今月の国立劇場の歌舞伎は、歌舞伎鑑賞教室公演で、解説・歌舞伎のみかた付きの「ぢいさんばあさん」で、中高校生や大人の団体鑑賞主体なので、一般客が端に押しやられた感じであるが、1公演だけなので、2時間くらいで終わり、他の予定と絡めると楽しめる。
私も、この日は、三菱商事の定時株主総会に出て、その後に、半蔵門へ向かった。
この「ぢいさんばあさん」は、森鴎外の簡潔な短編を、宇野信夫の作・演出で、味わいのあるほのぼのとした舞台にした歌舞伎で、ぢいさん美濃部伊織の中村橋之助とばあさん伊織妻るんの中村扇雀が、感動的な舞台を見せてくれる。
二年前に、新橋演舞場で、三津五郎の伊織、福助のるんで、同じ舞台を観た。
舞台セットも全く同じで、雰囲気も良く似ているのだが、役者が変わると、印象が、がらりと変わるのが面白い。
前の舞台で、伊織の義弟、すなわち、るんの弟宮重久右衛門を扇雀、伊織の同僚下嶋甚右衛門を橋之助が演じていたのだが、二人の先輩の舞台を観ていての今回の舞台であるから、思い入れも格別なのかも知れない。
新婚生活幸せいっぱいのおしどり夫婦に、運命の悪戯とも言うべき不幸が起こって、別れ別れになって、37年後に再会すると言う、胸の詰まるような人生だが、これ程心底から愛し合った夫婦があっただろうかと思えるほどの感動的な出会いで幕が下りる。
年老いて真っ白になった上品な老夫婦が、遠慮がちに再会し、互いに労わりながら手を握り合って、新しい人生への幸せをしみじみと噛み締めながら、見合わせる顔の神々しさ。
伊織が、怪我をした義弟宮重久右衛門(虎之介)の代わりに京のお役目に旅立ち、そこで、同僚下嶋甚右衛門(坂東亀三郎)と諍いを起して殺害し、その罪で越前へ預かりの身となり、37年後に妻るんと再会すると言う話。
下嶋との諍いは、伊織が寺町通の刀剣商の店で、質流れだと云う良い古刀を見出し、それを買いたく思ったが、代金百三十両がなかったので、下嶋に三十両借りたのだが、鴨川の料亭の床での刀の披露の宴会に、呼ばなかった下嶋がやって来て、口論の末に刃傷沙汰になる。
第1場は、生まれたばかりの子供を慈しみながらの旅立ち前日の伊織家、第2場は、京都鴨川床での事件、第3場は、37年ぶりの旧伊織邸での再会。真ん中の悪夢のような舞台を挟んで、予期せぬ事件で暗転した不運を乗り越えて、変らぬ純愛を貫き通した二人の魂の鼓動と沸々と心のそこから湧き上がる愛情の迸りが、何ものにも代えがたい感動を呼ぶ。
歌舞伎の舞台になるためには、森鴎外の短編「ぢいさんばあさん 」が、少し、芝居らしく脚色されている。
鴎外の小説では、舞台とは逆に、改修された伊織家にまず、おぢいさんが移り住み、2~3日後におばあさんがやって来てままごとのような生活が始まるところから書き起こされている。
舞台は、これを新婚生活から始めるのだが、伊織家の家を同じ家にしていて、その元の家での再会と言うことで、一層懐かしさと情趣を盛り上げ、その縁側に面して立つ桜の木に重要な役割を演じさせている。
京都での川床での宴会で、伊織がるんから送られて来た手紙に挟まれた桜の花びらを高台から散らすシーンが印象的だが、まだ若木だった桜の木が、37年後には大木になっていて、時の移り変わりと二人の再会をいやが上にも祝福する効果が出ていて好ましい。
それに、歌舞伎で登場させる義弟宮重久右衛門の子供である宮重久弥(中村国生)と妻きく(児太郎)が老夫婦を迎えるために、桜の枝に短冊を吊る脚色も情趣があって良い。
もう一つ、伊織が京に発つ時には、るんは妊娠中なのだが、舞台では、可愛い赤子にして登場させ、二人の別離の寂しさを強調している。
また、下嶋の扱いで、歌舞伎では、別れを惜しむべき旅立ちの前日に伊織を強引に碁につき合わせたり、最初から仲間内でも嫌われ者嫌な奴として扱われているのだが、小説では、鴨川の床の場での登場で、刀傷で2~3日後に亡くなることになっており、舞台のように、床から身を翻して川に落ちることにはなっていない。
もう一つ、伊織に、何かの拍子に、鼻に手を当てる癖を持たせて、37年後の再会で、お互いに遠慮がちにもじもじしていたのだが、伊織が、桜の木を見上げながら鼻に手を当てるのを見て、るんが、伊織だと分かって近づいて行くシーンなどは、代わらぬ二人の心を象徴しているようで面白い。
