花は好きで、ガーデニングはやっているが、生け花には、全く縁がない私が、安達瞳子に関心を持ったのは、安達瞳子の著書「椿しらべ」を手元にしてからである。
長いヨーロッパ生活から帰国した時、わが庭で待ってくれていた乙女椿が、綺麗な花を咲かせてくれて、その優雅なピンクの美しさに感激して、それ以降、椿に入れ込んで、庭にも植え、鉢植えにもして、椿に囲まれた生活が始まり、その時に、「椿しらべ」に出合ったのである。
久しぶりに、この本を書棚の奥から取り出して、ページを繰っている時に、もう一度、安達瞳子の世界を振り返ろうと思って、この「安達瞳子の花一路」を読んだ。
「椿しらべ」は、安達瞳子が日本ツバキ協会会長であった頃1999年刊行の素晴らしい本で、以前に、大手術で入院した時に病院に持っていた唯一の本で、この本だけは、2冊持っている。
安達瞳子は、2006年に亡くなっているので、最晩年に開催された花芸展に、一度だけ行く機会があって、青竹を花生けにした椿を見て、感激した。
さて、この「花一路」だが、「美しい花、やさしい花、そして闘うつよき花。一筋に花と歩みつづけてたどりついた独自の世界--。」と帯にあり、安達瞳子が「この一冊によって、私自身自分の”半生”を整理し、明日の花芸研鑽の路を歩んでいきたいと心している」書いてあるので、殆ど、安達瞳子の自著と同じであろうと思って読んだ。
瞳子が、形式的技巧的な作風に陥っていた当時の華道界を嫌って独自の流派を起こした父安達潮花の功績として、植物の生態、形態に立脚した五つの基本花形を生み出したこと、日本の伝統的制止的な花の世界から脱却して自然の中の動きを原型とした「動の世界」を創造したこと、華道の教授法を改革して「一斉教授法」方式を導入したこと、を評価しており、鋏の音を子守歌に育った敬愛する父の元で修業を積み、後継者に指名されるのだが、
潮花の晩年の技巧的な花に疑問を持ち、戒めていた「技地獄」に陥っているように思えて、このままでは、「安達の花」はつぶれてしまうと危機感を抱いて、非常手段として、師であり父に抵抗して後継者である娘が家出・独立すると言う驚天動地の行動に出て、「安達瞳子政策室」を立ち上げた。
その後、潮花と兄の死去によって、結局、安達式挿花を統合して家元となって、跡を継いだ。
瞳子の生け花観は、生け花でも華道でもなく、「花芸」である。
それは、日本の伝統芸道「花道」の「花」と西洋の「芸術」意識に学ぶ意味での「芸」のそれぞれの長所を生かしたい、との思いから生まれた「花の芸術」、花芸なのである。
瞳子は、「花芸憲章」で、花芸は、日本の民族の美を愛する心の結晶、自然の心を活ける芸術、自然の心と一体になった造形、自然の四次元の生命のつりあいの表現、であると謳い上げて、芥川比呂志に示唆された「人生は戦いなり」と言うべき花一路の人生を突っ走って行った。
父潮花は、椿に魅せられて椿御殿を建て、瞳子は、桜に触発されて独自の道に飛び込み、晩年は緑に魅了されて竹に心血を注いだと言う。
潮花が、椿に魅せられたのは、銀座の骨董屋で見つけた「百椿図」が切っ掛けだが、このことは、「椿しらべ」に、何枚かの絵が掲載されて、3篇のエッセイも書かれていて知っていたが、偉大な花芸術家の、ライフワークとの運命的な遭遇が印象的であった。
桜を知り尽くした天下の桜守藤右衛門が、瞳子の個展を見て、「心の苦労を通り越した人。でないと、ああいう大胆な桜は生けられないと思ったね。・・・森の中の、山の中の一員として。そこから桜だけを上手につかみ出してくる。好きなように形を作ろうとすると無理が生まれるが相手を生かす。それができると言うのは、自然を知り尽くしているからでしょう。」と言ったと言うのだが、安達瞳子の凄さ素晴らしさを表現するのには、この言葉だけで十分であろう。
花に寄せる日本人の気持ちや姿勢、生活芸術へのアウフヘーベン、能や俳句に通じる日本芸術の粋である省略の美、自然に対しての素直に感動する心、等々、珠玉の様な安達瞳子の花芸への誘いが綴られていて感動的である。
私の場合、これからも花道には縁がないと思うが、欧米やあっちこっちで集めた花器や花瓶に、庭で咲いた花を適当に挿しているので、結構教えられることが多かった。
