熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

二月大歌舞伎・・・勘三郎と玉三郎の「籠釣瓶花街酔醒」

2010年02月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座のさよなら公演も、愈々大詰め、今月は、十七代目中村勘三郎の二十三回忌追善公演で、勘三郎が大車輪の大活躍である。
   私が、一番期待していたのは、中村屋父子に、玉三郎と松嶋屋3兄弟とが、正に、白熱の共演を演じた「籠釣瓶花街酔醒」である。
   最初に見た籠釣瓶は、やはり、勘三郎と玉三郎の舞台であったが、その後、吉右衛門や幸四郎と福助の舞台で、夫々に、意欲的で素晴らしい芝居を楽しませて貰っている。

   私は、何故か、この芝居は、仮名手本忠臣蔵の大星や勧進帳の弁慶を演じる役者ではなく、水も滴るいい女も演じられる両刀使いの役者の方が、ぴったりと来る舞台だと思っていて、勘三郎に大いに期待しているのである。
   幕府のお膝元である吉原は、京都の島原とも、近松の世界である大坂の花街とも違って、勃興する新しい時代の息吹を感じさせるような色々な人種の蠢く独特な異空間を作っていたようで、地場産業である絹商売で富を蓄積した田舎ものの主人公佐野次郎左衛門(勘三郎)さえもが、絶世の美女八ッ橋(玉三郎)を身請けする寸前までに羽ばたける世界があったことに興味を持ったのである。

   その前に、この歌舞伎の「籠釣瓶」の序幕・吉原中之町見初めの場より大詰・立花屋二階の場までの話だが、次郎左衛門が、江戸の土産話にと立ち寄った吉原で、花魁道中の八ッ橋に出会って一目惚れして吉原に通い詰め、身請け寸前まで行きながら、間夫繁山栄之丞(仁左衛門)に別れ話で迫られた八ッ橋に、満座の前で、愛想尽かしを宣告されて恥を掻き、4ヵ月後、再び吉原を訪れて、再会した八ッ橋を、名刀籠釣瓶で一刀の元に切り殺すと言う筋書きである。
   言うならば、定職もなしに八ッ橋の仕送りでのうのうと生きているヤクザなひもである栄之丞を間夫にして憂さを晴らしながら、自分の美しさ故に溺れ込んだ次郎左衛門からの身請けの話が目前に迫っているにも拘らず、行き当たりばったりに生きて来た八ッ橋の悲劇と言えば悲劇だが、天国から地獄へ奈落の底に突き落とされた、恋一筋に一途に突っ走った次郎左衛門の生き様が哀れである。

   それに、もう一人の悪人で八ッ橋を廓への身元保証人になった親判・釣鐘権八(権十郎)が、立花屋への金の無心が出来なくなって金蔓を失い、腹いせに、間夫の栄之丞を焚き付けて困らせようと企んだのがアザとなって、口車に乗せられた軽薄な栄之丞を激昂させて、八ッ橋に、俺が大切だと言う証拠に次郎左衛門を振れと迫るのだが、元より、金でしか接点のない八ッ橋のことだから、次郎左衛門には興味がない。
   八ッ橋に、間夫が居ると知りながら、金払いの良い上客の次郎左衛門に、後先も考えずに、身請け話を進めて、それを取り持つ立花屋おきつ(秀太郎)もおきつで、とにかく、金と色に目が眩んだ人間ばかりが目立つ吉原物語である。