前にも引用したのだが、再会を果たした義弟邸内での二人について、鴎外は、” 爺いさんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへ婆さんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さい丸髷に結っていて、爺いさんに負けぬように品格が好い。婆あさんが来て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするような工合に拵えることになった。この翁媼二人の中の好いことは無類である。近所のものは、もしあれが若い男女であったら、どうも平気で見ていることが出来まいなどと云った。”と言って、平安無事な幸せそうな生活を描いており、
面白いのは、二人の人物描写で、”るんは美人と云う性たちの女ではない。体格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻へ抜けるように賢く、いつでもぼんやりして手を明けていると云うことがない。顔も觀骨がやや出張っているのが疵であるが、眉や目の間に才気が溢れて見える。伊織は武芸が出来、学問の嗜もあって、色の白い美男である。只この人には肝癪持と云う病があるだけである。”と書いていて、るんが、あまりにも健気に祖母に尽くすので、”伊織は好い女房を持ったと思って満足し、それで不断の肝癪は全く迹を斂めて、何事をも勘弁するようになった。”と言うのである。
このあたりの描写が、宇野信夫の劇心をいたく刺激して、あの素晴らしい老夫婦の再会と至福の新しい人生への旅立ちを演出させたのであろう。
今回の舞台で興味深かったのは、まだ、子供だと思っていた虎之介や国生が、素晴らしい役者の片鱗を見せていて、それなりに大人の雰囲気を出して舞台に溶け込んでいたことである。
虎之介が、実父の扇雀の姉を相手に、そして、国生が、実父の橋之助の伯父伊織や、従兄弟で先輩の児太郎の妻を相手にして、多少、背伸びをしながらも、重要な役割を演じられたのも、国立劇場の舞台であったから出来たのかも知れないが、非常に、好ましいことで、新鮮な楽しみを味わうことが出来たと思っている。
下嶋甚右衛門を演じた坂東亀三郎も、性格俳優ぶりを見せて、面白い舞台を演じていた。
私も、この日は、三菱商事の定時株主総会に出て、その後に、半蔵門へ向かった。
この「ぢいさんばあさん」は、森鴎外の簡潔な短編を、宇野信夫の作・演出で、味わいのあるほのぼのとした舞台にした歌舞伎で、ぢいさん美濃部伊織の中村橋之助とばあさん伊織妻るんの中村扇雀が、感動的な舞台を見せてくれる。
二年前に、新橋演舞場で、三津五郎の伊織、福助のるんで、同じ舞台を観た。
舞台セットも全く同じで、雰囲気も良く似ているのだが、役者が変わると、印象が、がらりと変わるのが面白い。
前の舞台で、伊織の義弟、すなわち、るんの弟宮重久右衛門を扇雀、伊織の同僚下嶋甚右衛門を橋之助が演じていたのだが、二人の先輩の舞台を観ていての今回の舞台であるから、思い入れも格別なのかも知れない。
新婚生活幸せいっぱいのおしどり夫婦に、運命の悪戯とも言うべき不幸が起こって、別れ別れになって、37年後に再会すると言う、胸の詰まるような人生だが、これ程心底から愛し合った夫婦があっただろうかと思えるほどの感動的な出会いで幕が下りる。
年老いて真っ白になった上品な老夫婦が、遠慮がちに再会し、互いに労わりながら手を握り合って、新しい人生への幸せをしみじみと噛み締めながら、見合わせる顔の神々しさ。
伊織が、怪我をした義弟宮重久右衛門(虎之介)の代わりに京のお役目に旅立ち、そこで、同僚下嶋甚右衛門(坂東亀三郎)と諍いを起して殺害し、その罪で越前へ預かりの身となり、37年後に妻るんと再会すると言う話。
下嶋との諍いは、伊織が寺町通の刀剣商の店で、質流れだと云う良い古刀を見出し、それを買いたく思ったが、代金百三十両がなかったので、下嶋に三十両借りたのだが、鴨川の料亭の床での刀の披露の宴会に、呼ばなかった下嶋がやって来て、口論の末に刃傷沙汰になる。
第1場は、生まれたばかりの子供を慈しみながらの旅立ち前日の伊織家、第2場は、京都鴨川床での事件、第3場は、37年ぶりの旧伊織邸での再会。真ん中の悪夢のような舞台を挟んで、予期せぬ事件で暗転した不運を乗り越えて、変らぬ純愛を貫き通した二人の魂の鼓動と沸々と心のそこから湧き上がる愛情の迸りが、何ものにも代えがたい感動を呼ぶ。
歌舞伎の舞台になるためには、森鴎外の短編「ぢいさんばあさん 」が、少し、芝居らしく脚色されている。
鴎外の小説では、舞台とは逆に、改修された伊織家にまず、おぢいさんが移り住み、2~3日後におばあさんがやって来てままごとのような生活が始まるところから書き起こされている。
舞台は、これを新婚生活から始めるのだが、伊織家の家を同じ家にしていて、その元の家での再会と言うことで、一層懐かしさと情趣を盛り上げ、その縁側に面して立つ桜の木に重要な役割を演じさせている。
京都での川床での宴会で、伊織がるんから送られて来た手紙に挟まれた桜の花びらを高台から散らすシーンが印象的だが、まだ若木だった桜の木が、37年後には大木になっていて、時の移り変わりと二人の再会をいやが上にも祝福する効果が出ていて好ましい。
それに、歌舞伎で登場させる義弟宮重久右衛門の子供である宮重久弥(中村国生)と妻きく(児太郎)が老夫婦を迎えるために、桜の枝に短冊を吊る脚色も情趣があって良い。
もう一つ、伊織が京に発つ時には、るんは妊娠中なのだが、舞台では、可愛い赤子にして登場させ、二人の別離の寂しさを強調している。
また、下嶋の扱いで、歌舞伎では、別れを惜しむべき旅立ちの前日に伊織を強引に碁につき合わせたり、最初から仲間内でも嫌われ者嫌な奴として扱われているのだが、小説では、鴨川の床の場での登場で、刀傷で2~3日後に亡くなることになっており、舞台のように、床から身を翻して川に落ちることにはなっていない。
もう一つ、伊織に、何かの拍子に、鼻に手を当てる癖を持たせて、37年後の再会で、お互いに遠慮がちにもじもじしていたのだが、伊織が、桜の木を見上げながら鼻に手を当てるのを見て、るんが、伊織だと分かって近づいて行くシーンなどは、代わらぬ二人の心を象徴しているようで面白い。
前にも引用したのだが、再会を果たした義弟邸内での二人について、鴎外は、” 爺いさんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへ婆さんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さい丸髷に結っていて、爺いさんに負けぬように品格が好い。婆あさんが来て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするような工合に拵えることになった。この翁媼二人の中の好いことは無類である。近所のものは、もしあれが若い男女であったら、どうも平気で見ていることが出来まいなどと云った。”と言って、平安無事な幸せそうな生活を描いており、
面白いのは、二人の人物描写で、”るんは美人と云う性たちの女ではない。体格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻へ抜けるように賢く、いつでもぼんやりして手を明けていると云うことがない。顔も觀骨がやや出張っているのが疵であるが、眉や目の間に才気が溢れて見える。伊織は武芸が出来、学問の嗜もあって、色の白い美男である。只この人には肝癪持と云う病があるだけである。”と書いていて、るんが、あまりにも健気に祖母に尽くすので、”伊織は好い女房を持ったと思って満足し、それで不断の肝癪は全く迹を斂めて、何事をも勘弁するようになった。”と言うのである。
このあたりの描写が、宇野信夫の劇心をいたく刺激して、あの素晴らしい老夫婦の再会と至福の新しい人生への旅立ちを演出させたのであろう。
今回の舞台で興味深かったのは、まだ、子供だと思っていた虎之介や国生が、素晴らしい役者の片鱗を見せていて、それなりに大人の雰囲気を出して舞台に溶け込んでいたことである。
虎之介が、実父の扇雀の姉を相手に、そして、国生が、実父の橋之助の伯父伊織や、従兄弟で先輩の児太郎の妻を相手にして、多少、背伸びをしながらも、重要な役割を演じられたのも、国立劇場の舞台であったから出来たのかも知れないが、非常に、好ましいことで、新鮮な楽しみを味わうことが出来たと思っている。
下嶋甚右衛門を演じた坂東亀三郎も、性格俳優ぶりを見せて、面白い舞台を演じていた。