熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ギリシャでのビジネスが難しいわけ・・・WSJ

2011年11月10日 | 政治・経済・社会
   ”ギリシャに死期が近づいている理由を知りたければ、クリストファー・イーグルトン氏の体験談を聞くといい。 ロンドンのビジネスマン、イーグルトン氏はクレタ島における数千の雇用創出と地元経済の活性化のために過去12年間と5000万米ドルを費やしてきた。・・・ 英雄的な努力と強大な政治的支援にもかかわらず、そのプロジェクトは発足から12年が経過して今も計画段階にある。”
   こんな書き出しで始まるWSJ記事のクレタ島での大型観光プロジェクトだが、ギリシャ的ビジネス慣行が災いして、二進も三進も行かない。
   ”このところのギリシャ危機で、世界の目が急増する国家債務に注がれているが、これは症状でありながら原因でもある。稼ぎがないにもかかわらず、支払いに充てるための借金を繰り返しているのだ。イーグルトン氏の話は、ギリシャが必要な資金を稼げない理由を浮き彫りにしている。” と言うのである。

   ”イーグルトン氏は、ロンドンに拠点を置く上場企業、ミノアンの会長である。同社はクレタ島東部の低木地の一画にリゾート施設を建設しようとしている。このプロジェクトはもともと、クレタ島の経済発展、雇用創出、成長を望んでいた地元の修道院長のアイディアだった。ミノアンの当初の計画には、5つのホテル、マリーナ、リゾートマンションなどが含まれていた。実現していれば、2300人の直接的な雇用に加えて、1万1000人の間接的な雇用を生み出していたかもしれず、ギリシャの低開発地域に最低でも年間1億米ドルの収入をもたらすはずだった。”と言うのだが、”同氏に手を差し伸べる地元の住人も大勢いた。しかし、その手の多くは、袖の下を受け取ろうとして出されたものだった。 「異例な要求がたくさんあった」。イーグルトン氏は賄賂についてこう述べた。「モラル面での賛否とは別に、われわれはそうした要求に応じられなかった。英国や米国の企業にとって、それは違法行為になる」”
   ”実際にはプロジェクト発足後8年目で開発許可が下りたが、反対派が上訴したため、またしても官僚的な手続きに苦しめられた。そして昨年ついに、ギリシャの裁判所でこのプロジェクトの申請が棄却された。”
   事業計画を縮小して再提出中だが、アミアン株の異常安を見れば、ロンドン市場が絶望視しているのが分かると言う。

   私自身、この記事の深刻な事情は、長い海外経験から、痛い程分かるのだが、ビジネス・モラルの欠如した新興国や発展途上国での海外事業で、必ず遭遇する問題で、実際に事業を行っているMNCが、これまでどのように対処して来たのか、非常に興味のある問題でもあり、現実を知りたいと思っている。
   私のブログで、某大学での講義の参考にと思って、「BRIC’sの大国ブラジル」を書いており、この辺の事情が垣間見えるのだが、ラテン・アメリカでは、このギリシャのケースと似たり寄ったりの現状のようだし、余程、強力なアミーゴの支援と協力サポートを得ないと、事業の推進は非常に難しいと言う。
   ブラジルにあるデスパシャンテと言う何でも屋の許認可取得会社は、かなり高い然るべき金額を支払えば、非常に時間が掛かって取得が困難な許認可でも、かなり、早く容易に取ってくれるのだが、これなど、合法的な裏手段なのかも知れない。  
   現実にラテン系の国は、国にもよるのだが、アミーゴ社会であって、身内や家族主義的、仲間意識が優先するクローニーキャピタリズムの要素の強いビジネス慣行で、アミーゴ関係が優先して法律契約軽視であるから、英米のように法律や契約が総てであるような法治国家とは違うので、理屈では物事が進まない。
   こんなところでは、必ず、イーグルトンのような問題に遭遇するのだが、現在のEUの深刻な経済問題を見ていると、いわば、文明の衝突とも言うべき深刻なケースで、ギリシャとドイツの合意など、本来は、大義名分がなければ不可能な筈なのである。

   先月、腐敗に対するグローバルの戦いをリードすると言うNPOのトランスペアレンシー・インターナショナルが、「公共部門の腐敗度を示す2010年腐敗認識指数」を発表した。
   勿論、ギリシャなどは、178の内の78位で、目も当てられない程程度が低いのだが、中国も同じ78位で、ブラジルが69位、イタリアが67位と言う体たらく。先進国で最下位のスペイン30位、ポルトガル32位と比べても、非常に腐敗度が高いビジネス・モラルの低い国だと言うことが分かろうと言うものだが、今、ヨーロッパの財政危機で、デフォールトの心配のある国が、腐敗認識指数が高いのも肯けるような気がする。
   因みに、1位は、デンマーク、ニュージーランド、シンガポールで、イギリスは20位、アメリカは22位、わが日本は、幸い17位で善戦している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(19) アマゾン その2

2011年11月09日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   アマゾンでのもう一つの深刻なブラジルのアキレス腱は、ブラジル政府の原住民対策や保護の手抜きと、今様奴隷とも言うべき賃金奴隷(wage slavery)の存在の問題である。
   奴隷制度が、19世紀に廃止されて、世界でも屈指の人権尊重の憲法を誇るブラジルだが、何百年前の建国当時と殆ど変らない非人道的な労働慣行が行われているなどと言う問題を、ローターは、レポルタージュを交えて詳述している。