   さて、何故、勘三郎がこの次郎左衛門に適役かと言うこと。
   満座の前で、八ッ橋に振られた時の次郎左衛門の肺腑を抉るような心境だが、吉右衛門は、「ふられたこと自体よりも、恥を掻かされたということの方が大きいと思う」と言っているのだが、それもそうではあろうが、私は、色に溺れて官能の渦に巻き込まれて八ッ橋にのめり込んでしまって奈落の底に突き落とされた男の悲哀を濃厚に滲ませて苦渋を切々とかき口説く勘三郎の方が、本当の姿に近いと思うし、「花魁、そりゃあんまりそでなかろうぜ」の台詞から、皆が去って、下男治六(貫太郎)と取り残された後の舞台まで、次郎左衛門の八ッ橋への妄執を諦め切れない哀切極まりない心境がよく現れていると思う。
   次郎左衛門は、痩せても枯れてもれっきとした絹商人で、銭勘定は元より分かっていた筈。恥や外聞に随分泣かされてきたと思うし、生まれつきのあばた顔に屈辱の限りを味わって来た筈なのだが、吉原有数の絶世の美女八ッ橋との、一世一代の恋で降って湧いたような幸せをどんなに賛美したことか、この幸せの絶頂を断ち切る苦悩がまず先である。
   その悲哀が、心を締め上げて、人間として耐えがたき屈辱に心が蝕まれて行き、じりじりと追い詰められて行く心の襞を、勘三郎は、哀願にも似た悲しい表情から、徐々に顔を歪ませ引きつらせながら屈辱に耐えている苦悶を、実にリアルに演じている。
   胡弓の哀切極まりない旋律が、勘三郎次郎左衛門の肺腑を抉るが如くである。

   このことは、この後の立花屋二階の八ッ橋を、籠釣瓶で一刀の元に切り捨てるシーンにも表れていて、幸四郎や吉右衛門のように豪快で男性的な(?)太刀裁きとは一寸ニュアンスの違った感じで、八ッ橋をいまだに忘れ切れずに、恋の復讐にと、この世の別れの杯をすすめるあたりから徐々にテンションが上がって行く凄みなども、勘三郎の次郎左衛門には、どこか、人間の弱さ悲しさが滲み出ているようで、妖剣籠釣瓶故の惨劇ではなく田舎の豪商の悲しいサガが、最後の茫然自失ながら、籠釣瓶の切れ味に不気味な笑みで頷く表情に良く表れているような気がするのである。

   玉三郎は、何と言っても、東西一の立女形の匂うような豪華で絢爛豪華な花魁姿を鑑賞できることで、江戸時代の錦絵の華やかな美しさを彷彿とさせてくれて感激である。
   この八ッ橋は、次郎左衛門を嫌っては居なかったであろうが、美貌を良いことにして、不埒な風来坊栄之丞をひもにして囲いながら、どうせ売り物買い物ですからを地で行く生き方で次郎左衛門に接していたのであるから、栄之丞に唆されて次郎左衛門を振れと言われると、二階座敷に入ると一気に態度を変えて嫌いだと切り出して、周りから諭されると反発して煙管を投げ捨て、挙句の果てには、栄之丞を間夫だと公言して座を蹴って発つ。
   唯一、門口で、「つくづく嫌になりんした」と、次郎左衛門への縁切りにかけて、浮き草のような遊女の悲しい境遇を吐露しながら、次郎左衛門を門口でちらりと見やりながら、人間らしさを覗かせる。
   このあたりの玉三郎の実に優しい仕草が、八ッ橋も、同じ人生の被害者であることを悟らせてほろりとさせる。

   さて、栄之丞の仁左衛門の匂うような悪たれ無頼漢風色男、貫禄と品を備えた我當の立花屋長兵衛、引手茶屋・立花屋の女将おきつの秀太郎の関西歌舞伎の雄である松嶋屋の共演は特筆もので、関西風花街の雰囲気なのかどうかは分からないが、非常に、この舞台の質と奥行きを深くしており、流石のさよなら公演である。
   朴訥で純朴そのものの治六の貫太郎と花魁七越の七之助兄弟の好サポート、それに、悪辣極まりない釣鐘権八の彌十郎、縁切り場での次郎左衛門に対する優しさ情の深い仕草の冴えた魁春の九重など、脇役の層の厚さも素晴らしい。

(追記)口絵写真は、歌舞伎座二階展示の写真をコピー。
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鎌倉鶴岡八幡宮のぼたん庭園

2010年02月05日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   節分の日の朝、鶴岡八幡宮に向かった。
   先日の朝まで、雪が降っていたようだったが、街の中の雪は殆ど消えていて、雪の鎌倉の風情を味わうことが出来なかった。
   やはり、寒い所為であろうか、小町通も人が少なく、八幡宮の参道もいつもより参拝客が少ないのだが、参道の片隅には、節分豆まきのための受付テントが設けられていて、白衣に赤い袴姿の巫女さんやブルーの袴の人たちが、準備のために舞殿手前の参道で忙しく立ち働いている。
   救世軍のような真っ赤な外套を纏った井手達の若い警備員たちが、舞殿手前に張られたロープの周りに整列し始めた。
   流鏑馬通りの左右の通りには、豆まきに参集した参拝客が沢山集まって列を成して待機している。
   巫女さんに、豆まきに誰が来るのかと聞いたら、有名人は誰も来ないが、年男が豆をまくのだと言った。
   もとより、私の興味外のことなので、引き返して、源氏池畔のぼたん庭園に向かった。

