増上寺への手前に、芝大神宮がある。
神社の由緒によると、
芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。と言うことで、随分古く、頼朝や家康も社参しており、関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として多くの崇拝を集めていると言う。
「厳粛」で「和やか」且つ「華やか」な神前結婚式を執り行います。と言うことで、当日も、本殿で結婚式が挙げられていた。
私の関心は、この芝大神宮が、歌舞伎でしばしば観る「め組の喧嘩」の舞台であったと言うことである。
芝大神宮境内で開催中だった相撲の春場所を、この界隈を管轄していため組が無銭見物しようとしたのが発端で起こっため組と相撲取りの喧嘩を主題にした歌舞伎で、「火事と喧嘩は江戸の華」と言うくらいであるから、芝居や講談のメインテーマとなるのは当然であろう。
神社の両脇を固める狛犬の台座石に「め組」と彫られていたのが面白かった。



大門を潜って、増上寺に向かった。
増上寺と言えば、徳川家の菩提寺。
時間も殆どなかったので、三解脱門を通り抜けて、右手に、鐘楼堂を仰ぎ、正面の石段を登って、巨大な大殿に入った。
殆ど参拝客がなく、広い堂内は、厳粛な静寂に包まれて、格別な雰囲気を醸し出していた。
正面には、木造阿弥陀如来坐像(本尊)が、薄暗い堂内に光を放ち荘厳な佇まいで、鎮座ましましておられる。
しばらく、堂内で思いを馳せ、雨の中に帰って行った。





三田駅にほど近い道路沿いに、三菱自動車ビルの前に、西郷南洲・勝海舟会見の地の記念碑が立っている。
東征軍の江戸城総攻撃を目前にした慶応4年(1868年)3月14日に、東征大総督府下参謀の西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談が、この田町にあった薩摩藩邸(蔵屋敷)で行われて、江戸開城が決定されたのである。
私の印象は、やはり、歌舞伎で観た、真山青果作の新歌舞伎の「江戸城総攻」三部作(連作)で、感動的な舞台である。
この時は、江戸の街は救われたが、馬鹿な戦争で、東京は火の海に包まれてしまった。


港区高輪二丁目まで来ると、石垣が残っていて、高輪大木戸跡がある。
ここは、東海道における、江戸府内への入口であり、京都へ上る出口として設けられた大木戸の跡で、元は街道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に大きな木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしていた。
江戸から旅立つ人は、いよいよ旅の始まりだと言う感慨に耽り、京から下ってきた人は、とうとう江戸に来たと言う喜びに浸った貴重な関門であったのであろう。
日本地図を作った伊能忠敬は、ここを全国測量の基点としたと言われている。

この大木戸からすぐのところに、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の墓地がある泉岳寺がある。
この萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を迎えて開山となったと言うから徳川家ゆかりの由緒正しい寺なのである。
また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから、元禄15年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるようになったと言う。
私も、イメージは、歌舞伎や文楽の世界からで、結局、この日は、ひげの梶さんの話を境内で聞いて、吉良の首を洗ったと言う首塚と大石内蔵助や主税などの墓を見ただけで寺を出た。
墓所の右側祠が内蔵助、左端の建屋が主税の墓で、その間に、他の義士の墓が立っている。







さて、品川駅から、大分、東海道を上ったところに、品川宿がある。
京急北品川駅近くの踏切近くに、観光地図の立て看板があって、そこから、京急新馬場駅の方向に向かって、旧東海道の品川宿が走っていたようで、今は、商店街が続いている。
途中にあったのは、家光と沢庵和尚が問答をしたと言う「問答河岸の碑」。
高杉晋作や久坂玄瑞たちが、御殿山のイギリス公使館焼き討ちの密議をした「土蔵相模跡」。
「日本橋より2里」の道標がある「品海公園」。
後は、延々と商店街が並んでいるのだが、江戸時代には、「こちゃえ、こちゃえ」の飯盛り女が手招く宿が軒を連ねていたと言う。
地方へ行くと、完全にシャッター通りなのだが、流石に、品川で、綺麗な商店街の町並みは生きている。