   トランス・アマゾン・ハイウエーは、いわば、アマゾン地帯のバックボーンとも言うべき貴重な道路で、ブラジルの経済発展のため、そして、貧しい地方からの膨大な農民たちの移動を助けたのだが、長い間アマゾナス州知事であったジルベルト・メストリンニョと言った地方の大ボスたちが、このメリットを最大限に使って、私腹を肥やして行った。
   アマゾンには、満足なインフラがないので、1966年軍事政権が、SUDAM(アマゾン開発公社)を設立した。
   政府は、一定率のSUDAM配賦金を所得税のような形で徴収していたので、私も払っていたが、本来、アマゾン川住民のために使われるべき筈の資金が、殆ど、メストリンニョや隣のパラ州のバルバリョと言った大ボスや関係者に贈収賄の形で流れてしまって、何十年も全く実質的な効果が上がらなかったので、2001年に廃止されたと言うお粗末さ。
   アマゾン川の住人と称されるカボクロ、すなわち、原住民であるインディオは、いまだに、狩猟や初期農業をして生活しており、生活に困窮し、その多くは、貨幣経済の埒外にあると言い、マラリアやデング熱など風土病で若くして死んで行くと言う。

   ブラジル政府が、インディオ達の厚生福利と言わないまでも、生活水準の向上に殆ど手を付けないので、インディオ達は、むしろ、自分たちに同情的な内外の機関や個人と協力して、自分たちの生活や文化を守ろうとしているのだが、このインディオの自衛手段が、以前に書いた、アマゾンを外国人に取られるのはないかと言うブラジル人の疑心暗鬼に火を点けているのだと言う。
   ブラジル人は、インディオの法的ステイタスは、ブラジル人の子供で、外国人の餌食になる可哀そうな奴だと、一人前扱いにしていないとローターは言う。

   ローターは、ベネズエラとの国境地帯にあるヤノマミ保護居住区に行ってレポしているが、ここには、ブラジル軍が駐在しているのだが、インディオの保護に当たるどころか、少なくとも18人のインディオ少女に妊娠させて他にも性病をうつしたり、幼いヤノマミ族を兵隊にとったりしているので記事に書いたらえらいことになったと言っている。

   ところで、インディオの人口だが、ブラジル建国時には600万人いたのが、1970年には、20万人に激減し、その後、人口が3倍くらいに増えているので、テリトリーの問題でトラぶっていると言う。
   インディオは、少人数の集団を形成して移動する狩猟民であるので、広大な土地を必要としており、1%以下の人口で10%の土地を名目上支配しているので、それが増加するとなると、アマゾン開発に虎視眈々と身構えている開発業者など多くのブラジル人が、利権保護のために、大反発するのである。
   しかし、現実には、インディオの所有権が厳然と存在しているインディオ保護居住区は、地方の大ボスや鉱山業者や開発業者たちの違法極まりない侵入や乱開発で無茶苦茶に権利が侵害されており、駐屯している軍隊も、インディオを保護するどころか高飛車に対応してトラブルが絶えないと言うのだが、これも、ローターの2004年と2007年の、ベネズエラとギアナ国境のラッパ・セラ・デ・ソル保護居住区訪問時のレポである。
   現在でも、武装した開発団などが、どんどん、インディオ・テリトリーに押しかけて権利を侵害し、アマゾンの乱開発を進めていると言う。

   もう一つは、今様の賃金奴隷制度の存在である。元々、19世紀から20世紀初頭のゴム景気の時に端を発しているのだが、現在では、輸出用の植物栽培や、木材業、鉱山業と言った過酷な労働に、貧窮した農民労働者などが各地から集められて、粗末な住居に寝起きして奴隷のように酷使されていると言う。
   身分証明書や労働手帳は、燃やされてしまい、毎日朝の6時から仕事に出て夜の11時に終わり、生活必需品はすべて強制的に労働キャンプで買わされ、生活経費はすべて天引きされるので、賃金は一度も支払われたことがないと元賃金奴隷がローターに語っているが、ある宗教団体によると、そのような労働者が、少なくとも、2万人存在し、政府機関の急襲で、毎乾季に、1000人以上が解放されるのだと言う。
   武装した監視人によって厳重にガードされているので、逃げるに逃げられないというのだが、現実は、あの植民地時代の東北地方のサトウキビのエンジェニーニョ制度と殆ど同じような過酷さが、ブラジルに存在するのをどう見るか、BRIC’sのどこも似たり寄ったりかも知れないと思うと、経済の発展段階と文明の連鎖を感じざるを得ない。

   勿論、ブラジル政府も、国のイメージダウンであり国際信義にも反するので、問題を看過している訳ではなく、調査員を置いたり急襲調査したり、対策を講じているのだが、何しろ、メインロードや集落から深く入り込んだ遠隔地のジャングルの中の人跡未踏に近いペルーやボリビアとの国境地帯にあるので、思うように進まない。
   それに、インスペクターの体たらくは、十分な人員も装備もなく、車のガソリンや修理パーツ不足に泣いていると言うのであるから話にならないので、ブラジル政府は、逆に、国際的な批判を叩くのに汲々としていると言うのであるから恐れ入る。
   とにかく、この人権問題とも言うべき深刻な問題が、飛ぶ鳥落とす勢いの筈のブラジルの、過去の歴史の暗部を背負った悲劇の一端でもあり、世界には見えないアマゾンでの深刻な一側面でもあるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

核なき世界を求めて・・・日経・CSIS「トモダチ作戦と日米同盟の未来」

2011年11月08日 | 政治・経済・社会
   日経ホールで、第8回日経・CSISシンポジウムが開かれて、アメリカから来日した外交軍事専門の知日知識人を中心にして日本の専門家も加わり、「東日本大震災、トモダチ作戦と日米同盟の将来」をテーマにして、非常に密度の高いシンポジウムが展開された。
   今回は、特に、大震災の後で、福島第一原発の事故で、原子力そのものに対する大きなクエッションマークがついたので、エネルギーとしての商業的平和利用と核拡散・核軍縮等の安全保障の両面から、原子力の将来について議論された。

