日経が、CSR(企業の社会的責任)に関して継続して開いているシンポジュームで、今回は「ソーシャル・キャピタルとCSR」を絡ませた「信頼」と言うポイントに視点を当てた「信頼を育む経営」と言うテーマでシンポジュームを開催した。
感想だが、結論から言うと、国家なり社会なりの基本的なソフト・インフラである人間相互間の一般的な信頼関係や絆、倫理観や民度などのバックグラウンドをソーシャル・キャピタル(ハードの社会資本ではない社会関係資本)と捉えている以上、民間の利益を目的とする私企業の社会的責任とどのような関係なり接点を想定して議論するのか等の未消化の部分が多くて、常識的な一般論となって空回りに終わった。
企業がCSRに努力すれば、社会のソーシャル・キャピタルが増し、ソーシャル・キャピタルの豊かな社会になればなるほど企業のCSRも充実してくる、お互いに信頼を育む社会なり企業経営を心掛けましょうと言うことになってしまう。
元々、ソーシャル・キャピタルとは、有史以前から存在した人間相互間の関係をも包含しており、仮に、CSRと無理に直結させて議論すればするほど、もっと広義な人間本来の幸せのバックグラウンドであるソーシャルキャピタルを阻害してしまう危険さえあるのである。
ソーシャル・キャピタルについては、その道の第一人者大守隆氏の「ソーシャル・キャピタルがつくる新しい社会、組織、ネットワーク」の基調講演で始まり、続いてオムロンの明到親吾副社長と佐川急便の辻尾敏明専務からに「CSRマネジメント」報告が行われた。
アメリカ経験のある明致氏の何故か進み過ぎているオムロンの立て板に水のCSR論、それに、東京佐川急便事件で世情を騒がせた佐川だから当然と言った感じの辻尾専務の企業のCSR取り組みには、そのあたりまで日本のCSRも行っているのかと感じて興味深かった。
後半は、大守隆氏に、企業の倫理論、そして、企業の社会的責任論に関してこれも第一人者の高巌教授が加わり、藤沢久美さんの司会でパネルディスカッション「社会から信頼される企業とは」が開かれた。
器用で頭の回転の速い藤沢さんが、二人の発言を敷衍しながら議論を進め、それに、二人の違った専門分野と相互理解が噛合わないので、議論が散漫となって何となく大守氏のソーシャル・キャピタル論と高教授の企業のCSRや危機管理論を平行して聞いている様な感じになった。
ところで、今回の新会社法及び日本SOX法関連法規等によって、企業の内部統制が厳しく管理されるようになって、間接的ながら企業のCSRを推進せざるを得なくなって来た。
これは、数年前の企業倫理の低下の頃を考えれば今昔の感であるが、この内部統制狂想曲も、ネコも杓子もが狂奔したTOC運動がコピーや紙会社やコンサルタントの先生方を稼がせただけに終わったと同じ様に、IT関連のソフト会社や不祥事で死に体だった会計監査法人等をはしゃがせるだけに終わるのではないであろうか。
TQCは夢の夢! 日経ビジネスが、「品質の復讐 驕れるモノづくり大国への警鐘」特集を組んで、ソニーやトヨタの欠陥商品のリコールを大々的に糾弾せざるを得ない時代を誰が予想したであろうか。
私自身は、日本企業がCSRと騒げば騒ぐほど、その前に経営者が行うべきことがあるのではないかと言う気がして仕方がない。
松下電器の中村会長が、社長を引き受けた時、松下は、「傲慢、自己満足、変化を嫌う、会議ばかり」と言う当時アメリカで言われていた破綻企業の4大特徴を地で行く典型的な会社であって、中村改革を断行しなければつぶれてしまうと思ったと語っていた。
今回の電気ストーブ事故で、最後の一台まで探すと言う徹底振りも新しい松下イズムであろう。
談合の課徴金を高いといって値切るような経団連があり、一向に談合が後を絶たずに次から次へ新聞種になるような国の企業が、CSR,CSRと言うのは早すぎる。
経営を刷新して高度化し、経営の効率をもっともっと上げることが先ではないかと思っている。
さて、
このシンポジュームの当日、規制のない自由な資本主義市場経済を標榜した偉大な経済学者・マネタリストの総帥ミルトン・フリードマンが逝った。
このフリードマンが、企業の社会的責任について糾弾していたのを、マイカンが著書「ザ・コーポレーション」で紹介している。
フリードマン曰く「経営者の唯一の社会的責任は、株主の為に多額の金を儲けることで、社会や環境の目的を利益に優先する(道徳的に振舞おうとする)経営者は非道徳である。企業の社会的責任が容認されるのは、それが利益を追求する方便である時のみで、その時の偽善も道徳的善意も、収益に繋がらなければ非道徳的である。」
極めて明快な理論展開で、私企業の自由な利益追求競争が、神の手の導きによって、人類の幸福を増進させると言う、別な意味でのアダム・スミス流のご宣託だが、この思想をバックにしてサッチャーやレーガンが一時代の経済社会の発展を推進したこともまた厳正な事実である。
英国の高級紙インデペンデントが、サッチャーの追悼の辞を掲載した。