神社の由緒によると、
芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。と言うことで、随分古く、頼朝や家康も社参しており、関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として多くの崇拝を集めていると言う。
「厳粛」で「和やか」且つ「華やか」な神前結婚式を執り行います。と言うことで、当日も、本殿で結婚式が挙げられていた。
私の関心は、この芝大神宮が、歌舞伎でしばしば観る「め組の喧嘩」の舞台であったと言うことである。
芝大神宮境内で開催中だった相撲の春場所を、この界隈を管轄していため組が無銭見物しようとしたのが発端で起こっため組と相撲取りの喧嘩を主題にした歌舞伎で、「火事と喧嘩は江戸の華」と言うくらいであるから、芝居や講談のメインテーマとなるのは当然であろう。
神社の両脇を固める狛犬の台座石に「め組」と彫られていたのが面白かった。



大門を潜って、増上寺に向かった。
増上寺と言えば、徳川家の菩提寺。
時間も殆どなかったので、三解脱門を通り抜けて、右手に、鐘楼堂を仰ぎ、正面の石段を登って、巨大な大殿に入った。
殆ど参拝客がなく、広い堂内は、厳粛な静寂に包まれて、格別な雰囲気を醸し出していた。
正面には、木造阿弥陀如来坐像(本尊)が、薄暗い堂内に光を放ち荘厳な佇まいで、鎮座ましましておられる。
しばらく、堂内で思いを馳せ、雨の中に帰って行った。





三田駅にほど近い道路沿いに、三菱自動車ビルの前に、西郷南洲・勝海舟会見の地の記念碑が立っている。
東征軍の江戸城総攻撃を目前にした慶応4年(1868年)3月14日に、東征大総督府下参謀の西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談が、この田町にあった薩摩藩邸(蔵屋敷)で行われて、江戸開城が決定されたのである。
私の印象は、やはり、歌舞伎で観た、真山青果作の新歌舞伎の「江戸城総攻」三部作(連作)で、感動的な舞台である。
この時は、江戸の街は救われたが、馬鹿な戦争で、東京は火の海に包まれてしまった。


港区高輪二丁目まで来ると、石垣が残っていて、高輪大木戸跡がある。
ここは、東海道における、江戸府内への入口であり、京都へ上る出口として設けられた大木戸の跡で、元は街道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に大きな木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしていた。
江戸から旅立つ人は、いよいよ旅の始まりだと言う感慨に耽り、京から下ってきた人は、とうとう江戸に来たと言う喜びに浸った貴重な関門であったのであろう。
日本地図を作った伊能忠敬は、ここを全国測量の基点としたと言われている。

この大木戸からすぐのところに、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の墓地がある泉岳寺がある。
この萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を迎えて開山となったと言うから徳川家ゆかりの由緒正しい寺なのである。
また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから、元禄15年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるようになったと言う。
私も、イメージは、歌舞伎や文楽の世界からで、結局、この日は、ひげの梶さんの話を境内で聞いて、吉良の首を洗ったと言う首塚と大石内蔵助や主税などの墓を見ただけで寺を出た。
墓所の右側祠が内蔵助、左端の建屋が主税の墓で、その間に、他の義士の墓が立っている。







さて、品川駅から、大分、東海道を上ったところに、品川宿がある。
京急北品川駅近くの踏切近くに、観光地図の立て看板があって、そこから、京急新馬場駅の方向に向かって、旧東海道の品川宿が走っていたようで、今は、商店街が続いている。
途中にあったのは、家光と沢庵和尚が問答をしたと言う「問答河岸の碑」。
高杉晋作や久坂玄瑞たちが、御殿山のイギリス公使館焼き討ちの密議をした「土蔵相模跡」。
「日本橋より2里」の道標がある「品海公園」。
後は、延々と商店街が並んでいるのだが、江戸時代には、「こちゃえ、こちゃえ」の飯盛り女が手招く宿が軒を連ねていたと言う。
地方へ行くと、完全にシャッター通りなのだが、流石に、品川で、綺麗な商店街の町並みは生きている。