   冒頭、ウィリアム・ペリー元米国国務長官が、「核なき世界とフクシマ」と言う演題で、基調講演を行った。
   長官は、冷戦後のウクライナなどの旧ソ連地域での、実際に現場で経験した核廃棄の状況を説明しながら、核兵器テロの恐怖から説き起こして、核なき世界を目指して、如何に、闘って来たかを熱っぽく語った。
   1994年に、国務長官になった時に、核全廃に一歩でも近づくと誓ったと言うのだから、筋金入りの核兵器反対派で、J・シュルツ、H・キッシンジャー、サム・ナンとで結成した4賢人が、ホワイトハウスの大統領執務室で、オバマ大統領に、「核なき世界」の実現に向けた政策のアドバイスをしたと言うことで、これが、オバマ米大統領の、あの世界を感動の渦に導いたプラハでの核軍縮・核廃絶演説に繋がったと言う。
   しかし、イランなどの動向を見ていると、核軍縮、核不拡散への道は程遠い。
   
   一方、アメリカなどエネルギーの50%は、赤字原因でもある外国からの石油輸入に頼っており、この石油への依存度が高まれば高まる程、ロシアやベネズエラ、サウジアラビア、イランなどの危険な地域へ資金が流れて行って、エネルギー安全保障を脅かすこととなり、原子力発電が後退すれば、その危険は益々増幅して行く。
   原子力ルネサンスと称されたように、原子力発電は、本来、クリーンで信頼性高く、安全であったと言うのだが、原子力は、核テロの脅威、核軍縮・核拡散防止とエネルギー安全保障の両面から検討すべきと言うことであろうか。
   ペリー長官は、原子力発電が後退しても、今、進行中のイノベーション等によって、将来のエネルギー需要は賄っていけると言う。
   多少、解決すべき問題はあるがと言って提示したのは、①シエールガス②プラグ・イン・ハイブリッド車③セルロース系バイオ燃料④省エネへの取り組み、である。
   この程度で、原発の代替が出来るとは思えないが、アメリカとしては、原発は止められず、現状程度の維持と言うことのようである。

   戦略国際問題研究所(CSIS)のジョン・ハムレ所長は、冒頭から、はっきりと、日本が、商業的原子力発電事業から撤退するのは間違いだと言う。
   原発は、本来、豊かなエネルギー資源を生み出す地球環境にも優しく、エネルギー安全保障のためにも大切である。
   日本が、たとえ、原発を止めても、隣の中国では、現在20基あるのを、近く50基増やすつもりであり、その影響そして危険を、日本は、もろに受けることになる。
   世界中には、今、400基の原発があるが、これからの30年間に300基増える計画で危険が増幅して行くが、その原発を、誰が建設するのかが問題である。
   欧米日が、この方面から後退すると、責任感の薄い能力の劣った国が、建設を担当することになり、これは、極めて危険なことである。
   したがって、日本は、原発を継続して、商業的原子力産業の巨人・リーダーとして、原子力のプラスマイナスのバランスを上手く取った平和のための、確固たる監督体制を確立して透明でオープンな技術開発を行うことが、日本の国益にも利し、世界のためになるのだと言う。
   
   ヨーロッパでは、ドイツやイタリアは、原発を止めたし、日本でも、今回のフクシマで、一挙に、原発反対が優位に立った。
   これらの国は、第二次世界大戦の敗戦国で、生活環境の破壊と生命の危険が、如何に最悪かを身を持って経験しているので、核アレルギーの強さは格別であり、当然のことであろう。それに、代替エネルギーなどへのイノベーションには、自信がある。
   ところが、中国やインドなどの新興国や発展途上国は、原子力発電への期待は強く、今後、増加の一途を辿るであろう。
   さて、世界最高峰の技術を誇り、原子力発電所建設のノウハウや技術を持った日本は、どう対処して行くのか、ハムレ長官の言うように、商業的原子力産業のリーダーとなるのか、原子力よさようならと言うのか、難しいところである。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

顔見世大歌舞伎・・・菊五郎の「魚屋宗五郎」

2011年11月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎は、愈々、顔見世、そして、尾上梅幸と尾上松緑の追善興行である。
   したがって、演目も、二人や音羽屋に縁の深い舞台ばかりで、当然のこととして、菊五郎、菊之助、松緑が、メインとなって、晴れやかで華麗な舞台が展開されている。
   この口絵写真も、劇場内に展示されていた梅幸と二世松緑の舞台姿なのだが、時代の流れか、役者の体型も世の流れも変わってくると、雰囲気も大分違うのではなかろうかと思いながら見ていた。
   
   私にとっては、物語のある舞台の方が性に合っているので、今回の河竹黙阿弥作の「魚屋宗五郎」と「髪結新三」の方に興味があって、正に、脂の乗り切った菊五郎のタイトルロールの至芸とも言うべき素晴らしい舞台に感激しきりで、鑑賞させて貰った。

   まず、魚屋宗五郎だが、『新皿屋敷月雨暈』と言う分かり難い題名だが、播州や番町の皿屋敷伝説を踏まえた物語。
   冒頭、芝神明社の祭りの日、魚屋を営む宗五郎(菊五郎)の家は喪中で悲嘆に暮れている。宗五郎の妹お蔦が、旗本磯部家へ奉公に上がり殿様の妾となっていたのだが、不義の疑いを掛けられて殺されたのである。ところが、お蔦の朋輩のおなぎ(菊之助)が、その疑いは全くの濡れ衣だったと真相を語る。それを聞いた宗五郎は無念の思いを押さえ切れず、自らの禁酒の誓いを破っておなぎの持って来た酒樽に手をつけて飲み乾し泥酔してしまい、酒が入ると暴れだす性質の宗五郎は、女房おはま(時蔵)が止めるのも聞かず、角樽片手に磯部の屋敷へ暴れ込んで行く。磯部邸に乗り込んだ宗五郎は、酒の勢いに任せて、大暴れして縛られるのだが、お蔦が嬲り殺しにされた無念極まりない胸の内を家老浦戸十左衛門(左團次)に訴えて、酔いが回って寝込んでしまう。十左衛門の計らいで、登場した磯部主計之助(三津五郎)が手をついて丁重に謝って幕。

