先日、鎌倉文学館に行って、展示を見ていて、中村光夫のコーナーに、「ドナウ紀行」が展示されていたのだが、文学には縁のない私にも、これなら、読めると思って、早速、インターネットでアマゾンを叩いて、手に入れて読んだ。
昭和53年、1978年発行であるから、もう、40年ほど前の本で、
1977年2月に、雑誌「旅」の編集部の依頼で、ドナウ河を船で下って紀行文を書いた旅行記である。
中村光夫は、東大仏文を出てパリ大でも短期ながら学んだ文芸評論家であったので、ヨーロッパはかなり歩いたようだが、この旅では、ドイツ語が分からなくて苦労したと言う。
スポンサーが日本交通公社なので、同社の川田允が同行した二人旅である。
このドナウ紀行は、スタートがドイツのバッサウで、途中、ウィーン、ブダペストを経由して、バルカン半島を河口へ下り、ソ連領イズマーイルで乗り換えて、黒海に出て、イスタンブールで下船して、そこから、飛行機と列車で引き返して、ドナウの源流、そして、黒い森を訪ねると言う旅である。
私が歩いたのは、イスタンブール、黒い森、ウィーンとブダペストだけで、一度だけ、ウィーンでの所用の後、ブダペストへ出張しなければならなくなって、いつものように、飛行機ではなくて、ドナウ河を高速船で下ってブダペストまで行ったことがある。
中村光夫の場合には、ソ連の2千トン級の遊覧船であったと言うから展望も良く利いた船旅であったのであろうが、私の場合には、殆ど窓がなく高速で突っ走るシャトル便であったので、ドナウ河の船旅の楽しみは味わえなかった。
この紀行で、興味深いのは、ドナウ河の遊覧船を仕切っていたのは、ソ連で、旅客の大半はドイツ人で、外貨稼ぎ目的のために、すべて、ドイツ仕様で運営されていたと言う。
当時は、まだ、ベルリンの壁の崩壊前で、バッサウからウィーンまでは、自由圏であっても、チェコスロバキアのブラチスラバから下流の航路の大半は、東欧共産圏で、ソ連の支配地域であったのである。
ヨーロッパに住んで居たので、ウィーンは、出張と観光で、ブダペストは、出張で、夫々、5~6回訪れており、特に、ブダペストは、ベルリンの壁崩壊前、途中、崩壊後と訪れて、その激動をつぶさに観察する機会を得た。
仕事の関係で、あの華麗な国会議事堂に入って、議場で、ネーメト首相に会って話したのも懐かしい思い出である。
さて、この本の紀行記だが、ウィーンとブダペストについて、感想を書いてみたい。
ドナウを遊覧する船が寄港して、ポイントの都市を観光するので、2日滞船しても、実質観光に費やせる時間は、正味、1日あるかないかなので、今日の感覚では、殆ど、観光記事として読むと不十分である。
ウィーンだと、都心からかなり離れた北の郊外に着船する。半日バスツアーで、シェーンブラン宮殿を訪れて、ベルベデーレ宮殿に行ったが休館だったと言うことで、その後、船を離れて、宿泊先のインターコンチネンタルホテルへ行った。と言う。
不思議なのは、パリで一時住み、ヨーロッパを歩いている筈の中村光夫と交通公社の社員の川田允の旅行記を意図した旅でありながら、事前に調査もせずに地図も持たずにウィーンの街に出て、大きな教会に入ったのだが、後で調べたら、聖シュテファン寺院だったと言うのだから、驚く。
自分たち独自で行ったのは、映画「第三の男」のプラッターの観覧車だが、動いていなかったので諦めて帰って、探し当てたのは、ホテルで教えて貰った菓子店だけだったと言う。
私は、その少し前、1973年末から1974年初のクリスマス休暇に、留学中のフィラデルフィアから、家内と長女を伴ってこのウィーンも訪れて、2~3日ワーグナーが定宿にしていたと言うエリザベート・カイザリン・ホテルに滞在して、ウィーンの街を歩いて、宮殿は勿論、博物館・美術館を訪れて、ウィーン国立歌劇場で、恒例の大晦日の「こうもり」も鑑賞したし、観覧車にも乗った。
