都響定期Cシリーズ今期の初日が東京芸術劇場で始まったので、出かけた。
コロナ騒ぎで、定期公演の正式なチケットを持って出かけたのは、全くの久しぶりで、3年越しであろうか。
プログラムは、次の通り。
指揮/大野和士
オーボエ/広田智之(都響首席奏者)
曲目
R.シュトラウス:オーボエ協奏曲 ニ長調
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
シュトラウスのオーボエ協奏曲は、はじめて聴く曲だったが、オーボエが、これほど美しくて表情豊かなサウンドだったとは一寸驚きで、楽しませて貰った。
今回、広田さんをソリストに迎えたように、大野和士音楽監督が、大変優秀な楽員をソリストに起用してプログラムを組んでいこうと言っているので、興味深い演奏を楽しめるのであろうと思う。
私も結構欧米のトップ楽団のコンサートを現地で聴いていて、いくらでも、そんなコンサートに接している。有名なソリストとは違ったアットホームな雰囲気があって、シックリトした雰囲気が良いと思う。
マーラーの第5番は結構聴く機会があった。
と言っても、私がクラシックコンサートに通い始めたのは、1960年代の中半くらいからなのだが、その頃には、ベートーヴェンやモーツアルトと言ったポピュラーなクラシック音楽が主体で、ブルックナーは勿論、マーラーが演奏されることなど殆どなかった。
私が、マーラーを聴くようになったのは、外国に住むようになって、1970年代にフィラデルフィア管で、1980年代以降、コンセルトヘボウ管やロンドン響、それに、その他の欧米の楽団のコンサートであった。
日本に帰ってから、新日本フィルや都響の定期会員になって、コンサートに通い始めたら、意外にも、マーラーやブルックナーの演奏会が脚光を浴びている感じで、一気に、大曲に躍り上がっているのにビックリしたのを覚えている。
さて、私には、マーラーやブルックナーがどうだと言った難しい話は分からないが、マーラーの第5番の冒頭のトランペットのファンファーレの強烈なインパクトは衝撃的で、管が激しく咆哮するこの第1楽章の「葬送行進曲」から、マーラーに魅せられる。
しかし、私が楽しんだのは、第4楽章の「アダージェット」。
カラヤン・ベルリンフィルの、あのあまりもポピュラーな「アダージョ」のCDで、聞き込んで耳にこびりついている美しい曲である。
清冽な天国からのようなハープのサウンドが奏でられると夢心地。
それにも劣らぬ優雅で美しい弦楽の一糸乱れぬ音楽が唱和して更に夢を紡いで行く。
大野和士指揮する都響のアダージェットも、カラヤンとは一味違った素晴しい音楽で、聴衆を魅了する。
シンフォニーのコンサートで、ハープが登場することは比較的少ないのだが、この舞台では、この「アダージェット」のために主役で、いつも見慣れているヴァイオリン背後の左端ではなく、今回は、チェロの背後、コントラバスと管楽器の間、やや正面の前面に出て、存在感をアピール、それに、素晴しい立派なハープである。
美しいハーピストの優雅な姿を正面から、ニコンの10倍のグラスで追いながら、聞き惚れていた。
これまで、舞台前方右端に近い手前の席にいたのだが、今回から、2階中央の左側の席に移って、舞台を傍観できるような位置になったので、個々の楽器の動きが具に分かって、これも、コンサートの鑑賞に良いことだと、改めて気づいた。
電車で、東京まで出たのは、正月1回と2度目だが、何となく緊張するのが不思議である。
この頃、意識して、杖を携えて電車に乗っているので、大体席を譲って貰えているので、助かっているのだが、コンサートに来ている老人で、杖を持っている人は意外に少ない。
古典芸能鑑賞で頻繁に東京に出ていたのだが、コロナ騒ぎで、出不精に加えて急に行けなくなってしまった。
人間国宝の小三治や 野村幻雪も逝ってしまったし、何となく、途切れてしまうと意欲が削がれて、チケットの手配に逡巡している。
