歌舞伎座のさよなら公演も、愈々大詰め、今月は、十七代目中村勘三郎の二十三回忌追善公演で、勘三郎が大車輪の大活躍である。
私が、一番期待していたのは、中村屋父子に、玉三郎と松嶋屋3兄弟とが、正に、白熱の共演を演じた「籠釣瓶花街酔醒」である。
最初に見た籠釣瓶は、やはり、勘三郎と玉三郎の舞台であったが、その後、吉右衛門や幸四郎と福助の舞台で、夫々に、意欲的で素晴らしい芝居を楽しませて貰っている。
私は、何故か、この芝居は、仮名手本忠臣蔵の大星や勧進帳の弁慶を演じる役者ではなく、水も滴るいい女も演じられる両刀使いの役者の方が、ぴったりと来る舞台だと思っていて、勘三郎に大いに期待しているのである。
幕府のお膝元である吉原は、京都の島原とも、近松の世界である大坂の花街とも違って、勃興する新しい時代の息吹を感じさせるような色々な人種の蠢く独特な異空間を作っていたようで、地場産業である絹商売で富を蓄積した田舎ものの主人公佐野次郎左衛門(勘三郎)さえもが、絶世の美女八ッ橋(玉三郎)を身請けする寸前までに羽ばたける世界があったことに興味を持ったのである。
その前に、この歌舞伎の「籠釣瓶」の序幕・吉原中之町見初めの場より大詰・立花屋二階の場までの話だが、次郎左衛門が、江戸の土産話にと立ち寄った吉原で、花魁道中の八ッ橋に出会って一目惚れして吉原に通い詰め、身請け寸前まで行きながら、間夫繁山栄之丞(仁左衛門)に別れ話で迫られた八ッ橋に、満座の前で、愛想尽かしを宣告されて恥を掻き、4ヵ月後、再び吉原を訪れて、再会した八ッ橋を、名刀籠釣瓶で一刀の元に切り殺すと言う筋書きである。
言うならば、定職もなしに八ッ橋の仕送りでのうのうと生きているヤクザなひもである栄之丞を間夫にして憂さを晴らしながら、自分の美しさ故に溺れ込んだ次郎左衛門からの身請けの話が目前に迫っているにも拘らず、行き当たりばったりに生きて来た八ッ橋の悲劇と言えば悲劇だが、天国から地獄へ奈落の底に突き落とされた、恋一筋に一途に突っ走った次郎左衛門の生き様が哀れである。
それに、もう一人の悪人で八ッ橋を廓への身元保証人になった親判・釣鐘権八(権十郎)が、立花屋への金の無心が出来なくなって金蔓を失い、腹いせに、間夫の栄之丞を焚き付けて困らせようと企んだのがアザとなって、口車に乗せられた軽薄な栄之丞を激昂させて、八ッ橋に、俺が大切だと言う証拠に次郎左衛門を振れと迫るのだが、元より、金でしか接点のない八ッ橋のことだから、次郎左衛門には興味がない。
八ッ橋に、間夫が居ると知りながら、金払いの良い上客の次郎左衛門に、後先も考えずに、身請け話を進めて、それを取り持つ立花屋おきつ(秀太郎)もおきつで、とにかく、金と色に目が眩んだ人間ばかりが目立つ吉原物語である。
さて、何故、勘三郎がこの次郎左衛門に適役かと言うこと。
満座の前で、八ッ橋に振られた時の次郎左衛門の肺腑を抉るような心境だが、吉右衛門は、「ふられたこと自体よりも、恥を掻かされたということの方が大きいと思う」と言っているのだが、それもそうではあろうが、私は、色に溺れて官能の渦に巻き込まれて八ッ橋にのめり込んでしまって奈落の底に突き落とされた男の悲哀を濃厚に滲ませて苦渋を切々とかき口説く勘三郎の方が、本当の姿に近いと思うし、「花魁、そりゃあんまりそでなかろうぜ」の台詞から、皆が去って、下男治六(貫太郎)と取り残された後の舞台まで、次郎左衛門の八ッ橋への妄執を諦め切れない哀切極まりない心境がよく現れていると思う。
次郎左衛門は、痩せても枯れてもれっきとした絹商人で、銭勘定は元より分かっていた筈。恥や外聞に随分泣かされてきたと思うし、生まれつきのあばた顔に屈辱の限りを味わって来た筈なのだが、吉原有数の絶世の美女八ッ橋との、一世一代の恋で降って湧いたような幸せをどんなに賛美したことか、この幸せの絶頂を断ち切る苦悩がまず先である。
その悲哀が、心を締め上げて、人間として耐えがたき屈辱に心が蝕まれて行き、じりじりと追い詰められて行く心の襞を、勘三郎は、哀願にも似た悲しい表情から、徐々に顔を歪ませ引きつらせながら屈辱に耐えている苦悶を、実にリアルに演じている。
胡弓の哀切極まりない旋律が、勘三郎次郎左衛門の肺腑を抉るが如くである。