まだ、ミシュランのグリーン本を知らなかったので、交通公社のガイドブック「ヨーロッパ」を参考にした。
ブダペストは、都市の真ん中をドナウ河が流れていて、街の中心に着く。
右岸は、王宮のある高台のブダで、左岸に国会議事堂など政府機関やビジネス街が広がっているペストの街並みで、この方が生きたブダペストである。
しかし、私の時も、港は極めて貧弱で、国際河川ドナウの国境港と言うよりには、普通の船着場である。
中村光夫の旅は、今日出海の紹介で港に迎えに出た日本大使が、翌日昼の乗船まで、フルアテンドした旅であった。
大使館で、久しぶりの日本食と日本酒に感激して、ハンガリー特産のウートカに酔いしれてダウン、ハンガリアン・ダンスを見に行ったが、全く記憶がない。
大使館に宿泊して、翌朝早く、大使に高台に案内されてドナウを眼下に見下ろし、その後、王宮の丘にある展望所・漁夫の砦で時間を過ごして、ブダ地区を車で走り、ローマ時代の円形競技場に行った。
王宮には入らなかったようで、とにかく、2時間でブダペストを観光しようと言うのは、無茶な話で、車の渋滞で、正午発の乗船に間に合うか、やきもきしたと言う。
とにかく、ブダとペストを跨ぐ都心の橋は、天然記念物の様な歴史的なチェーンブリッジ一本だが、この橋を渡れないと、目の前の乗船場に行けない。
確かに、私もタクシーを諦めて、この橋を徒歩で渡った。
やはり、ハプスブルグ王朝時代、二重帝国の首都として栄えた街であった所為もあって、私の訪れたのは、戦争と共産革命でソ連に蹂躙されて廃墟に近かったブダペストだったが、風格のある素晴らしい都市であったのを思い出す。
ベルリンの壁が崩壊して、大分経ってから、プラハを再び訪れた時には、素晴らしい街に復興していて驚いたが、もう一度、ブダペストを訪れてみたいと思っている。
昭和53年、1978年発行であるから、もう、40年ほど前の本で、
1977年2月に、雑誌「旅」の編集部の依頼で、ドナウ河を船で下って紀行文を書いた旅行記である。
中村光夫は、東大仏文を出てパリ大でも短期ながら学んだ文芸評論家であったので、ヨーロッパはかなり歩いたようだが、この旅では、ドイツ語が分からなくて苦労したと言う。
スポンサーが日本交通公社なので、同社の川田允が同行した二人旅である。
このドナウ紀行は、スタートがドイツのバッサウで、途中、ウィーン、ブダペストを経由して、バルカン半島を河口へ下り、ソ連領イズマーイルで乗り換えて、黒海に出て、イスタンブールで下船して、そこから、飛行機と列車で引き返して、ドナウの源流、そして、黒い森を訪ねると言う旅である。
私が歩いたのは、イスタンブール、黒い森、ウィーンとブダペストだけで、一度だけ、ウィーンでの所用の後、ブダペストへ出張しなければならなくなって、いつものように、飛行機ではなくて、ドナウ河を高速船で下ってブダペストまで行ったことがある。
中村光夫の場合には、ソ連の2千トン級の遊覧船であったと言うから展望も良く利いた船旅であったのであろうが、私の場合には、殆ど窓がなく高速で突っ走るシャトル便であったので、ドナウ河の船旅の楽しみは味わえなかった。
この紀行で、興味深いのは、ドナウ河の遊覧船を仕切っていたのは、ソ連で、旅客の大半はドイツ人で、外貨稼ぎ目的のために、すべて、ドイツ仕様で運営されていたと言う。
当時は、まだ、ベルリンの壁の崩壊前で、バッサウからウィーンまでは、自由圏であっても、チェコスロバキアのブラチスラバから下流の航路の大半は、東欧共産圏で、ソ連の支配地域であったのである。
