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先に小三治の40年ほど前に書いた「落語家論」を読んでレビューしたが、大分、ニュアンスや雰囲気の差があって、それぞれに面白い。
傘寿を迎えた12月17日に出版された功なり名を遂げた小三治師匠の、淡々とした語り口で綴られた本なので、高座では味わえないような滋味というか味わいがあって興味深いのだが、若気の至りということでもないだろうが、先の本の方が、パンチが効いていて楽しませてくれる。
父上は校長先生、五人きょうだいの唯一の男の子であるから、期待して期待して、試験は百点百点で、東大以外は大学ではない、末は陸軍大臣か総理大臣だと思い描いて育てられたのだろうが、本人は、迷惑で、親の言うことを聞いてそれに近づこうなんて全然思わず、反発に次ぐ反発で、浪人して予備校に通ったが途中でほっぽり出して落語家になった。それで、ご覧ください、こんなになってしまった。
と言うのだが、今や、落語界唯一の人間国宝、これ以上の勲章はない。
興味深いのは、小三治の純情模様の「野菊の如き君なりき」の若き日の恋物語。
これは、先に感想を書いたので端折るが、「落語家論」で触れたもう一つの小三治師匠の女性との話は、沼津のボーリング場で、「チャンと落語やってください。テレビでガチャガチャしたことをやってほしくないんです」と励ましてくれた若い芸者梅の家の笑子姐さんへの慕情にも、さらりと触れている。
この後、落語協会長の圓生の強引さで真打ちになったのだが、あの前座は真打ちより面白えなと言う前座なら、生涯前座でも良いと思っていた頃で、振り返ってありがとうという人は、何人かいるが、彼女の存在は大きいという。
面白いのは、和風スナックのママとのアバンチュールには、この本では、一切触れておらず、当然のこととして、奥方との話にはそつがない。
話には聞いていたが、小三治のクラシック音楽への傾倒はかなりのものと言うべきか。
あのクラシック界の帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンを、本音を知らない、人間を知らない、人間の何が素晴らしのか知らないんじゃないか。カラヤンは、形や情景の美しさは表すかも知れないけれど、そこに血の通った人間がいないんですよ。と切って捨てているのである。
私は、カラヤンのコンサートは、ベートーヴェンの運命と田園、第九「合唱つき」の2回しか聴いていないのだが、結構、カラヤン本を読んだし、フィラデルフィアやロンドンから帰るとき、その後も、随分レコードやCDやDVD等を買い込んで、聴いているので、そんな大それたことを言うつもりはない。
カラヤンに「本音で歌えよ」と思う。自分の心のない人には感動できない、と言うのだが、カラヤンが、心のない悲しみや痛みを知らない上手くやろうとするだけの朴念仁の棒振りだとは思えない。
そのことはともかく、カラヤンも絶対的ではない、自分の志している噺の世界でも何でも絶対的な名人はいない、絶対的な人はいない、そのときそう感じていること、それがいちばん偉大なことじゃないか、それが人を動かし、世の中を動かすんじゃないかと思います。と言う。
そして、うまくやろうとしないこと、それが難しい。人の心を理解しなきゃ。人が生きるって言うことはどういうことか。それを理解してゆくためには、音楽を聞き、絵を見、人の話を聞き、芝居を見、映画を見て、自分以外のものから発見する。自分の中にある自分の鏡に照らし合わせて自分を発見してゆく。ことだとも言う。
「談志さんと志ん朝さん」と言う項が面白い。
談志については多少辛口だが、志ん朝とは芸が似ているとかで相性が良さそうであった。
ここで、人は志ん朝の口調に注目するけれど、
自分は、その口調の奥にある、芸の本域、芸の奥の院、神髄というか、中身は結局そこなんで、表面に現れているところより、その奥にあるものが何なのかと言うことが大切で、表面に見えているものではなく、その向こうにある奥で、登場人物がどんな会話をしているか、最後はそこなんじゃないか、そこに演者の個性が感じられる。と言っている。
表面の口調や言い回しの奥に噺の神髄がある。このしゃべり手は何を持ってよしとするか、何を持って人間の素晴らしさを感じるか。
何も口では言わないが、知らないうちに聞き手の中に染みこんでくる。そこまで行けば芸だと思う。そこまで、柳家小さんは行っていたことを、小さんの晩年になって気がついた。それまで分からなかった。ほんとに分からなかった。と言う。
口調じゃなくて、中に秘められている人柄、立場、そういうもので噺をしていかなきゃ、人を動かすことは出来ない。気がついたことは気がついたが、それが出来れば、いつ死んでも良いが、あと、25年は欲しいね。と言う。
ここで書いたのは、主に、小三治師匠の芸論のような感じだが、面白いのは、やはり、芸の遍歴で、例えば、「小言念仏」にまつわる話とか、数々の実話である。