「フリードマンは、総てでありながら忘れられていた自由の経済学を蘇らせた。彼は、知性豊かな自由の為の戦士であった。・・・私は、古い友人の頭脳明晰な英知と辛らつなユーモアが消えてしまったことを本当に寂しく思う。」
感想だが、結論から言うと、国家なり社会なりの基本的なソフト・インフラである人間相互間の一般的な信頼関係や絆、倫理観や民度などのバックグラウンドをソーシャル・キャピタル(ハードの社会資本ではない社会関係資本)と捉えている以上、民間の利益を目的とする私企業の社会的責任とどのような関係なり接点を想定して議論するのか等の未消化の部分が多くて、常識的な一般論となって空回りに終わった。
企業がCSRに努力すれば、社会のソーシャル・キャピタルが増し、ソーシャル・キャピタルの豊かな社会になればなるほど企業のCSRも充実してくる、お互いに信頼を育む社会なり企業経営を心掛けましょうと言うことになってしまう。
元々、ソーシャル・キャピタルとは、有史以前から存在した人間相互間の関係をも包含しており、仮に、CSRと無理に直結させて議論すればするほど、もっと広義な人間本来の幸せのバックグラウンドであるソーシャルキャピタルを阻害してしまう危険さえあるのである。
ソーシャル・キャピタルについては、その道の第一人者大守隆氏の「ソーシャル・キャピタルがつくる新しい社会、組織、ネットワーク」の基調講演で始まり、続いてオムロンの明到親吾副社長と佐川急便の辻尾敏明専務からに「CSRマネジメント」報告が行われた。
アメリカ経験のある明致氏の何故か進み過ぎているオムロンの立て板に水のCSR論、それに、東京佐川急便事件で世情を騒がせた佐川だから当然と言った感じの辻尾専務の企業のCSR取り組みには、そのあたりまで日本のCSRも行っているのかと感じて興味深かった。
後半は、大守隆氏に、企業の倫理論、そして、企業の社会的責任論に関してこれも第一人者の高巌教授が加わり、藤沢久美さんの司会でパネルディスカッション「社会から信頼される企業とは」が開かれた。
器用で頭の回転の速い藤沢さんが、二人の発言を敷衍しながら議論を進め、それに、二人の違った専門分野と相互理解が噛合わないので、議論が散漫となって何となく大守氏のソーシャル・キャピタル論と高教授の企業のCSRや危機管理論を平行して聞いている様な感じになった。
ところで、今回の新会社法及び日本SOX法関連法規等によって、企業の内部統制が厳しく管理されるようになって、間接的ながら企業のCSRを推進せざるを得なくなって来た。
これは、数年前の企業倫理の低下の頃を考えれば今昔の感であるが、この内部統制狂想曲も、ネコも杓子もが狂奔したTOC運動がコピーや紙会社やコンサルタントの先生方を稼がせただけに終わったと同じ様に、IT関連のソフト会社や不祥事で死に体だった会計監査法人等をはしゃがせるだけに終わるのではないであろうか。
TQCは夢の夢! 日経ビジネスが、「品質の復讐 驕れるモノづくり大国への警鐘」特集を組んで、ソニーやトヨタの欠陥商品のリコールを大々的に糾弾せざるを得ない時代を誰が予想したであろうか。
私自身は、日本企業がCSRと騒げば騒ぐほど、その前に経営者が行うべきことがあるのではないかと言う気がして仕方がない。
松下電器の中村会長が、社長を引き受けた時、松下は、「傲慢、自己満足、変化を嫌う、会議ばかり」と言う当時アメリカで言われていた破綻企業の4大特徴を地で行く典型的な会社であって、中村改革を断行しなければつぶれてしまうと思ったと語っていた。
今回の電気ストーブ事故で、最後の一台まで探すと言う徹底振りも新しい松下イズムであろう。
談合の課徴金を高いといって値切るような経団連があり、一向に談合が後を絶たずに次から次へ新聞種になるような国の企業が、CSR,CSRと言うのは早すぎる。
経営を刷新して高度化し、経営の効率をもっともっと上げることが先ではないかと思っている。
さて、
このシンポジュームの当日、規制のない自由な資本主義市場経済を標榜した偉大な経済学者・マネタリストの総帥ミルトン・フリードマンが逝った。
このフリードマンが、企業の社会的責任について糾弾していたのを、マイカンが著書「ザ・コーポレーション」で紹介している。
フリードマン曰く「経営者の唯一の社会的責任は、株主の為に多額の金を儲けることで、社会や環境の目的を利益に優先する(道徳的に振舞おうとする)経営者は非道徳である。企業の社会的責任が容認されるのは、それが利益を追求する方便である時のみで、その時の偽善も道徳的善意も、収益に繋がらなければ非道徳的である。」
極めて明快な理論展開で、私企業の自由な利益追求競争が、神の手の導きによって、人類の幸福を増進させると言う、別な意味でのアダム・スミス流のご宣託だが、この思想をバックにしてサッチャーやレーガンが一時代の経済社会の発展を推進したこともまた厳正な事実である。
英国の高級紙インデペンデントが、サッチャーの追悼の辞を掲載した。
「フリードマンは、総てでありながら忘れられていた自由の経済学を蘇らせた。彼は、知性豊かな自由の為の戦士であった。・・・私は、古い友人の頭脳明晰な英知と辛らつなユーモアが消えてしまったことを本当に寂しく思う。」