コロナ騒ぎで、定期公演の正式なチケットを持って出かけたのは、全くの久しぶりで、3年越しであろうか。
プログラムは、次の通り。
指揮/大野和士
オーボエ/広田智之(都響首席奏者)
曲目
R.シュトラウス:オーボエ協奏曲 ニ長調
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
シュトラウスのオーボエ協奏曲は、はじめて聴く曲だったが、オーボエが、これほど美しくて表情豊かなサウンドだったとは一寸驚きで、楽しませて貰った。
今回、広田さんをソリストに迎えたように、大野和士音楽監督が、大変優秀な楽員をソリストに起用してプログラムを組んでいこうと言っているので、興味深い演奏を楽しめるのであろうと思う。
私も結構欧米のトップ楽団のコンサートを現地で聴いていて、いくらでも、そんなコンサートに接している。有名なソリストとは違ったアットホームな雰囲気があって、シックリトした雰囲気が良いと思う。
マーラーの第5番は結構聴く機会があった。
と言っても、私がクラシックコンサートに通い始めたのは、1960年代の中半くらいからなのだが、その頃には、ベートーヴェンやモーツアルトと言ったポピュラーなクラシック音楽が主体で、ブルックナーは勿論、マーラーが演奏されることなど殆どなかった。
私が、マーラーを聴くようになったのは、外国に住むようになって、1970年代にフィラデルフィア管で、1980年代以降、コンセルトヘボウ管やロンドン響、それに、その他の欧米の楽団のコンサートであった。
日本に帰ってから、新日本フィルや都響の定期会員になって、コンサートに通い始めたら、意外にも、マーラーやブルックナーの演奏会が脚光を浴びている感じで、一気に、大曲に躍り上がっているのにビックリしたのを覚えている。
さて、私には、マーラーやブルックナーがどうだと言った難しい話は分からないが、マーラーの第5番の冒頭のトランペットのファンファーレの強烈なインパクトは衝撃的で、管が激しく咆哮するこの第1楽章の「葬送行進曲」から、マーラーに魅せられる。
しかし、私が楽しんだのは、第4楽章の「アダージェット」。
カラヤン・ベルリンフィルの、あのあまりもポピュラーな「アダージョ」のCDで、聞き込んで耳にこびりついている美しい曲である。
清冽な天国からのようなハープのサウンドが奏でられると夢心地。
それにも劣らぬ優雅で美しい弦楽の一糸乱れぬ音楽が唱和して更に夢を紡いで行く。
大野和士指揮する都響のアダージェットも、カラヤンとは一味違った素晴しい音楽で、聴衆を魅了する。
シンフォニーのコンサートで、ハープが登場することは比較的少ないのだが、この舞台では、この「アダージェット」のために主役で、いつも見慣れているヴァイオリン背後の左端ではなく、今回は、チェロの背後、コントラバスと管楽器の間、やや正面の前面に出て、存在感をアピール、それに、素晴しい立派なハープである。
美しいハーピストの優雅な姿を正面から、ニコンの10倍のグラスで追いながら、聞き惚れていた。
これまで、舞台前方右端に近い手前の席にいたのだが、今回から、2階中央の左側の席に移って、舞台を傍観できるような位置になったので、個々の楽器の動きが具に分かって、これも、コンサートの鑑賞に良いことだと、改めて気づいた。
電車で、東京まで出たのは、正月1回と2度目だが、何となく緊張するのが不思議である。
この頃、意識して、杖を携えて電車に乗っているので、大体席を譲って貰えているので、助かっているのだが、コンサートに来ている老人で、杖を持っている人は意外に少ない。
古典芸能鑑賞で頻繁に東京に出ていたのだが、コロナ騒ぎで、出不精に加えて急に行けなくなってしまった。
人間国宝の小三治や 野村幻雪も逝ってしまったし、何となく、途切れてしまうと意欲が削がれて、チケットの手配に逡巡している。