   河竹黙阿弥作の世話物で、面白い芝居だが、髪結新三もそうだが、あの松本清張の多くの小説のように、最後の詰めが甘くて、肩透かしを交わされたような感じがして後味が悪い。
   お蔦が殺されたのは、磯部家の用人の息子岩上典蔵が、お蔦を手込めにしようとしたが失敗し、悲鳴を聞きつけて駆けつけた家老の弟浦戸紋三郎に罪をなすりつけ、不義呼ばわりするのだが、ここまでは兎も角も、酒乱に近い短慮な磯部が、良く真相を調べもせずに、怒りに任せて、お蔦を切り殺す。
   この磯部が、歌舞伎の舞台では、何を思ったのか、徳川の将軍様よりも威厳と品格を備えた高邁なお殿様然として登場し、悪いのは、バカで悪辣な家来に騒動を起こされているにも拘わらず統治能力がなく、短慮でお蔦を切り捨てた自分が諸悪の根源でありながら、典蔵の成敗を約しただけで幕引きを図る。
   酒が覚めて正気に戻った宗五郎も、手討ちになるかと覚悟を決めて萎れ切っているのだが、殿に謝られて、弔問金も貰い、父の太兵衛には二人扶持を賜り、敵討ちも約束してくれたので、宗五郎も溜飲を下げたという、いかにも、庶民を食ったハッピーエンド(?)の結末なのだが、私は、磯部の理想的な殿さま扱いと、宗五郎の卑屈とも言うべき小市民化してしまった姿のどんでん返しが納得できない。
   江戸時代ならともかくも、1883(明治16)年に市村座での初演なのである
   河内山宗俊に脅し上げられて、臍を噛む松江出雲守の方が、余程、真実味のある殿さまだと思っている。

   それはさて置き、とにかく、菊五郎は、実に上手いし、味のある演技で聴衆を感動させてくれる。
   特に、お蔦の死の真実を知って、どうにもこうにも悔しさと憤りに堪えられなくなってしまって、禁酒の誓いを破って、一口口をつけてから、女房おはまや小奴三吉(松緑)の止めるのも聞かずに、どんどん、騙し賺して飲み進んで行き、酒乱と化して行く芸の確かさは秀逸で、最初から最後まで、芸の流れの澱みが全くない。
   私など、鈍感故に人の折角の好意に気が付かずに遣り過ごして、後で気が付いて後悔で眠れないと言ったことがあるが、宗五郎の場合は、正に、断腸の悲痛。
   冒頭に、父親の太兵衛(團蔵)が、お屋敷へ乗り込むと息巻いていたのを、殿様から頂いた支度金で一家の借金が返せたと父親をなだめていた宗五郎だが、その宗五郎が、怒り心頭。この芝居は、宗五郎の人間としての心の叫びがテーマなのであろうが、酒の酔いでしか、うっぷんを晴らせない庶民の悲しい性を黙阿弥が描きたかったのかも知れないが、私としては、先にも触れたように、権威に対して、もう少し毅然とした姿勢であっても良いのではないかと思っている。

   前に、同じ菊五郎の宗五郎で見た時には、確か、おはまは、玉三郎であった。
   玉三郎が、化粧を落として庶民のおかみさんをやると、その落差が激しいのだが、時蔵になると、大分、雰囲気がしっくりと来て、菊五郎との相性が良い所為か、ポンポン対応するテンポとリズミ感が軽快で心地よく、最後の庭先で弔問金を貰うか貰わないかで逡巡する宗五郎に、貰ったらと指図するあたりの些細なことにしても呼吸の確かさは流石で、菊五郎の宗五郎に対する夫唱婦随ぶりが光っていた。
   松緑の三吉と、菊之助のおなぎは、恰好の適役で、水を得た魚のごとくと言ったところで、若くて瑞々しい演技が爽やかである。
   三津五郎の磯部は、素晴らしいお殿様ぶりだが、前述したように、この舞台では仕方がないかも知れないが、あのような風格のある磯部像が果たして正しい姿なのかどうか、私には、疑問が残った。
   團蔵の父太兵衛は、もう少し老たけた雰囲気が欲しい。菊五郎との芸の差が有り過ぎて、影が薄くなったのが惜しい。
   家老の左團次は、何時もながらの適役。
   やはり、顔見世の素晴らしい舞台であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが庭の歳時記・・・バラと西洋朝顔が一緒に咲く

2011年11月06日 | わが庭の歳時記
   私の庭の椿が咲き始めた。
   寒椿は大分前から咲き始めていたのだが、西王母と紅妙蓮寺が咲くと、もう秋も深まって本格的な冬支度である。
   椿の木は、しっかりとした蕾を沢山付けていて、少しずつ蕾が大きくなって色づき始めるのだが、実生苗が大分大きく育って、蕾を付けはじめたので、どんな花が咲くか楽しみにしている。
   実生苗の場合には、挿し木や接ぎ木のようなクローンではなくて、自然に受粉した苗木なので、雄蕊の花粉が、どの椿から来たのか分からない、いわば、雑種の可能性があるので、親木とは違った花が咲くことがあるので、興味津々なのである。
   勿論、同時期に花が咲く椿でないと交配は無理なのだが、鉢植えを含めて4~50種くらいは植えてあるので、場合によっては、全く見たことのない花が咲くかも知れない。