   ぼたん園参道入り口には、鎌倉鶴岡八幡宮と言うワッペンを貼った真新しい酒樽が置かれ、真っ赤な豪華なぼたんが植えられていて、客を迎える。
   石畳の奥に、赤い毛氈を敷いた床机と赤い傘が置かれた入り口がある。
   僅かな距離なのだが、このあたりは、八幡宮の参道の雑踏とは、打って変わったように静かで、小鳥の泣き声が良く聞こえる。
   明月院の紫陽花や、桜やもみじの季節にはわんさと詰め掛ける観光客も、何故か、ぼたんには殆ど興味がないのか、訪なう人もまばらで、全く人影のないぼたん園の広角写真の撮影も簡単に出来る。
   
   ところで、時々、二人連れにシャッターを押してくれと頼まれる。
   大概は、簡単なデジカメなので、シャッターを押すだけで済むのだが、如何せん、大概のコンパクトカメラは広角主体なので、手前の人物が大きく写って、背景のぼたんなどが小さく写ってしまい折角の花の写りが台無しになってしまう。
   私など、カメラ暦が長いので結構慣れている筈なので、上手く操作しようと試みるのだが、とにかく、やたらとカメラが多すぎて扱い方が違っているので、前で、ポーズを取られるとどぎまぎしてしまう。
   せめてものと思って、所や方角を変えて数枚写させて貰っているのだが、これも、フィルムカメラと違って消せば済むデジカメだから出来ることである。

   私は、昔、関西にいた時には、奈良の長谷寺や石光寺などのぼたんを見に行ったのだが、非常にオープンな広い空間に咲いていたので、のびのびとした雰囲気であった。
   ところが、この八幡宮は、寺社の庭園のぼたん園と言った感じなので、石組みの合間や涸れた風情のある大木の根元であったり、簡素な築地塀の片隅であったり、どちらかと言えば、池や林間の風景を借景に取り入れたところに植わっているので、大分、ぼたんの印象が違ってくる。
   特に、このぼたん園には、中国から贈られてきた奇岩である太湖石を据えた湖石の庭のぼたんの風情は、ぼたんのふるさとを感じさせてくれるようで面白い。
   季節が違っていたのか、私が蘇州の素晴らしい庭園を訪れた時には、ぼたんを見る機会がなかったのだが、案外、庭園の中で一際映える点景を占めていたのではないかと言う気がしている。

   八幡宮に聞くと、花の見ごろは、今月の中旬始め頃までと言うことだが、少し盛りを過ぎたかと思うけれど、しかし、一番美しい頃でもあるような気がする。
   ここのぼたん園の説明では、100品種1000株と言うのだが、感じとしては、豪華な感じはするが、上野の東照宮の方が、花にバリエーションがあるのではないかと思っている。
   段差のある岩組みの奥のぼたんの風情や、生垣越しに見え隠れする源氏池をバックにした華やかなぼたんなど、中々面白いが、雪除け藁被りも良いが、ここの、長い足の真っ白な番傘の下のぼたんも味があって良い。

   ところで、私の庭の春ぼたんの芽も大分しっかりしてきた。
   昨秋、3本ほど庭植えを追加したが、どんな花が咲くか楽しみである。
   ところで、私の良く通ったキューガーデンでは、ぼたんの花を見たと言う記憶がなく、芍薬ばかりの写真を撮っていたような気がする。
   私のロンドンで住んでいた家の庭にも芍薬が植わっていたのだが、イギリスでは、ぼたんよりも芍薬だったのであろうか、とふと変なことを思い出した。
   
