昨年同様、今年も国立演芸場で、五代目圓楽一門会が開催されたが、二日目に、圓楽と好楽が高座に上がるので、聞きたくて出かけた。
この日は、朝から、「笑点」の録画があって、二人とも、その様子などをまくらに語っていた。
圓楽は、歌丸の司会の後釜として、国民の声が高かく、話があったが断ったのだと強調していた。
昇太や三平など若手たちでは、持たないので、フィクサー(黒幕)として、抑えのために残ったのだと言うことである。
まだ、「笑点」は、歌丸症候群で何となくテンポがついて行っていないようだが、卒業した歌丸師匠は、肩の荷が下りたのか、元気で活躍していて、少し肥えたようですねえと言ったら、100グラム増えたと言っていたと言う。
酸素吸入器を常備しているので、助けられて高座に上がるので、幕が揚がるとすでに座っていて、歩かなければ良いのだとも言う。
しかし、テレビでは、管を鼻につけた歌丸師匠の様子を見ているのだが、高座で語る姿は、艶のある凛とした語り口で、全く、老いや弱さを感じさせない程元気なので、びっくりする。
面白かったのは、65歳になると、急に、医療保険や介護について区役所から、通知が届いて、介護サポートのアンケートで、自分で銀行から預金を引き出せますかと言う問いがあって、「あれ以降、キャッシュカードは取り上げられてしまって・・・」と言って、客を笑わせていた。
語ったのは、新作落語であろうか。
「行ったり来たり」
ペットを飼っている隠居(?)の話だが、飼っている動物を、「行ったり来たり」とか「のらりくらり」と言った形で、動物の話をするので、その動物が、何なのかさっぱり分からなくて、客との、理屈には合っているような合っていないような頓珍漢な会話の連続なので、聞いている時には、面白いのだが、後で、どんな話だったか、メモを取っていないので、殆ど思い出せない。
日本語の不可思議と言うか、表現の豊かさ奥深さをパロディにした感じで、豆腐と納豆とは漢字があべこべだと言ったり、動物の動きを戯画化して、「のらりくらり」と表現するのも、考えてみれば、別に不思議はないのだが、意表を突いた笑いに面白さも、落語の醍醐味かも知れない。
客が、ペットを貰いたいと言ったので、オチは、「願ったりかなったり」。
これで、圓楽の高座は、二度目だが、語り口や話芸の冴えは、流石である。
好楽は、文枝の許可を貰ったと言って、文枝の新作落語「優しい言葉」を語った。
まくらは、弟弟子の圓楽に、65歳になっていない時に、四捨五入したら70歳だなどと言われたのだが、やっと、70歳になったと語り始めた。
「優しい話」は、やはり、夫婦の間の話なので、まくらの大半は、夫婦と家族の話で、ソクラテスの妻についても語った。
ソクラテスの妻クサンティッペは、悪妻の代名詞ともなるほど、悪妻として有名だが、ソクラテスも家を顧みず、哲学三昧に生きていたので、どっちもどっちだったのではなかろうか。
妻が、ソクラテスに、水、ないし、尿を頭からぶっかけたと言う話が伝わっているが、好楽は、この逸話を引いて、友が来て、何時間も哲学話に没頭しているので、頭にきた妻が、井戸から水を汲んできて、ソクラテスの頭からぶっかけたので、友が、酷いなあと言ったら、ソクラテスは、「嵐の後は、夕立が降る」と言ったと語っていた。
好楽の語り口は、東京表現で、江戸版の「優しい言葉」なので、頭の中で、大阪弁に切り替えて、聞いていると、以前に聞いた文枝の「別れ話は突然に」の舞台を思い出した。
上方落語が、江戸落語にアウフヘーベンしたケースが多いのだが、元の落語の根底にある上方生まれのドロッとした土の香りと言うか空気を醸し出すムードは、上方独特のものがあって、同じお笑いでもニュアンスが、微妙に違う。
好楽は、圓楽にはないが、文枝は気前よく自分の持ちネタを誰にでも自由に語らせてくれると言っていたが、文枝しか表現できない文枝の分身の様な噺のアヤがあるような気がしており、それをどのような形で、他の地方に移して、夫婦模様、家族模様を語り切るか。
さすがに、好楽で、素晴らしい標準版の「優しい言葉」を語って喜ばせてくれた。
これも、メモなしなので、うろ覚えの記録だが、
夫婦で商売を商っている男が、いつものように行き付けの飲み屋に行って、女将に、妻のことで愚痴をこぼす。
この対話の数々は、どこの家庭にもあるようなマンネリ化してしまって行き場のなくなった夫婦の不満の数々だが、好楽は、しみじみと語りながら笑いを誘う。