ヨーロッパに住んで居たので、ウィーンは、出張と観光で、ブダペストは、出張で、夫々、5~6回訪れており、特に、ブダペストは、ベルリンの壁崩壊前、途中、崩壊後と訪れて、その激動をつぶさに観察する機会を得た。
仕事の関係で、あの華麗な国会議事堂に入って、議場で、ネーメト首相に会って話したのも懐かしい思い出である。
さて、この本の紀行記だが、ウィーンとブダペストについて、感想を書いてみたい。
ドナウを遊覧する船が寄港して、ポイントの都市を観光するので、2日滞船しても、実質観光に費やせる時間は、正味、1日あるかないかなので、今日の感覚では、殆ど、観光記事として読むと不十分である。
ウィーンだと、都心からかなり離れた北の郊外に着船する。半日バスツアーで、シェーンブラン宮殿を訪れて、ベルベデーレ宮殿に行ったが休館だったと言うことで、その後、船を離れて、宿泊先のインターコンチネンタルホテルへ行った。と言う。
不思議なのは、パリで一時住み、ヨーロッパを歩いている筈の中村光夫と交通公社の社員の川田允の旅行記を意図した旅でありながら、事前に調査もせずに地図も持たずにウィーンの街に出て、大きな教会に入ったのだが、後で調べたら、聖シュテファン寺院だったと言うのだから、驚く。
自分たち独自で行ったのは、映画「第三の男」のプラッターの観覧車だが、動いていなかったので諦めて帰って、探し当てたのは、ホテルで教えて貰った菓子店だけだったと言う。
私は、その少し前、1973年末から1974年初のクリスマス休暇に、留学中のフィラデルフィアから、家内と長女を伴ってこのウィーンも訪れて、2~3日ワーグナーが定宿にしていたと言うエリザベート・カイザリン・ホテルに滞在して、ウィーンの街を歩いて、宮殿は勿論、博物館・美術館を訪れて、ウィーン国立歌劇場で、恒例の大晦日の「こうもり」も鑑賞したし、観覧車にも乗った。
まだ、ミシュランのグリーン本を知らなかったので、交通公社のガイドブック「ヨーロッパ」を参考にした。
ブダペストは、都市の真ん中をドナウ河が流れていて、街の中心に着く。
右岸は、王宮のある高台のブダで、左岸に国会議事堂など政府機関やビジネス街が広がっているペストの街並みで、この方が生きたブダペストである。
しかし、私の時も、港は極めて貧弱で、国際河川ドナウの国境港と言うよりには、普通の船着場である。
中村光夫の旅は、今日出海の紹介で港に迎えに出た日本大使が、翌日昼の乗船まで、フルアテンドした旅であった。
大使館で、久しぶりの日本食と日本酒に感激して、ハンガリー特産のウートカに酔いしれてダウン、ハンガリアン・ダンスを見に行ったが、全く記憶がない。
大使館に宿泊して、翌朝早く、大使に高台に案内されてドナウを眼下に見下ろし、その後、王宮の丘にある展望所・漁夫の砦で時間を過ごして、ブダ地区を車で走り、ローマ時代の円形競技場に行った。
王宮には入らなかったようで、とにかく、2時間でブダペストを観光しようと言うのは、無茶な話で、車の渋滞で、正午発の乗船に間に合うか、やきもきしたと言う。
とにかく、ブダとペストを跨ぐ都心の橋は、天然記念物の様な歴史的なチェーンブリッジ一本だが、この橋を渡れないと、目の前の乗船場に行けない。
確かに、私もタクシーを諦めて、この橋を徒歩で渡った。
やはり、ハプスブルグ王朝時代、二重帝国の首都として栄えた街であった所為もあって、私の訪れたのは、戦争と共産革命でソ連に蹂躙されて廃墟に近かったブダペストだったが、風格のある素晴らしい都市であったのを思い出す。
ベルリンの壁が崩壊して、大分経ってから、プラハを再び訪れた時には、素晴らしい街に復興していて驚いたが、もう一度、ブダペストを訪れてみたいと思っている。