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上野の森の東照宮の冬ぼたん

2010年02月04日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   残雪の残る上野東照宮のぼたん苑に出かけた。
   上野の森のソメイヨシノのつぼみは固いが、何本かある寒桜が花を開いていて、めじろが、花を啄ばんでいる。
   桜並木を動物園入り口手前の参道に入ると、道の両側には、葵のご紋の下に上野東照宮冬ぼたんの文字と、その下に雪除けの藁がこいをしたピンクのぼたんを描いた幟がびっしりと並んでいて、コンクリート製の無粋な大鳥居の横には、同じく冬ぼたんと大書して派手な雪除けかぶりのぼたんの放列を描いた大きな立看板が客を迎える。
   しかし、参道を少し入ると、清楚なかわら屋根の門構えのぼたん苑入り口には、木枠の箱庭に小さな葉牡丹を並べて、雪よけわらをかぶった一株のピンクのぼたんが植えられていて、一気に雰囲気が変わる。
   かなりの観光客や団体が、東照宮本殿の方へ向かうのだが、ぼたん苑に入るのはわずか。「こんなもん見るのに金払わなあかんのか。やめとこ。」と素通りする大阪のおっさんのグループ。派手な呼び込みの幡や場違いに派手な立看板の意味が分かった。

   入り口を入ると、良く手入れされたぼたん畑が櫛状に並んでいて、何度も折り返しながら、東照宮正面門の手前の出口まで続いている。
   黄色いぼたんは僅か、大輪の白花も比較的少なく、花の大半は、ピンクから赤系統で、八重一重、大輪中輪小輪とかなりのバリエーションがあるのだが、全部で約40種のぼたんが植えられていると言う。
   今年は、ピンクの小さな魚を連ねたようなかわいいタイツリソウの花を見かけなかった。

   このぼたん苑での楽しみは、苑内に植えられている色々な花が伴奏して春の訪れを感じさせる雰囲気を盛り上げてくれることである。
   ぼたんの足元には、福寿草が綺麗な黄色い花を咲かせ、小輪の葉牡丹やアッツザクラ、水仙などが彩りを添えている。
   特に美しいのはやや紅の勝った紅梅で、まだ小木ながら咲き始めた寒桜とともに、陽だまりに居ると一気に春の暖かさを感じさせてくれる。
   蝋梅、マンサク、ミツマタ、それに、何種類かの椿、夫々、それ程大きくない小木なので、ぼたんの華やかさを立てていて、その奥ゆかしさ(?)が良い。

   日陰のぼたんの足元には、まだ、二日前の残雪が残っていて、黒々とした土とのコントラストが眩しい。
   2日の朝には、開門前から、アマチュア・カメラマンが詰め掛けて、雪を被った雪除けわら囲いの冬ぼたんを撮ろうと大変な賑わいだったと言う。
   残念ながら、その頃には、雪除けの上の雪は解け去っていて、地面の雪だけだったと、甘酒屋のおねえさんが言っていた。

   このぼたん苑の真ん中あたりに歌を詠むコーナーがあって、用意されている短冊に思い思いの一句を詠んでボードに貼り付けている。
   今年は、来るのが遅かったのでかなりの数の短冊が所狭しと貼り付けられている。
   私も、575と言うルールしか知らないのだが、野次馬根性を出して一句、
   残り雪 微笑むぼたんの 影かなし

   殆どのぼたんが、雪除けわらを被っているので、雪国の少女のような風情で、それなりに雰囲気があって面白いのだが、春ぼたんのように逆光に透けて見えるほんのりと色香の漂う大人の女のような優雅さはない。
   時折、強い陽の光を浴びて雪除けの藁を通り抜けた光が、ピンクのぼたんの鮮やかさを浮かび上がらせる瞬間の美しさは格別だが、この時、小型デジカメしか持って居なかったので、その微妙な感触は撮れなかった。

   ぼたん苑の出口近くには、広い空間があって、茶店があり、私は、何時も、床机に座って、甘酒を頂くことにしている。
   左手には東照宮の建物、右手には五重塔が見えて、目の前には、綺麗なぼたん畑が広がっている。(東照宮は改装中で門以外は大きな看板で、今は無粋。)
   もう一度入り口に引き返しながらぼたん畑を巡ることにしているのだが、不思議なことに、反対側からもう一度見ると同じ筈のぼたんの雰囲気が変わっていて、新しい発見をすることがある。
   それに、時間差の微妙な変化も楽しめて一石二鳥でもある。
   押さえ気味のスピーカーから流れる琴の音が、やわらかな陽のひかりに照り映えるぼたんの華やかさに伴奏して、さわやかな異空間を醸し出している。
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ポール・コリアー著「民主主義がアフリカを殺す」(1)

