熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

我、狂言たれ―又三郎家の楽屋裏でござる

2019年05月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   能楽堂で、結構、野村又三郎の狂言を観ているので、この本を興味深く読んだ。
   又三郎は、狂言和泉流三派:山脇、三宅、野村の一つ野村派の野村又三郎家の当主で、2011年5月に、十四世・野村又三郎を襲名しており、その時に出版された本である。

   400年の歴史を持つ野村派の旗頭でありながら、まだ、一門は小規模なのだが、本拠が名古屋にあると言うことだけではなく、又三郎が、仙人のように世間離れした先代又三郎の50歳の時に生まれた嫡男であったと言うことでもあろうか。
   しかし、400年中絶することなく続いたのは、あまり政治的に動かなかったこと、権利主義や権威主義に走らず身内で潰しあいをしなかったこと、京都に住んでお屋敷をもって御所に出入りしていてこれ以上のことを望まず、自分たちが喰えれば良いと思ってきたことが、奏功したのであろうと述べている。

   幼い頃、必ず風呂に一緒に入って、稽古は、このお風呂の中であって、師匠と弟子が向かい合って稽古したと言う記憶がないと言う。
   父とは50歳、母とは45歳の年齢差があったので、世間さまには、祖父母に育てられているように見えたであろうし、ドラマもスポーツ観戦もマゲもので、同世代の子供と比べて、好みなど、年寄り臭かったと思うと述べている。

   初舞台は、4歳の時で、「靭猿」。
   猿曳は父だが、相手の大名と太郎冠者は、今の人間国宝野村萬と万作だったと言う。

   先祖は、尾州家へ御召抱、禁裏御用の呉服商で狂言方、
   呉服商は、屋敷の奥まで入ることのできる仕事で、世間話などしながら、奥方に取り入って情報を入手し、それを流す。
   松尾芭蕉もそうではないかと言われていたが、先祖はスパイではなかったかと、一人妄想していると言うのが面白い。

   東京藝大邦楽科に行く時に、父の反対を受け、萬斎の出身校だと知って、母は乗り気だったが、父は、「いらない」とピシャリ。
   「なぜ、野村萬・万作兄弟に狂言を習わなければいけないんだ?」
   又三郎が在学中に70歳になり、「釣狐」や「花子」も教えなければならないのに稽古がつけられなくなり、芸が三宅派に染まってしまっては、と言った思いからであろう、強い拒否反応を示したが、井の中の蛙になっては絶対にいけないと言う母の説得で許したと言う。
   藝大卒業後、2年別科におり、この間、東京では舞台が多くて、亡き家元や萬・万作師たちから、度々役を貰って、通いの内弟子のようにお世話になって、食事や酒の席に招かれて、貴重な勉強ができた。
   新宿の「どん底」に行けば、素晴らしい演劇の話が聞けて、ふらっと入った店でも、俳優座や青年座の人達がいて、様々な芸術論が飛び交い、名古屋に居たら絶対に受けられない刺激を受けたと言う。
   
   映画「ラストサムライ」に出演して、憧れのスター渡辺謙から、「クリエーターになりましょう」と教えられた逸話など、狂言師野村又三郎の興味深い話が満載で、面白い本である。
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