   ところで、日本朝顔の花が止まって種が沢山出来たのだが、今まで、咲かなかった西洋朝顔のヘブンリーブルーが、青い綺麗な花を咲かせ始めた。
   3メートル以上の椿やツゲの木の上まで伸び上がっているので、気付かなかったのだが、鮮やかなブルーに気が付いて見上げると、びっしりと蕾がついている。
   日本朝顔は、一か所に一輪しか花が咲かないのだが、西洋朝顔は、一本の茎から5~6この蕾が出て順番に咲き始める。
   西洋朝顔は、種を蒔いても発芽率が悪く、それに、発芽しても極めて貧弱な苗なので着くかどうか不安になるのだが、上手く成長すると逞しい茎に育って、何メートルも高く庭木に這い上がって、長い間花を咲かせる。
   それに、何よりも好ましいのは、朝早くに萎んでしまう日本朝顔と違って、花の命が長くて、午後遅くまでしっかりとした花を保っているのである。
   霜が降りる頃までなので、後僅かな期間だが、青空をバックにして、ブルーに咲く花も、中々風情があって良い。

   この季節には当然だが、四季咲きのバラが、今盛りである。
   今年は、少し、バラの手入れに手を抜いてしまったので、花の数は少ないのだが、イングリッシュ・ローズとフレンチ・ローズの何本かは、花を咲かせてくれている。
   この口絵写真の真ん中の淡いピンクの花が、イングリッシュ・ローズの「シャリファ・アズマ」で、花弁の中央は比較的ピンクがかっているのだが、外側に行くと少しずつ白くなり、かなり強いフルーツの芳香を放つ綺麗で上品な花である。(下の花は、フレンチ・ローズのフランシス・プレイズ、上の濃いピンクは、うらら)
   オールド・ローズの性格を残したハイブリッド種のようだが、中輪だが、花弁がびっしりと詰まっていて、愛らしいロゼット咲きになる。
   夫々のバラの木の花数が、それ程多くないので、綺麗に咲くと、何本かは切り花にして、楽しんでいる。

   今、ツワブキが満開である。
   買った時には、小さな鉢植えだったのだが、栄養に恵まれた土地だと、葉も大きくなり、茎もグンと伸びて、沢山の花を咲かせてくれる。
   株分けしたので、庭のあっちこっちで、黄色い花を咲かせている。
   ムラサキシキブが、綺麗な紫色の実を沢山付けていて、秋の草花の全くない私の庭に、彩りを添えてくれている。

   百舌鳥が、私の庭にもやって来るようになった。
   トンボの色も、赤い色が深まってきた。
   もうすぐ、北の国から、ツグミやジョウビタキが訪れて来てくれる。
   何故か分からないのだが、鉢植えのモミジが一本だけ、綺麗に色づき始めた。
   もう、11月。少し、まだ温かいのだが、気の遠くなるような静かな冬が、もう、そこまで近づいて来ている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バンカメ、デビットカード手数料を断念

2011年11月05日 | 経営・ビジネス
   バンク・オブ・アメリカが、業績悪化に悩み収益源を確保するために、「デビットカード」の利用者から手数料を取ろうとしたが、一人の女性が反対ののろしを上げたのが切っ掛けで、利用者らから激しい反発を受け、断念に追い込まれた。
   金融機関はこれまでデビットカードの利用について、店舗側からだけ手数料をとってきたのだが、この手数料の上限を引き下げる規制が先月始まったので、金融機関は収益が目減りするため、消費者側に負担を求めようとしたのである。
   今日のアメリカのABC TVでは、バンカメの預金者たちが、ATMの手数料にもけしからんと、雪崩を打って口座を解約して、手数料のない信用銀行などに、資金を移動し始めたと報道していた。

   あれだけ世間を騒がせて、世界的な金融危機を引き起こして、政府の援助を受けて倒産を免れた銀行が、更に、納税者である消費者に負担をかけるなどは絶対に許せないと言うことであろうが、経済不況と格差拡大に喘ぐ庶民にとっては、たとえ、月5ドルの手数料でも、絶対に許せないと言う心境でもあろうか。
   「ウォール街を占拠しよう」をスローガンにあっちこっちで起こっている民衆デモや、国民に救済されて立ち直った銀行であることなど諸般の事情を考えれば、このデビッドカードへの手数料政策が如何に国民感情を逆なでするのか、そして、今回の北アフリカや中近東で勃発したアラブの春でのツイッターやフェイスブック等のインターネット革命の威力が燎原の火のように伝播すれば、如何に巨大な権威でも崩壊させる威力を持っているかが分かる筈なのだが、メガバンクの能天気ぶりと言うか、時代錯誤振りは、ここに至れりであろう。

   私は、この銀行の、特に、ATMの手数料については、トフラーの「生産消費者 Prosumer」論を引用して、これまでに何度も反対を唱えて来た。
   今日ではATMで、本来、銀行員がやっていた送金や出納業務などを、預金者が代わって行っている、自分自身で生産業務を実施して消費すると言う業務を行っているのであるから、むしろ、銀行側が、代行手数料を支払うべき性格のものである。
   尤も、銀行側は、膨大な投資をして手間暇かけてATMシステムを構築して、預金者の利便を図っているのであるから、手数料を頂くのは当然だと言う論理なのであろうが、二度のシステム・トラブルを起して大パニックに陥ったみずほなどは、確かに、情けなくも、同情の余地はあろう。
   しかし、インドからIT関係のシステムエンジニアを呼んで外注した新生銀行などは、5分の1か10分の1か忘れたが、格安価格で銀行システムを確立してトラブルなしであったし、今なら、専門家に任せてクラウド・コンピューティングのシステムを上手く活用すれば、はるかに、安くATMシステムを稼働できるのではないかと思うと、近い将来、嫌でも応でも、ATM無料化に走らざるを得ないのではないかと思う。