2010年02月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   非常に扇情的な題名の本だが、サブタイトルは、「最底辺の10億人の国で起きている真実」。原題は、「Wars, Guns, and Votes Democracy in Dnangerous Places」。
   コリアーの先の著書「最底辺の10億人 The Bottom Billion」で、四つの罠、すなわち、紛争の罠、天然資源の罠、劣悪な隣国に囲まれた内陸国の罠、そして、小国における悪いガバナンス(立法、司法、行政に及ぶ広義の統治)の罠などに陥って貧困と治安悪化などの呪縛から抜け出せない最底辺の10億人を現実を活写して、我々先進国の人間は何をなすべきかを提言した。
   この本は、更に、最底辺の10億の人々の恐るべき現実を掘り下げて、我々先進国の人間に取っては平和と発展のための拠り所である筈の民主主義が、これらの国や人々にとっては、平和どころか危険性を高めている、すなわち、暗殺、暴動、政治ストライキ、ゲリラ活動から内戦まで、民主制が政治的暴力を促進している現実を突きつけて、この暴挙に対峙して如何に平和を実現すべきかを問うている。
   現実にも、国連やアメリカは、紛争や危険地域では、積極的に選挙の実施を推進しているが、イラクやアフガニスタン、もっと典型的なウガンダの選挙の現実を見れば、如何に民主主義の傘を来た治安悪化と暴力追認の茶番劇の場となっているかが良く分かる。

   コリアー論を進める前に、興味深い指摘は、所得レベルが中程度の国では、逆に、民主主義が一様に政治的暴力を抑制することを発見したとして、その閾値の所得水準は、一人当たり年間2700ドル、一日7ドルで、これを手がかりに、所得が上がると安全度を増すと言う民主制の右あがりのラインと、逆に所得が下がる独裁政権下の右下がりの二本のラインが描けると言う。
   これを、現在最も成長を続けている中国に当て嵌めると、最近3000ドル超まで急上昇したので、このまま進んで行って、民主化を遂げない限り年を追うごとに、その目覚しい経済成長が政治的暴力の傾向を高めると言えようと言うのだが、どうであろうか。
   
   コリアーは、民主主義の最底辺国において果たす役割を、銃―火に油を注ぐ武装、戦争―破壊の政治経済学、クーデター―誘導装置なきミサイル、の3点に焦点を絞って追求し、その暴力と破壊の凄まじさを描いているが、その後の、アフリカのシンガポールとも言われて発展街道を驀進していたコートジボアールが、一気に破綻国家へ転落して言った様子の描写なども、問題の深刻さを伝えていて、息を呑む。

   私が興味を持ったのは、経済に関する経済学者コリアーの見解で、低開発国であればあるほど、そのリスクは高く、それはあらゆる考え得る限りの誤った解釈を排除した後でさえ変わらなかったと言うことである。
   貧困は極めて危険であること、所得水準の低さだけではなく、成長速度も関係あり、低所得の国同士の場合、国民一人当たりの成長が早いほど、成長が停滞もしくは減退している国よりも、武力衝突のリスクは著しく低い。
   当然ではないかと言うことだろうが、膨大な資料からの分析であり、これは希望が持てる、経済開発が平和を推進すると言う確固たる信念の表明でもあろう。
   弱貧国の経済的苦境の促進は、決して、人類にとって、公共財の平和安全のためにも、益なき選択だと言うことでもある。

   内戦について、暴力衝突はその動機となりそうな問題に対処するだけでは防げず、唯一、武力衝突事態の発生を困難にすることでしか阻止できない、反乱が容易かコンなんかは基本的につまるところ、反乱勢力に武器と資金の入手方法があるかどうかで、反乱勢力に対する効果的に対抗できる能力がその国家にあるかどうかである。
   この発展から逆戻りの武力闘争を如何に根絶するか、何十年も無法状態無政府状態に放置してきたソマリアの現状が、如実に物語っているのかも知れない。(次に続く)
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