このことは、この後の立花屋二階の八ッ橋を、籠釣瓶で一刀の元に切り捨てるシーンにも表れていて、幸四郎や吉右衛門のように豪快で男性的な(?)太刀裁きとは一寸ニュアンスの違った感じで、八ッ橋をいまだに忘れ切れずに、恋の復讐にと、この世の別れの杯をすすめるあたりから徐々にテンションが上がって行く凄みなども、勘三郎の次郎左衛門には、どこか、人間の弱さ悲しさが滲み出ているようで、妖剣籠釣瓶故の惨劇ではなく田舎の豪商の悲しいサガが、最後の茫然自失ながら、籠釣瓶の切れ味に不気味な笑みで頷く表情に良く表れているような気がするのである。
玉三郎は、何と言っても、東西一の立女形の匂うような豪華で絢爛豪華な花魁姿を鑑賞できることで、江戸時代の錦絵の華やかな美しさを彷彿とさせてくれて感激である。
この八ッ橋は、次郎左衛門を嫌っては居なかったであろうが、美貌を良いことにして、不埒な風来坊栄之丞をひもにして囲いながら、どうせ売り物買い物ですからを地で行く生き方で次郎左衛門に接していたのであるから、栄之丞に唆されて次郎左衛門を振れと言われると、二階座敷に入ると一気に態度を変えて嫌いだと切り出して、周りから諭されると反発して煙管を投げ捨て、挙句の果てには、栄之丞を間夫だと公言して座を蹴って発つ。
唯一、門口で、「つくづく嫌になりんした」と、次郎左衛門への縁切りにかけて、浮き草のような遊女の悲しい境遇を吐露しながら、次郎左衛門を門口でちらりと見やりながら、人間らしさを覗かせる。
このあたりの玉三郎の実に優しい仕草が、八ッ橋も、同じ人生の被害者であることを悟らせてほろりとさせる。
さて、栄之丞の仁左衛門の匂うような悪たれ無頼漢風色男、貫禄と品を備えた我當の立花屋長兵衛、引手茶屋・立花屋の女将おきつの秀太郎の関西歌舞伎の雄である松嶋屋の共演は特筆もので、関西風花街の雰囲気なのかどうかは分からないが、非常に、この舞台の質と奥行きを深くしており、流石のさよなら公演である。
朴訥で純朴そのものの治六の貫太郎と花魁七越の七之助兄弟の好サポート、それに、悪辣極まりない釣鐘権八の彌十郎、縁切り場での次郎左衛門に対する優しさ情の深い仕草の冴えた魁春の九重など、脇役の層の厚さも素晴らしい。
(追記)口絵写真は、歌舞伎座二階展示の写真をコピー。
私が、一番期待していたのは、中村屋父子に、玉三郎と松嶋屋3兄弟とが、正に、白熱の共演を演じた「籠釣瓶花街酔醒」である。
最初に見た籠釣瓶は、やはり、勘三郎と玉三郎の舞台であったが、その後、吉右衛門や幸四郎と福助の舞台で、夫々に、意欲的で素晴らしい芝居を楽しませて貰っている。
私は、何故か、この芝居は、仮名手本忠臣蔵の大星や勧進帳の弁慶を演じる役者ではなく、水も滴るいい女も演じられる両刀使いの役者の方が、ぴったりと来る舞台だと思っていて、勘三郎に大いに期待しているのである。
幕府のお膝元である吉原は、京都の島原とも、近松の世界である大坂の花街とも違って、勃興する新しい時代の息吹を感じさせるような色々な人種の蠢く独特な異空間を作っていたようで、地場産業である絹商売で富を蓄積した田舎ものの主人公佐野次郎左衛門(勘三郎)さえもが、絶世の美女八ッ橋(玉三郎)を身請けする寸前までに羽ばたける世界があったことに興味を持ったのである。
その前に、この歌舞伎の「籠釣瓶」の序幕・吉原中之町見初めの場より大詰・立花屋二階の場までの話だが、次郎左衛門が、江戸の土産話にと立ち寄った吉原で、花魁道中の八ッ橋に出会って一目惚れして吉原に通い詰め、身請け寸前まで行きながら、間夫繁山栄之丞(仁左衛門)に別れ話で迫られた八ッ橋に、満座の前で、愛想尽かしを宣告されて恥を掻き、4ヵ月後、再び吉原を訪れて、再会した八ッ橋を、名刀籠釣瓶で一刀の元に切り殺すと言う筋書きである。
言うならば、定職もなしに八ッ橋の仕送りでのうのうと生きているヤクザなひもである栄之丞を間夫にして憂さを晴らしながら、自分の美しさ故に溺れ込んだ次郎左衛門からの身請けの話が目前に迫っているにも拘らず、行き当たりばったりに生きて来た八ッ橋の悲劇と言えば悲劇だが、天国から地獄へ奈落の底に突き落とされた、恋一筋に一途に突っ走った次郎左衛門の生き様が哀れである。
