熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

旧東海道・・・日本橋から銀座まで

2017年10月23日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   先日歩いた旧東海道の第一歩、まず、日本橋から銀座までの印象記を記して見たい。

   東海道は、律令時代に設けられた五畿七道の一つで歴史は古いのだが、我々の意識にあるのは、徳川家康が、1601年(慶長6年)に「五街道整備」により、五つの街道の一つとして、日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅を、53箇所置いて制定した東海道五十三次ではないかと思う。
   箱根と新居に関所を設けて、その後、1603年(慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備したと言うのだが、映画やテレビで記憶にある、参勤交代で、大名行列が行き来した旧東海道のイメージである。

   この日本橋の橋のたもとに、日本の道路の起点となる日本の道路元標が置かれている。
   この日本橋は、何も、東海道だけの起点ではないが、広重の日本橋図や童謡の「お江戸日本橋」は当然、東海道であろう。
   

   お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり 行列そろえて あれわいさのさ コチャ高輪 夜明けて 提灯消す(コチャエー コチャエー)
   夜明け前の4時に日本橋を出立すれば、高輪あたりまで来ると夜が白み始めるので提灯の灯を消すと言う。
   面白いのは、元々この歌は、東海道の宿場には、必ず、女郎(飯盛り女と言う)が居て、「こちゃえ、こちゃえ」、すなわち、「こっちへ、こっちえ」呼び込む声で、「こちゃえ節」だと言っていたと言うから、文部省も罪なことをしたものである。

   さて、今の日本橋だが、明治44年に、米元晉一が設計し、慶喜が橋名を揮毫した御影石の橋で、6本の橋塔には、東京市章を支えたブロンズ製のキリンやシシが置かれたルネサンス式の明治の文明開化を象徴したと言う立派な橋である。
   しかし、その上に、無粋な高速道路が走っていて風景をぶち壊しており、如何に、開発成長とは言え、当時の日本の文化意識や民度が低かったかと言うことを如実に示していて、悲しい限りである。
   道路元標の道路を隔てた対面に、江戸時代の魚河岸があったと言うことで、これが築地市場に移ったのだと言う。
   元々は、将軍家御用達の魚のための魚河岸であったのを、残り物を商ったと言うのだから面白い。
   
   
   

   京橋の手前に、江戸歌舞伎発祥の地がある。
   江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)に、京都からやってきた猿若勘三郎が中橋南地に、猿若座を立ち上げて、その後、中村勘三郎と名を変えたので、中村座となったのだが、今の木挽町の歌舞伎座とはかなり離れた距離にある。
   阿国が、慶長8年(1603年)に、京都河原町で、「かぶき踊」を始めたと言うから、江戸歌舞伎の幕開けも、それ程、上方と比べて遅いわけでもない。
   

   さて、中央通りの一丁目と二丁目の間のTiffanyビルの前あたりが、銀座の発祥地で、右手に記念碑が見える。
   家康が、駿府銀座をそのまま移したのだと言う。
   銀座は、連日大変な人込みだが、休日になると、銀座を歩いているのは、殆ど、中国人であるのが興味深い。
   
   
   
   

   ところで、銀座八丁目に銀座カフェーパウリスタがある。
   大隈重信らの助けを借りて、明治43年にブラジルサンパウロ州政庁専属ブラジル珈琲発売所「カフェーパウリスタ」を設立したと言う銀座初のコーヒーショップだと言うから、100年を超す老舗である。
   銀ブラと言う言葉の発祥は、このブラジル・コーヒー店からきていると言う説もあると言うから面白い。
   私も4年間サンパウロに居て、パウリスタに住んでいたので、ブラジルコーヒーはよく知っているが、この店では、どんなコーヒーがサーブされているのか興味がある。
   ブラジルコーヒーは、濃厚なエスプレッソで、デミタスカップ様の小さなカップに、同量くらいの砂糖を入れて飲むのだが、その砂糖をどの程度かき回して甘さを加減するのかが問題である。
   これを、訪れる家や事務所毎に、サーブされるので、最初の内は、甘くて美味しいと思ったが、体が持たなかった。
   このコーヒーを気楽に飲めるのが、日本のタバコ屋の様に街角に沢山あるバールで、ドトール・コーヒーは、この止まり木形式を模して100円コーヒーを始めた。
   このドトールが、銀座の一等地三愛ビルの1・2階を占めているのであるから、これも、時代の流れであろう。
   
   
コメント
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