   大切なのは、デジタル革命でICT化が大変な速度で進展し、あらゆる産業のビジネス・モデルを大変革して来ているのであるが、その一つであるこの「生産消費者」化への大変革をどのように事業に取り込んで行くのかが、非常に重要になってくる。
   例えば、ネットショッピングなどは、価格破壊と言う形で消費者に報いている。
   写真などは、イーストマン・コダックが、フィルム・カメラ・システムを確立してから個人で写真を写せはしたが、すべて、DPE任せであったのが、今では、プリント作成まで一切自分自身でやれるようになったし、カメラも電器会社が手掛けるパソコン周辺機器に成り下がってしまったのだが、関連業界の大変革には驚かざるを得ない。これも、会社によっては、機器はバーゲン価格で売って、インクや用紙などの消耗品で利益を確保しようと、銀行のATM手数料と同じような姑息な手段を取っているが、早晩、ペーパーレス、プリントレスの潮流に駆逐されるであろう。

   私の言いたいのは、顧客を「生産消費者」化した場合には、その代行業務で手数料を取ったり、それを逆手にとって儲けようとするのではなく、その利便性はすべて顧客に還元して、その合理化余力を、更なる業務改善へのイノベーション開発に振り向けて、事業展開を図るべしと言うことである。
   銀行のATM業務のような自動化による顧客の生産消費者化は、一種のゼネラル・パーパス・テクノロジーであって、その認識が、銀行にあるのかどうかと言うこともあろうと思う。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(18) アマゾン その1

2011年11月03日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   「ナショナリズムとジャングルのパラノイア」と副題のついたこの「アマゾン」の章は、アマゾンの乱開発に反対していたアメリカ生まれのシスター・ドロシーが、酋長たちとの面会に向かう途中のアマゾン横断道路で暗殺された事件から説き起こしている。
   1970年代以降彼女が活動していた地域の老朽ハイウエーを、ブラジル政府が再舗装すると発表した瞬間、一気に、周りの土地価格が急騰し始め、全国から、森林業者や牧畜業者や投機家などが雪崩れ込んで来て、見るも無残な乱開発を始めていたのである。
   シスター・ドロシーは、その無法者たちの犠牲になったのである。
   (2006年12月30日のブログ「地球の悲鳴・・・消え行くアマゾン熱帯雨林」で、ナショナル・ジオグラフィックの記事を紹介し、アマゾンの乱開発を論じた。)

   ローターによると、「アマゾンは、ブラジル人のモノだ。」と言うスローガンは、幼稚園に入った瞬間に叩きこまれて、死ぬまで何回も繰り返して教え込まれるブラジル人のマントラになっていて、国土をどのように使おうと自分たちの勝手であると言う感覚が染みついていると言う。
   このアマゾン地区は、ヨーロッパ全体より広大なのだが、この40年間に、その5分の1を破壊しつくしてしまっている。
   牧場に、大豆のプランテーションに、ハイウエーに、木材や製鉄工場に、発電施設に、鉄道に、ガスや油田開発に、追放農民の居留地に等々に変えてしまったのだが、この行為が、本当に国の経済発展に役立っているのか、或いは、単なるユニークな天然資源のタダ乗りの浪費なのか、考えてみる価値があると、ローターは糾弾する。

   国土の60%を占めるアマゾン地帯には、人口の10%しか住んでおらず、大半は南部の沿岸地帯に住んでおり、非常に遠くて訪れた者も非常に限られているので、ブラジル人には、アメリカ人にとってのワイルド・ウエストのように、殆ど、神秘的で無関心だと言う。
   ところが、我々、先進国の人間にとっては、アマゾンは、真水の4分の1を保持し、魚類、植物、鳥類など地球上最大の宝庫であり、地球温暖化問題の最大の焦点である。科学者たちは、このアマゾンの破壊が続いて、酸素供給源としてのエコシステムが崩壊してしまうと、宇宙船地球号の運命が危機に直面すると予言しており、正にアマゾンの環境破壊は、人類に取っては死活問題である。  
   現下のようなブラジルの急速なアマゾンの熱帯雨林破壊が続くと、地球は一気に帰らざる河チッピング・ポイントに到達してしまって、ブラジルのみならず世界全体が沈没してしまうのは必定なのである。

   ブラジル政府も、世界的な圧力で、不法開発を阻止すべく試みても、たとえ、科学の進歩で、上空からアマゾンに立ち籠る煙を発見しても、地上の違法開発を阻止する能力は殆どない。2009年のコペンハーゲン・サミットで、森林破壊の減少分半分を加味して、40%温室効果ガスの削減義務を負ったのだが、今や、中国、アメリカ、インドネシアに次ぐ世界第4位の排出国で、生活廃棄物と化石燃料による産廃がひどく、その相当部分は、アマゾンの熱帯雨林の破壊によるものだと言う。
   深刻な問題は、環境破壊対策に対する、ブラジル政府のアマゾン地帯の統治能力の欠如で、世界の各機関が援助等サポートしてくるのだが、外部勢力の接近が、アマゾンの存在を羨むアメリカなどがアマゾン支配を目論んでいると言った不安を増幅させて、ブラジルのパラノイアになっている。
   ブラジル軍の極秘レポートによると、グリーンピースや、国際保護団、熱帯雨林行動ネットワーク、ワイルドライフ・ファンドなどは、アマゾン支配のためのアメリカの手先だとまで書いている。
   嘘か本当か、アメリカの中学の地理の教科書からの引用だとして、アマゾンを国際コンソーシャムの管理下にあると書いた地図を示して物議を醸して、米伯外交問題になったが、その引用地図に到底ネイティブの英語だと思えないような拙い英語が書かれていたと言うのだから驚くが、更に、アメリカ人のローターは、ブラジル各所での、外国人がアマゾンを欲しがっていると言うプロパガンダや、でっち上げ報道やデマ情報について克明に描いている。
   アル・ゴアも餌食になったようで、ノーベル賞受賞時に、「アル・ゴアは、アマゾンは、ブラジル人の考えとは違って、人類全体のモノだ。と言っている。」とブラジル紙が報道したと言う。
   とにかく、ブラジル人は、アメリカがアマゾンを狙っているのではないかと始終心配しているのだが、インディオの保護なども含めてそのアマゾンをまともに統治できないパラノイアにも呻吟していると言うことである。
   
