好きなように喋っていたと言うことで、狂言師によって、演じ方が夫々違いがあるのだと言う。
   しかし、この狂言の住持は、大変な長台詞で、公演も40分くらい掛かっており、台詞の中に、布施フセと布施を匂わせる言葉を嵌め込んだ複雑な台詞の連続で、結構、難しいのではないかと思う。
   萬斎の坊さんは、やはり、一寸モダンと言うか、軽妙洒脱な感じの坊さんで、如何にも人間的で、宗教色や有難味などは殆どなく、淡白そののであった。
   
コメント (1)
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