長いヨーロッパ生活から帰国した時、わが庭で待ってくれていた乙女椿が、綺麗な花を咲かせてくれて、その優雅なピンクの美しさに感激して、それ以降、椿に入れ込んで、庭にも植え、鉢植えにもして、椿に囲まれた生活が始まり、その時に、「椿しらべ」に出合ったのである。
久しぶりに、この本を書棚の奥から取り出して、ページを繰っている時に、もう一度、安達瞳子の世界を振り返ろうと思って、この「安達瞳子の花一路」を読んだ。
「椿しらべ」は、安達瞳子が日本ツバキ協会会長であった頃1999年刊行の素晴らしい本で、以前に、大手術で入院した時に病院に持っていた唯一の本で、この本だけは、2冊持っている。
安達瞳子は、2006年に亡くなっているので、最晩年に開催された花芸展に、一度だけ行く機会があって、青竹を花生けにした椿を見て、感激した。
さて、この「花一路」だが、「美しい花、やさしい花、そして闘うつよき花。一筋に花と歩みつづけてたどりついた独自の世界--。」と帯にあり、安達瞳子が「この一冊によって、私自身自分の”半生”を整理し、明日の花芸研鑽の路を歩んでいきたいと心している」書いてあるので、殆ど、安達瞳子の自著と同じであろうと思って読んだ。
瞳子が、形式的技巧的な作風に陥っていた当時の華道界を嫌って独自の流派を起こした父安達潮花の功績として、植物の生態、形態に立脚した五つの基本花形を生み出したこと、日本の伝統的制止的な花の世界から脱却して自然の中の動きを原型とした「動の世界」を創造したこと、華道の教授法を改革して「一斉教授法」方式を導入したこと、を評価しており、鋏の音を子守歌に育った敬愛する父の元で修業を積み、後継者に指名されるのだが、
潮花の晩年の技巧的な花に疑問を持ち、戒めていた「技地獄」に陥っているように思えて、このままでは、「安達の花」はつぶれてしまうと危機感を抱いて、非常手段として、師であり父に抵抗して後継者である娘が家出・独立すると言う驚天動地の行動に出て、「安達瞳子政策室」を立ち上げた。
その後、潮花と兄の死去によって、結局、安達式挿花を統合して家元となって、跡を継いだ。
瞳子の生け花観は、生け花でも華道でもなく、「花芸」である。
それは、日本の伝統芸道「花道」の「花」と西洋の「芸術」意識に学ぶ意味での「芸」のそれぞれの長所を生かしたい、との思いから生まれた「花の芸術」、花芸なのである。
瞳子は、「花芸憲章」で、花芸は、日本の民族の美を愛する心の結晶、自然の心を活ける芸術、自然の心と一体になった造形、自然の四次元の生命のつりあいの表現、であると謳い上げて、芥川比呂志に示唆された「人生は戦いなり」と言うべき花一路の人生を突っ走って行った。
父潮花は、椿に魅せられて椿御殿を建て、瞳子は、桜に触発されて独自の道に飛び込み、晩年は緑に魅了されて竹に心血を注いだと言う。
潮花が、椿に魅せられたのは、銀座の骨董屋で見つけた「百椿図」が切っ掛けだが、このことは、「椿しらべ」に、何枚かの絵が掲載されて、3篇のエッセイも書かれていて知っていたが、偉大な花芸術家の、ライフワークとの運命的な遭遇が印象的であった。
桜を知り尽くした天下の桜守藤右衛門が、瞳子の個展を見て、「心の苦労を通り越した人。でないと、ああいう大胆な桜は生けられないと思ったね。・・・森の中の、山の中の一員として。そこから桜だけを上手につかみ出してくる。好きなように形を作ろうとすると無理が生まれるが相手を生かす。それができると言うのは、自然を知り尽くしているからでしょう。」と言ったと言うのだが、安達瞳子の凄さ素晴らしさを表現するのには、この言葉だけで十分であろう。
花に寄せる日本人の気持ちや姿勢、生活芸術へのアウフヘーベン、能や俳句に通じる日本芸術の粋である省略の美、自然に対しての素直に感動する心、等々、珠玉の様な安達瞳子の花芸への誘いが綴られていて感動的である。
私の場合、これからも花道には縁がないと思うが、欧米やあっちこっちで集めた花器や花瓶に、庭で咲いた花を適当に挿しているので、結構教えられることが多かった。