   かって、フォードやダニエル・ルードウッヒなどがアマゾンに投資して開発を手掛けたのだが、政治的な問題やジャングルでの開発スケールなどの問題で失敗しており、こんなこともあって、実際には、アマゾンへは、外資はあまり近寄らないようである。
   しかし、ブンゲ、カーギル、ADMなど穀物メージャーが、セラードからアマゾンにかけて、どんどん、ブラジル農業と国土を侵食し始めているし、アマゾンを、ブラジルが、有効に国家統治出来なければ、宇宙船地球号の未来のためにも、国際管理下に入るのは、時間の問題であろうと思われる。

   私が、ブラジルと関係を持っていた1972年から、出張も含めて、1990年代の初め頃までは、飛べども飛べども、ジャングルに包まれたアマゾンの熱帯雨林地帯の風景が、どこまでも変わらない程巨大な空間であったが、最近の上空写真を見ると、あっちこっち乱開発されて、魚の骨のような状態の所や、ハゲチョロケの空間が嫌に多くなったような気がする。
   今回の福島のように無味無臭で見えないので分からない原子力の恐ろしさは格別だが、見えているにも拘わらず、手を打てずにいて、それがどんどん、地球環境を破壊して、人類の首を絞め続けていると言うのも、極めて恐ろしいことである。
   自然の宝庫、アマゾンをどうするのか、私の子供頃には30億人であった人口が、70億人を突破してしまった今日、恐ろしさはつのるばかりであるのだが、しかし、ブラジルには、ブラジルの言い分があるのであろうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿御苑菊花壇展始まる

2011年11月02日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   秋晴れの午後、久しぶりに新宿御苑を訪れた。
   1日から、恒例の「菊花壇展」が開かれていたのだが、「大作り花壇」はほぼ満開だが、まだ、他の花壇は十分には咲いておらず、肥後菊花壇などは、全くの蕾であった。
   この口絵写真は、比較的花が咲いている「伊勢菊、丁子菊、嵯峨菊花壇」なのだが、前庭の台湾ホトトギスの方が綺麗に咲いているので、その方が目立っている。
   日本庭園横の芝生の空間に、円形に寄せ植えされた大きな菊花壇があったが、これは、綺麗に鮮やかに咲いていて、まだ、紅葉には遠くて、殆ど色のない庭園に、彩りを添えていた。

   彩と言えば、今咲いているのは、バラの花で、フランス式整形庭園のバラ園には、ほんのりとした香りが漂っていて、綺麗なバラを愛でる人々がカメラを構えていた。
   丁度、斜めから差し込む逆光に光る薄い花びらが美しい。
   プラタナス並木の大きな葉っぱは、少し、黄ばみ始めた感じで、広葉までには、まだ、間がありそうである。
   椿園には行かなかったので、咲いているか分からなかったが、サザンカが、あっちこっちで綺麗に花を咲かせていた。

   しかし、上の池の池畔のススキの穂が白く色づいてほつれ始めていて、逆光を浴びて輝く風情は中々のもので、周りの少しずつ色の変わり始めた木々の葉をバックに、風に揺れるのを眺めていると、強烈に秋の到来を感じる。
   池畔で、そんな風景をカメラに収めようとするのだが、人影がたえず、シャッターチャンスが巡って来ない。
   私が、秋の気配を感じたくて、時間を過ごしたのは、この日本庭園の池の周りだが、まだ、一寸、秋の深まりを感じるのは、少し早いようである。

(追記)園内に、地図の設置を希望。新宿御苑は、かなり広大で、結構道に迷う。矢印付きの方向指示の立札があるのだが、これでは不親切で、入園時に貰える地図の簡略版の地図でも良いので、現在地表示のついた見取り図地図の立て看板を、各所に設置して貰えば助かる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増田悦佐著「中国、インドなしでもびくともしない日本経済」

2011年11月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「新興国市場の虚構を暴く」と銘打ち、帯に「BRIC’sは本当に希望の星なのか?強欲欧米人、経済メディアにだまされるな!」「盛りを過ぎた中華人民共和国、いまだに飢えにあえぐインド・・・BRICs神話は欧米人がつくりあげた幻想だ!ハイパーインフレの犠牲になる哀れな子羊たち」と大書した、非常に挑発的な井手達の本だが、読んでみれば、納得できなくても、非常に示唆に富んでいて、面白い。