女将が、夫婦のよりを戻すためにと、「マドンナの宝石」のCDを渡して、この曲を聞かせながら、「ここへ来ないか、コーヒーを煎れよう」、「肩を揉もうか」、「腰をさすろうか」、と誘うと、女はほろりとするので、「しあわせだなあ。僕は、君と一緒にいる時が・・・」とつぶやき「アイラブユー」と言えば成功間違いなしだと指南する。
やる気になった男は、仕事が片付いた後で、「マドンナの宝石」をかけて、居住まいを正して口説き文句を語り始めるが、妻は孫の世話に帰ってしまっておらず、代わりに手伝いに来ていた次女にいなされてしまい、女将に失敗したと言うと、夫とうまくいくか行かないか賭けているのだから、もう一度やれとけしかけられる。
このシーンでは、下座から、カラヤンのCDであろうか、本当に、音楽が流れてきて、好楽が、うっとりとした面持ちで、語り始める。
涙を一杯貯めて顔をぬぐう妻。
「明日、病院に行こう」
「マドンナの宝石」の冒頭が、大音量で流れて、瞬時に、激しい打楽器の音。
この「マドンナの宝石」だが、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリが作曲した全3幕のオペラ「マドンナの宝石(I gioielli della Madonna」の間奏曲なのだが、オペラは、殆ど演じられないものの、時々、クラシックの名曲演奏会で聞けることがある素晴らしく美しい曲である。
マスネの「タイス」の瞑想曲や、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲など、憧れのマドンナと二人だけで聞くと至福の時を過ごせる素晴らしい曲もあり、カラヤンの「オペラ前奏曲、間奏曲集 」を聞くと、何故か、若かりし頃にタイムスリップして無性に懐かしくなるのが不思議である。
「新婚さんいらっしゃい!」で培った文枝の夫婦模様の面白さ凄まじさ、ほろりとさせて、どこかもの悲しい、浮気でもしないと、この夫婦の機微は、醸し出せないのかも知れないと思いながら聴いていた。
この日、面白かったのは、柳亭痴楽の「綴り方狂室」で話題になった「恋の山手線」を、富山出身の良楽が、現在バージョンに作り替えて語った「恋の北陸新幹線」。
国立演芸場のギャラよりも高い、大枚をはたいて往復する北陸新幹線の18の駅を数珠つなぎに語る「恋の旅路」を、痴楽の口調を真似て語り続けて、観客を喜ばせる熱演。
この日は、朝から、「笑点」の録画があって、二人とも、その様子などをまくらに語っていた。
圓楽は、歌丸の司会の後釜として、国民の声が高かく、話があったが断ったのだと強調していた。
昇太や三平など若手たちでは、持たないので、フィクサー(黒幕)として、抑えのために残ったのだと言うことである。
まだ、「笑点」は、歌丸症候群で何となくテンポがついて行っていないようだが、卒業した歌丸師匠は、肩の荷が下りたのか、元気で活躍していて、少し肥えたようですねえと言ったら、100グラム増えたと言っていたと言う。
酸素吸入器を常備しているので、助けられて高座に上がるので、幕が揚がるとすでに座っていて、歩かなければ良いのだとも言う。
しかし、テレビでは、管を鼻につけた歌丸師匠の様子を見ているのだが、高座で語る姿は、艶のある凛とした語り口で、全く、老いや弱さを感じさせない程元気なので、びっくりする。
面白かったのは、65歳になると、急に、医療保険や介護について区役所から、通知が届いて、介護サポートのアンケートで、自分で銀行から預金を引き出せますかと言う問いがあって、「あれ以降、キャッシュカードは取り上げられてしまって・・・」と言って、客を笑わせていた。
語ったのは、新作落語であろうか。
「行ったり来たり」
ペットを飼っている隠居(?)の話だが、飼っている動物を、「行ったり来たり」とか「のらりくらり」と言った形で、動物の話をするので、その動物が、何なのかさっぱり分からなくて、客との、理屈には合っているような合っていないような頓珍漢な会話の連続なので、聞いている時には、面白いのだが、後で、どんな話だったか、メモを取っていないので、殆ど思い出せない。
日本語の不可思議と言うか、表現の豊かさ奥深さをパロディにした感じで、豆腐と納豆とは漢字があべこべだと言ったり、動物の動きを戯画化して、「のらりくらり」と表現するのも、考えてみれば、別に不思議はないのだが、意表を突いた笑いに面白さも、落語の醍醐味かも知れない。
客が、ペットを貰いたいと言ったので、オチは、「願ったりかなったり」。
これで、圓楽の高座は、二度目だが、語り口や話芸の冴えは、流石である。
好楽は、文枝の許可を貰ったと言って、文枝の新作落語「優しい言葉」を語った。
まくらは、弟弟子の圓楽に、65歳になっていない時に、四捨五入したら70歳だなどと言われたのだが、やっと、70歳になったと語り始めた。
「優しい話」は、やはり、夫婦の間の話なので、まくらの大半は、夫婦と家族の話で、ソクラテスの妻についても語った。
ソクラテスの妻クサンティッペは、悪妻の代名詞ともなるほど、悪妻として有名だが、ソクラテスも家を顧みず、哲学三昧に生きていたので、どっちもどっちだったのではなかろうか。
妻が、ソクラテスに、水、ないし、尿を頭からぶっかけたと言う話が伝わっているが、好楽は、この逸話を引いて、友が来て、何時間も哲学話に没頭しているので、頭にきた妻が、井戸から水を汲んできて、ソクラテスの頭からぶっかけたので、友が、酷いなあと言ったら、ソクラテスは、「嵐の後は、夕立が降る」と言ったと語っていた。
好楽の語り口は、東京表現で、江戸版の「優しい言葉」なので、頭の中で、大阪弁に切り替えて、聞いていると、以前に聞いた文枝の「別れ話は突然に」の舞台を思い出した。
上方落語が、江戸落語にアウフヘーベンしたケースが多いのだが、元の落語の根底にある上方生まれのドロッとした土の香りと言うか空気を醸し出すムードは、上方独特のものがあって、同じお笑いでもニュアンスが、微妙に違う。
好楽は、圓楽にはないが、文枝は気前よく自分の持ちネタを誰にでも自由に語らせてくれると言っていたが、文枝しか表現できない文枝の分身の様な噺のアヤがあるような気がしており、それをどのような形で、他の地方に移して、夫婦模様、家族模様を語り切るか。
さすがに、好楽で、素晴らしい標準版の「優しい言葉」を語って喜ばせてくれた。
これも、メモなしなので、うろ覚えの記録だが、
夫婦で商売を商っている男が、いつものように行き付けの飲み屋に行って、女将に、妻のことで愚痴をこぼす。
この対話の数々は、どこの家庭にもあるようなマンネリ化してしまって行き場のなくなった夫婦の不満の数々だが、好楽は、しみじみと語りながら笑いを誘う。
女将が、夫婦のよりを戻すためにと、「マドンナの宝石」のCDを渡して、この曲を聞かせながら、「ここへ来ないか、コーヒーを煎れよう」、「肩を揉もうか」、「腰をさすろうか」、と誘うと、女はほろりとするので、「しあわせだなあ。僕は、君と一緒にいる時が・・・」とつぶやき「アイラブユー」と言えば成功間違いなしだと指南する。
やる気になった男は、仕事が片付いた後で、「マドンナの宝石」をかけて、居住まいを正して口説き文句を語り始めるが、妻は孫の世話に帰ってしまっておらず、代わりに手伝いに来ていた次女にいなされてしまい、女将に失敗したと言うと、夫とうまくいくか行かないか賭けているのだから、もう一度やれとけしかけられる。
このシーンでは、下座から、カラヤンのCDであろうか、本当に、音楽が流れてきて、好楽が、うっとりとした面持ちで、語り始める。
涙を一杯貯めて顔をぬぐう妻。
「明日、病院に行こう」
「マドンナの宝石」の冒頭が、大音量で流れて、瞬時に、激しい打楽器の音。
この「マドンナの宝石」だが、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリが作曲した全3幕のオペラ「マドンナの宝石(I gioielli della Madonna」の間奏曲なのだが、オペラは、殆ど演じられないものの、時々、クラシックの名曲演奏会で聞けることがある素晴らしく美しい曲である。
マスネの「タイス」の瞑想曲や、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲など、憧れのマドンナと二人だけで聞くと至福の時を過ごせる素晴らしい曲もあり、カラヤンの「オペラ前奏曲、間奏曲集 」を聞くと、何故か、若かりし頃にタイムスリップして無性に懐かしくなるのが不思議である。
「新婚さんいらっしゃい!」で培った文枝の夫婦模様の面白さ凄まじさ、ほろりとさせて、どこかもの悲しい、浮気でもしないと、この夫婦の機微は、醸し出せないのかも知れないと思いながら聴いていた。
この日、面白かったのは、柳亭痴楽の「綴り方狂室」で話題になった「恋の山手線」を、富山出身の良楽が、現在バージョンに作り替えて語った「恋の北陸新幹線」。
国立演芸場のギャラよりも高い、大枚をはたいて往復する北陸新幹線の18の駅を数珠つなぎに語る「恋の旅路」を、痴楽の口調を真似て語り続けて、観客を喜ばせる熱演。