それに、もう一人の悪人で八ッ橋を廓への身元保証人になった親判・釣鐘権八(権十郎)が、立花屋への金の無心が出来なくなって金蔓を失い、腹いせに、間夫の栄之丞を焚き付けて困らせようと企んだのがアザとなって、口車に乗せられた軽薄な栄之丞を激昂させて、八ッ橋に、俺が大切だと言う証拠に次郎左衛門を振れと迫るのだが、元より、金でしか接点のない八ッ橋のことだから、次郎左衛門には興味がない。
八ッ橋に、間夫が居ると知りながら、金払いの良い上客の次郎左衛門に、後先も考えずに、身請け話を進めて、それを取り持つ立花屋おきつ(秀太郎)もおきつで、とにかく、金と色に目が眩んだ人間ばかりが目立つ吉原物語である。
さて、何故、勘三郎がこの次郎左衛門に適役かと言うこと。
満座の前で、八ッ橋に振られた時の次郎左衛門の肺腑を抉るような心境だが、吉右衛門は、「ふられたこと自体よりも、恥を掻かされたということの方が大きいと思う」と言っているのだが、それもそうではあろうが、私は、色に溺れて官能の渦に巻き込まれて八ッ橋にのめり込んでしまって奈落の底に突き落とされた男の悲哀を濃厚に滲ませて苦渋を切々とかき口説く勘三郎の方が、本当の姿に近いと思うし、「花魁、そりゃあんまりそでなかろうぜ」の台詞から、皆が去って、下男治六(貫太郎)と取り残された後の舞台まで、次郎左衛門の八ッ橋への妄執を諦め切れない哀切極まりない心境がよく現れていると思う。
次郎左衛門は、痩せても枯れてもれっきとした絹商人で、銭勘定は元より分かっていた筈。恥や外聞に随分泣かされてきたと思うし、生まれつきのあばた顔に屈辱の限りを味わって来た筈なのだが、吉原有数の絶世の美女八ッ橋との、一世一代の恋で降って湧いたような幸せをどんなに賛美したことか、この幸せの絶頂を断ち切る苦悩がまず先である。
その悲哀が、心を締め上げて、人間として耐えがたき屈辱に心が蝕まれて行き、じりじりと追い詰められて行く心の襞を、勘三郎は、哀願にも似た悲しい表情から、徐々に顔を歪ませ引きつらせながら屈辱に耐えている苦悶を、実にリアルに演じている。
胡弓の哀切極まりない旋律が、勘三郎次郎左衛門の肺腑を抉るが如くである。
このことは、この後の立花屋二階の八ッ橋を、籠釣瓶で一刀の元に切り捨てるシーンにも表れていて、幸四郎や吉右衛門のように豪快で男性的な(?)太刀裁きとは一寸ニュアンスの違った感じで、八ッ橋をいまだに忘れ切れずに、恋の復讐にと、この世の別れの杯をすすめるあたりから徐々にテンションが上がって行く凄みなども、勘三郎の次郎左衛門には、どこか、人間の弱さ悲しさが滲み出ているようで、妖剣籠釣瓶故の惨劇ではなく田舎の豪商の悲しいサガが、最後の茫然自失ながら、籠釣瓶の切れ味に不気味な笑みで頷く表情に良く表れているような気がするのである。
玉三郎は、何と言っても、東西一の立女形の匂うような豪華で絢爛豪華な花魁姿を鑑賞できることで、江戸時代の錦絵の華やかな美しさを彷彿とさせてくれて感激である。
この八ッ橋は、次郎左衛門を嫌っては居なかったであろうが、美貌を良いことにして、不埒な風来坊栄之丞をひもにして囲いながら、どうせ売り物買い物ですからを地で行く生き方で次郎左衛門に接していたのであるから、栄之丞に唆されて次郎左衛門を振れと言われると、二階座敷に入ると一気に態度を変えて嫌いだと切り出して、周りから諭されると反発して煙管を投げ捨て、挙句の果てには、栄之丞を間夫だと公言して座を蹴って発つ。
唯一、門口で、「つくづく嫌になりんした」と、次郎左衛門への縁切りにかけて、浮き草のような遊女の悲しい境遇を吐露しながら、次郎左衛門を門口でちらりと見やりながら、人間らしさを覗かせる。
このあたりの玉三郎の実に優しい仕草が、八ッ橋も、同じ人生の被害者であることを悟らせてほろりとさせる。
さて、栄之丞の仁左衛門の匂うような悪たれ無頼漢風色男、貫禄と品を備えた我當の立花屋長兵衛、引手茶屋・立花屋の女将おきつの秀太郎の関西歌舞伎の雄である松嶋屋の共演は特筆もので、関西風花街の雰囲気なのかどうかは分からないが、非常に、この舞台の質と奥行きを深くしており、流石のさよなら公演である。
朴訥で純朴そのものの治六の貫太郎と花魁七越の七之助兄弟の好サポート、それに、悪辣極まりない釣鐘権八の彌十郎、縁切り場での次郎左衛門に対する優しさ情の深い仕草の冴えた魁春の九重など、脇役の層の厚さも素晴らしい。
(追記)口絵写真は、歌舞伎座二階展示の写真をコピー。