   ダボスの世界経済フォーラムの「More Credit with Fewer Crises」、すなわち、マネーサプライを激増して危機を回避せよと言うタイトルに噛み付き、現在国際経済を覆う凄まじい景気後退は、信用の過剰供給が引き起こしたもので、我田引水が過ぎるとして、この会議を、自分たちの利権を擁護しながら、世界経済が直面する課題について物分りの良い振りをするだけの体の良いお祭り騒ぎだと説く。
   今回の先進国による急激な信用膨張は、欧米諸国はなんとか穏やかなインフレ程度にとどめて、大半、アジア・アフリカ・中南米諸国や新興国に押し付けて、ハイパーインフレに持ち込んで、これに便乗して、自分たちの債務を軽減しようとする魂胆が見え見えだと言う。
   一見コワモテのBRICs四か国は、問題山積の途上国であって、決して怖くなくて、二枚舌の欧米知識人たちによって、ハイパーインフレの舞台にされて、国民経済を無茶苦茶にされようとしている哀れな子羊のような国々なのだと言うのである。

   アメリカの国益は、インフレによって、その分、借金棒引きになることだと言う論理は至極ご尤もで、ドルの通貨発行益(シニョレッジ)で既に膨大な利得を得ており、それに、表には出せない退蔵されているアングラマネーなどを計算に入れても、輪転機で刷りに刷ったアメリカのドルによる基軸通貨益は、計り知れないものがあるのだが、著者の、欧米知的エリートに対する激しい憎悪は留まるところを知らない。
   欧米の植民地政策が如何に過酷で熾烈であったか、その怖さ恐ろしさを語りながら欧米批判をしているのだが、ヨーロッパでは、特に、フランスに対して厳しい。
   それらに比べれば、BRICsは表面だけつくろっている落第国家だが、政治・経済・社会の実権を知的エリートが完全に掌握している欧米諸国のような悪辣さがないのが救いだと言うことである。

   この欧米の植民政策での悪行蛮行など非文明的な歴史については、私自身も全く異存はないのだが、あっちこっちで頭を打ちながら苦しみぬいて、その苦難の道を歩んできた故に、現在の公序良俗を重視したコモンセンスなり成熟した市民社会が生まれ、また、イギリスなどの議会制民主主義などが定着して来たなど、世界全体が民主化への道を少しずつ歩んでいるのだから、一概に、十羽一絡げで、欧米の知的エリートはと言って、切って捨てるのはどうかと思っている。
   それに、アメリカや日本の急激な異常とも言うべき信用膨張が、BRICsのハイパーインフレを引き起こすとは思えないし、よしや、なるとしても、それは、著者のいうように欧米の知的エリートが仕組んだものではなく、結果であって、早い話が、現在のユーロ危機や米国経済の悪化で、一気に、新興国から資金が引き上げられているように、その過剰資金は、世界を循環し続けるのであって、必ずしも、新興国のインフレ要因になるとは限らない。

   BRICsが、実力以上に持ち上げられているのは幻想だと言う理論展開だが、著者の中国論で考えてみたい。
   中国は過剰貯蓄と過剰投資の国だと言う。
   普通の国なら、国民の貯蓄の対GDP比率は、20%程度だが、中国は、2007年に50%を突破している。
   この異常に高い貯蓄率は、定期預金の金利が一貫してインフレ率より低く、7年もの国債の表面金利もインフレ率を下回っており、貯蓄がどんどん目減りして行くと言う異常現象下で起こっているのだから、実態は共産党政府の統制経済で強制的に吸い上げられていて、その潤沢なカネを投資に「活用」する形で、国民経済全体が成長を維持していると言う、上げ底を通り越して、ほぼ、完全な幻想を作り出し続けていると言うのである。
   ところが、この潤沢な資金を使って、製造業各社が年率20%台半ばの投資を続けているにも拘わらず、付加価値増加率は年率13%にしか過ぎない。
   これは、まだ使用可能な設備を、加速廃棄更新したり、生産活動に寄与しない資本と労働を食いつぶすゾンビ・ごく潰し企業を淘汰せずに温存しているためだろうと言う。
   こう言った建設費や解体費の二重投資と言う資源の浪費を奨励するような制度に基づいて、毎年かなりの額の投資が国民生活を豊かにするのではなく、法律上の抜け道として無駄遣いされると言う計画的な浪費が、巨額のGDPに結実して、年率9%や10%の経済成長を実現していると言うのである。
   穴を掘って埋め戻したり、無意味なピラミッドを作るだけでも経済成長すると言う、あのケインズ政策のパロディ版であろうか。
   
   著者の論点で、非常に興味深いのは、「日本こそ世界で唯一の真正大衆国家」だと言う理論である。
   欧米では有り得ない程凡庸で暗愚な人間たちが、政治、経済、文化の枢要を占めているにも拘わらず、審美眼でも財力でも世界最高レベルの大衆あればこそ、日本は、人類史上初めて真の大衆社会を築きあげることが出来たのであって、次世代の経済覇権は、平和主義で内向的な日本が必ず握ると言う。
   欧米の知的エリートが、日本のような真正大衆国家が欧米に伝播するのを最大の恐怖と感じており、「打倒日本」願望故に、日本没落論を展開しているのであって、最早日本には勝てないから、中国などBRICsに望みを託しているのだと言うのである。
   
   ヨーロッパは金融で、アメリカとBRICsはエネルギー効率で勝手に没落して行くので、金融で大けがにはならなそうなので、エネルギーを経済活動に変換する効率は世界一に日本の地位は、望まなくても自然に高まらざるを得ない、と言った調子で、この本は、増田節の日本礼賛論に満ちていて面白い。
   全編、非常にユニークな視点からのBRICs論であり、文明論でもあり、啓発される点も多かった。
   
   しかし、現実の日本を見ていると、著者の言うように、日本が最先端を行く価値ある真正大衆国家だとも思えないし、欧米の知的エリートが目論んでいるインフレから日本は遠いと言って、現下の深刻なデフレを喜んでいる訳にも行かないし、弱り目に祟り目、衰弱し活力をなくしてしまったような日本の姿ばかりが気になって仕方がないのが、正直なところである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする