今月の秀山祭歌舞伎で観たのは「昼の部」。
演目は、
祇園祭礼信仰記 金閣寺
鬼揃紅葉狩
天衣紛上野初花 河内山
当然、吉右衛門の大舞台であって、「河内山」も「俊寛」も何回か観ており、「俊寛」は、来月の国立劇場での芝翫の「俊寛」に期待していることもあって、今回は、吉右衛門自身が地で行って名演を見せる「河内山」と、五年ぶりに舞台復帰を遂げる福助の「金閣寺」の慶寿院尼を観たくて、「昼の部」に出かけた。
一日中雨が降って寒い日であり、こんな日は、観劇に限るのかも知れないが、その後、しばらく時間があったので、東京駅azoaの丸善で、本を探して過ごし、向かいの神戸ベーカリーで、軽食を取って、能楽堂に向かった。

吉右衛門は、歌舞伎美人で、「河内山」について、黙阿弥が講談を元に書いた作品で、「(それを芝居として)立体的にお見せするわけでございますから、皆さんに喜んでもらって最後に溜飲を下げていただくもの。巨悪に対する庶民の味方の悪人の生きざまが描かれた作品です。自分が楽しんでやらなければいけません。野村萬さんが和楽の気持ちという言葉をおっしゃったのを聞き、私も和楽の気持ちで河内山をやらせていただけたらと思っております」。と言っている。
和楽とは、「みんなでなごやかに楽しむこと」と言うことで、確かに、毒にも薬にもならないと言うか、人畜無害の芝居で、正体を暴かれても抗弁できずに、手も足も出せずに玄関口で見送る松江公以下重臣たちをしり目に、「馬鹿め!」と捨て台詞を残して花道を去って行く幕切れまで、とにかく、河内山宗春の小悪人らしからぬ悪賢さ、知恵と頓智に興味津々で、楽しい舞台である。
腰元に手を懸ける出雲守の一寸した出来心が天下の名藩松江18万石に傷が付くと、じわりじわりと慇懃無礼に甚振りながら締め上げる宗俊、威厳と強がりを見せながらも、切羽詰まってぐらりと揺れて臍を噛む松江候、その後、宗春は、饗応の御膳を拒否して、「山吹色のお茶」を所望して金を強請る強かさ、とにかく、ネズミを前にした猫を演じる宗春が痛快で面白い。
歌舞伎では、九代目市川團十郎がつとめた型が現在に伝わっていると言うから、これまでに、その芸の継承である團十郎、そして、最近では、海老蔵の河内山を観ており、そのほか、複数回観たのは、当然、吉右衛門で、それに、白鸚であるから、同じ伝統芸の舞台であろう。
この18万石を背負った色好みながら威厳と風格を備えた松江候を、幸四郎は、実に上手く演じていたが、その直前の舞台では、「鬼揃紅葉狩」で、妖艶で美しい更科の前と変身した戸隠山の鬼女を演じて観客を魅了していたのであるから、大した役者である。
「鬼揃紅葉狩」は、普通に演じられている歌舞伎の「紅葉狩」と一寸趣が異なっていて、能「紅葉狩-鬼揃」を、殆ど踏襲している松羽目ものの舞踊劇。
したがって、大きく違っているのは、後場では、更科姫の侍女たちも、みんな鬼になって、束になって、惟茂たちと立ち回りを演じると言う舞台で、冒頭のシーンも、更科姫たちが紅葉狩りの宴を張っているところに惟茂たちが行き会うのではなくて、惟茂たちの紅葉狩りに更科の前たちが行きかう。
厳つい隈取をしているのだが、女形の侍女たち(米吉、児太郎、宗之助)の、子供のように可愛い鬼たちの表情と姿が、ご愛敬である。
ストーリーは、
平維茂たちが、戸隠山で紅葉狩で憩っているところへ、美しくて妖艶な更科の前とその侍女たちが行き交う。女たちに酒宴に誘われた維茂は、誘いを受けて楽しむうちに眠りこけてしまう。寝込んだのを確認して、女たちが引っ込むと、男山八幡の末社の神が現れて、惟茂たたちを起こして妖魔を斃す刀を授けて去る。女たちは戸隠山の鬼女の正体を現して登場して、維茂たちを倒そうとと大立ち廻りを繰り広げる。
戸隠山の鬼女は、玉三郎の舞台が、今でも目に浮かぶほど印象的であったが、3年前に、染五郎時代の「紅葉狩」の更科姫を観ているので、幸四郎の妖艶な女形は、久しぶりである。
最初に幸四郎の女形を観たのは、もう、30年ほども前のロンドンでの公演「葉武列土倭錦絵(はむれっとやまとのにしきえ)」で、染五郎は、確か、ハムレットとオフェリアを演じた筈で、そのオフェリアの赤姫姿を見たように記憶しているが、二十歳前だったと思うので、美しかった筈である。
その後、「春興鏡獅子」のお小姓弥生を観ており、とにかく、高麗屋の艶やかな女形は貴重だが、新しい染五郎にも、大いに期待できるのではないかと思っている。
相変わらず、惟茂の錦之助の男ぶり、侍女かえでの高麗蔵の風格、が素晴らしい。
豪華絢爛な義太夫狂言の傑作と言う「金閣寺」。
今回は、三姫の一人と言う雪姫を、先代芝翫の孫、福助の長男の児太郎が、挑戦し、福助が、5年ぶりに復帰すると言う記念の舞台である。
児太郎は、流石に、両先輩の薫陶を受けた成駒屋の伝統の芸を踏襲し披露して、しっとりとした素晴らしい舞台を務めあげて感動的。降りしきる桜吹雪に浮かび上がる、桜の木に縛り付けられて優雅に独演する雪姫の姿が、正に、浮世絵錦絵の世界である。
幽閉されていた慶寿院尼役の福助が登場すると満場の拍手喝さい、凛とした口調も、美しくて品のある風貌も、以前と全く変わらず、ただ、まだ、右手と足が不自由のようで、左手で数珠を捧げ持っていた。
児太郎の雄姿を眺めながら、歌右衛門・福助のダブル襲名披露の舞台が待ち遠しいと思った。
舞台を支えたのは、此下東吉 実は 真柴久吉を演じた梅玉の貫禄と風格、そして、松永大膳を演じた松緑の偉丈夫などベテランの演技。
とにかく、楽しい秀山祭のひと時であった。

演目は、
祇園祭礼信仰記 金閣寺
鬼揃紅葉狩
天衣紛上野初花 河内山
当然、吉右衛門の大舞台であって、「河内山」も「俊寛」も何回か観ており、「俊寛」は、来月の国立劇場での芝翫の「俊寛」に期待していることもあって、今回は、吉右衛門自身が地で行って名演を見せる「河内山」と、五年ぶりに舞台復帰を遂げる福助の「金閣寺」の慶寿院尼を観たくて、「昼の部」に出かけた。
一日中雨が降って寒い日であり、こんな日は、観劇に限るのかも知れないが、その後、しばらく時間があったので、東京駅azoaの丸善で、本を探して過ごし、向かいの神戸ベーカリーで、軽食を取って、能楽堂に向かった。

吉右衛門は、歌舞伎美人で、「河内山」について、黙阿弥が講談を元に書いた作品で、「(それを芝居として)立体的にお見せするわけでございますから、皆さんに喜んでもらって最後に溜飲を下げていただくもの。巨悪に対する庶民の味方の悪人の生きざまが描かれた作品です。自分が楽しんでやらなければいけません。野村萬さんが和楽の気持ちという言葉をおっしゃったのを聞き、私も和楽の気持ちで河内山をやらせていただけたらと思っております」。と言っている。
和楽とは、「みんなでなごやかに楽しむこと」と言うことで、確かに、毒にも薬にもならないと言うか、人畜無害の芝居で、正体を暴かれても抗弁できずに、手も足も出せずに玄関口で見送る松江公以下重臣たちをしり目に、「馬鹿め!」と捨て台詞を残して花道を去って行く幕切れまで、とにかく、河内山宗春の小悪人らしからぬ悪賢さ、知恵と頓智に興味津々で、楽しい舞台である。
腰元に手を懸ける出雲守の一寸した出来心が天下の名藩松江18万石に傷が付くと、じわりじわりと慇懃無礼に甚振りながら締め上げる宗俊、威厳と強がりを見せながらも、切羽詰まってぐらりと揺れて臍を噛む松江候、その後、宗春は、饗応の御膳を拒否して、「山吹色のお茶」を所望して金を強請る強かさ、とにかく、ネズミを前にした猫を演じる宗春が痛快で面白い。
歌舞伎では、九代目市川團十郎がつとめた型が現在に伝わっていると言うから、これまでに、その芸の継承である團十郎、そして、最近では、海老蔵の河内山を観ており、そのほか、複数回観たのは、当然、吉右衛門で、それに、白鸚であるから、同じ伝統芸の舞台であろう。
この18万石を背負った色好みながら威厳と風格を備えた松江候を、幸四郎は、実に上手く演じていたが、その直前の舞台では、「鬼揃紅葉狩」で、妖艶で美しい更科の前と変身した戸隠山の鬼女を演じて観客を魅了していたのであるから、大した役者である。
「鬼揃紅葉狩」は、普通に演じられている歌舞伎の「紅葉狩」と一寸趣が異なっていて、能「紅葉狩-鬼揃」を、殆ど踏襲している松羽目ものの舞踊劇。
したがって、大きく違っているのは、後場では、更科姫の侍女たちも、みんな鬼になって、束になって、惟茂たちと立ち回りを演じると言う舞台で、冒頭のシーンも、更科姫たちが紅葉狩りの宴を張っているところに惟茂たちが行き会うのではなくて、惟茂たちの紅葉狩りに更科の前たちが行きかう。
厳つい隈取をしているのだが、女形の侍女たち(米吉、児太郎、宗之助)の、子供のように可愛い鬼たちの表情と姿が、ご愛敬である。
ストーリーは、
平維茂たちが、戸隠山で紅葉狩で憩っているところへ、美しくて妖艶な更科の前とその侍女たちが行き交う。女たちに酒宴に誘われた維茂は、誘いを受けて楽しむうちに眠りこけてしまう。寝込んだのを確認して、女たちが引っ込むと、男山八幡の末社の神が現れて、惟茂たたちを起こして妖魔を斃す刀を授けて去る。女たちは戸隠山の鬼女の正体を現して登場して、維茂たちを倒そうとと大立ち廻りを繰り広げる。
戸隠山の鬼女は、玉三郎の舞台が、今でも目に浮かぶほど印象的であったが、3年前に、染五郎時代の「紅葉狩」の更科姫を観ているので、幸四郎の妖艶な女形は、久しぶりである。
最初に幸四郎の女形を観たのは、もう、30年ほども前のロンドンでの公演「葉武列土倭錦絵(はむれっとやまとのにしきえ)」で、染五郎は、確か、ハムレットとオフェリアを演じた筈で、そのオフェリアの赤姫姿を見たように記憶しているが、二十歳前だったと思うので、美しかった筈である。
その後、「春興鏡獅子」のお小姓弥生を観ており、とにかく、高麗屋の艶やかな女形は貴重だが、新しい染五郎にも、大いに期待できるのではないかと思っている。
相変わらず、惟茂の錦之助の男ぶり、侍女かえでの高麗蔵の風格、が素晴らしい。
豪華絢爛な義太夫狂言の傑作と言う「金閣寺」。
今回は、三姫の一人と言う雪姫を、先代芝翫の孫、福助の長男の児太郎が、挑戦し、福助が、5年ぶりに復帰すると言う記念の舞台である。
児太郎は、流石に、両先輩の薫陶を受けた成駒屋の伝統の芸を踏襲し披露して、しっとりとした素晴らしい舞台を務めあげて感動的。降りしきる桜吹雪に浮かび上がる、桜の木に縛り付けられて優雅に独演する雪姫の姿が、正に、浮世絵錦絵の世界である。
幽閉されていた慶寿院尼役の福助が登場すると満場の拍手喝さい、凛とした口調も、美しくて品のある風貌も、以前と全く変わらず、ただ、まだ、右手と足が不自由のようで、左手で数珠を捧げ持っていた。
児太郎の雄姿を眺めながら、歌右衛門・福助のダブル襲名披露の舞台が待ち遠しいと思った。
舞台を支えたのは、此下東吉 実は 真柴久吉を演じた梅玉の貫禄と風格、そして、松永大膳を演じた松緑の偉丈夫などベテランの演技。
とにかく、楽しい秀山祭のひと時であった。