それに、まだまだ、沢山、含蓄のある小三治の芸の神髄が開陳されていて、非常に興味深く、小三治の高座を聴いたのは、まだ、10回くらいだが、次の高座が楽しみになるような本なのである。
傘寿を迎えた12月17日に出版された功なり名を遂げた小三治師匠の、淡々とした語り口で綴られた本なので、高座では味わえないような滋味というか味わいがあって興味深いのだが、若気の至りということでもないだろうが、先の本の方が、パンチが効いていて楽しませてくれる。
父上は校長先生、五人きょうだいの唯一の男の子であるから、期待して期待して、試験は百点百点で、東大以外は大学ではない、末は陸軍大臣か総理大臣だと思い描いて育てられたのだろうが、本人は、迷惑で、親の言うことを聞いてそれに近づこうなんて全然思わず、反発に次ぐ反発で、浪人して予備校に通ったが途中でほっぽり出して落語家になった。それで、ご覧ください、こんなになってしまった。
と言うのだが、今や、落語界唯一の人間国宝、これ以上の勲章はない。
興味深いのは、小三治の純情模様の「野菊の如き君なりき」の若き日の恋物語。
これは、先に感想を書いたので端折るが、「落語家論」で触れたもう一つの小三治師匠の女性との話は、沼津のボーリング場で、「チャンと落語やってください。テレビでガチャガチャしたことをやってほしくないんです」と励ましてくれた若い芸者梅の家の笑子姐さんへの慕情にも、さらりと触れている。
この後、落語協会長の圓生の強引さで真打ちになったのだが、あの前座は真打ちより面白えなと言う前座なら、生涯前座でも良いと思っていた頃で、振り返ってありがとうという人は、何人かいるが、彼女の存在は大きいという。
面白いのは、和風スナックのママとのアバンチュールには、この本では、一切触れておらず、当然のこととして、奥方との話にはそつがない。
話には聞いていたが、小三治のクラシック音楽への傾倒はかなりのものと言うべきか。
あのクラシック界の帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンを、本音を知らない、人間を知らない、人間の何が素晴らしのか知らないんじゃないか。カラヤンは、形や情景の美しさは表すかも知れないけれど、そこに血の通った人間がいないんですよ。と切って捨てているのである。
私は、カラヤンのコンサートは、ベートーヴェンの運命と田園、第九「合唱つき」の2回しか聴いていないのだが、結構、カラヤン本を読んだし、フィラデルフィアやロンドンから帰るとき、その後も、随分レコードやCDやDVD等を買い込んで、聴いているので、そんな大それたことを言うつもりはない。
カラヤンに「本音で歌えよ」と思う。自分の心のない人には感動できない、と言うのだが、カラヤンが、心のない悲しみや痛みを知らない上手くやろうとするだけの朴念仁の棒振りだとは思えない。
そのことはともかく、カラヤンも絶対的ではない、自分の志している噺の世界でも何でも絶対的な名人はいない、絶対的な人はいない、そのときそう感じていること、それがいちばん偉大なことじゃないか、それが人を動かし、世の中を動かすんじゃないかと思います。と言う。
そして、うまくやろうとしないこと、それが難しい。人の心を理解しなきゃ。人が生きるって言うことはどういうことか。それを理解してゆくためには、音楽を聞き、絵を見、人の話を聞き、芝居を見、映画を見て、自分以外のものから発見する。自分の中にある自分の鏡に照らし合わせて自分を発見してゆく。ことだとも言う。
「談志さんと志ん朝さん」と言う項が面白い。
談志については多少辛口だが、志ん朝とは芸が似ているとかで相性が良さそうであった。
ここで、人は志ん朝の口調に注目するけれど、
自分は、その口調の奥にある、芸の本域、芸の奥の院、神髄というか、中身は結局そこなんで、表面に現れているところより、その奥にあるものが何なのかと言うことが大切で、表面に見えているものではなく、その向こうにある奥で、登場人物がどんな会話をしているか、最後はそこなんじゃないか、そこに演者の個性が感じられる。と言っている。
表面の口調や言い回しの奥に噺の神髄がある。このしゃべり手は何を持ってよしとするか、何を持って人間の素晴らしさを感じるか。
何も口では言わないが、知らないうちに聞き手の中に染みこんでくる。そこまで行けば芸だと思う。そこまで、柳家小さんは行っていたことを、小さんの晩年になって気がついた。それまで分からなかった。ほんとに分からなかった。と言う。
口調じゃなくて、中に秘められている人柄、立場、そういうもので噺をしていかなきゃ、人を動かすことは出来ない。気がついたことは気がついたが、それが出来れば、いつ死んでも良いが、あと、25年は欲しいね。と言う。
ここで書いたのは、主に、小三治師匠の芸論のような感じだが、面白いのは、やはり、芸の遍歴で、例えば、「小言念仏」にまつわる話とか、数々の実話である。
それに、まだまだ、沢山、含蓄のある小三治の芸の神髄が開陳されていて、非常に興味深く、小三治の高座を聴いたのは、まだ、10回くらいだが、次の高座が楽しみになるような本なのである。