夜の部の「素襖落」は、これまでにも見ているのだが、殆ど覚えていない。
このブログを見ると、
太郎冠者が吉右衛門、大名某が富十郎、姫御寮が魁春、そして、もう一度は、
太郎冠者が幸四郎、姫御寮は魁春、大名某が左團次、次郎冠者が高麗蔵、三郎吾が錦吾、鈍太郎が彌十郎 の舞台を観ていることが分かる。。
今回は、昨年、狂言の「素襖落」を見たので、非常に興味を持って、鑑賞した。
その時の狂言は、和泉流の「素襖落」で、太郎冠者が三宅右近、主が石田幸雄、伯父が野村万作であった。

同じ舞台芸術でありながら、そして、殆ど同じストーリーを踏襲していながら、簡潔を旨とする狂言と、出来るだけ見せ場を作って派手に演じようとする歌舞伎とでは、見る観客の立場から云っても、全く違った世界となっていて、非常に面白い。
狂言の話の筋は、
伊勢参宮を思い立った主人が、参詣を希望していた伯父を誘うため、太郎冠者を遣いに出す。明日と言う誘いに伯父は同行できないので、太郎冠者に門出の祝いとして酒を振舞い、自分の代参を頼んで引出物の素袍を託す。素襖を隠し持って帰るのだが、主人たちと、舞を舞っている間に、落として主人に拾われて、大慌て。
歌舞伎は、松羽目ものながら、この狂言の「素襖落」を舞踊化した歌舞伎舞踊で、長唄・義太夫をバックに繰り広げられる派手な舞台に変換されて、上演時間も倍になっている。
狂言では、登場人物は、シテ/太郎冠者、アド/主人、小アド/伯父の3人だが、歌舞伎では、伯父の代りに姫御寮を出すのだが、これは、靭猿で、シテの大名を女大名三芳野に代えているのと同じで、やはり、女性に代えて観客を楽しませようとするサービス精神の発露であろうか。
ほかにも、大名某(左團次)に太刀持ち鈍太郎(彌十郎)を従わせ、姫御寮(高麗蔵)に次郎冠者(亀寿)と三郎吾(錦吾)の家来をつけて登場人物を増やして派手にしている。
特に興味深いのは、狂言には全くないシーンで、女御寮の屋敷で酒に酔っ払ってからの舞台に、本来は能「八島、屋島」の、狂言方の小書に所作が入る仕形語りによる「那須与一語」がここに挿入されていて,酔っ払った太郎冠者に演じさせていることである。
更に家来の二人も踊ると言う、正に、舞踊劇である。
何となく、このほろ酔い気分で演じる那須与一のシーンが太郎冠者の見せ場と言う感じで,初演の外題は「襖落那須語」であったと言うのが、これを物語っていて面白い。
この狂言の面白さが、何処にあるかと言うことだが、「狂言 茂山千作の巻」に、
シテの太郎冠者がだんだんと酒に酔っていく様子や、素襖をもらって上機嫌だったのが素襖を落とした途端に不機嫌になる様子など、喜怒哀楽が素直に出る人間心理を巧みに表現した名作である。と記されている。
Toutubeを検索すると、茂山千作の太郎冠者、茂山千五郎の主、茂山千之丞の伯父による素晴らしい舞台録画が鑑賞できるが、和泉流の野村万作も萬斎も、素襖落は茂山家が得意な曲だと言っているように、千作の太郎冠者の素晴らしさは秀逸で、観客の笑いが絶えない。
これだけでも、狂言の素晴らしさと、この素襖落が名曲であることが良く分かる。
さて、歌舞伎の舞台だが、大名某に呼ばれて登場する幸四郎の太郎冠者の姿が、絶えず傾斜傾向で下向きに出る狂言と違って、何故か、下腹を突き出し気味に登場してくるところから、何となく、雇い人に過ぎないと言う卑屈感が漂っていて、太郎冠者らしからぬ違和感を覚えた。
何も、違う芝居だから、狂言の太郎冠者に拘る必要はないのだが、太郎冠者とは一体何なのか。
茂山千三郎は、
”太郎冠者のキャラクターは何と言っても、「おバカ」でしょうね。彼はとにかくカン違いやヘマが多いんです。でもその「おバカ」さが愛敬につながり、単なる間抜け者にはとどまらない、たぐいまれな大らかさと滑稽さを作り出しています。”と言っている。
この伯父・女御寮の前でも、太郎冠者は、自分がお供について行くと言うと餞別をくれるので、それを受け取るとお土産を買って来なければならないので、ついて行くと言うなと主に釘を刺されていることを暴露するし、酒好き故に、飲むほどに調子に乗って、相手を褒め上げて、主の悪口を言って愚痴をこぼして説教してくれと言うし、最後には、土産物にしようとしている品物を取り違えて言ったりしてしまう。
何回も酒のお替りをしていると、3回目くらいからは、呂律も怪しくなるのだが、このあたりのテンションの高揚は、千作が実に上手い。
一方、幸四郎の酒の飲みっぷり、どんどん酔って行く酩酊気味の表情など、勧進帳や魚屋宗五郎などの舞台でも素晴らしい芝居を見せているので、実に上手いのだが、どうしても、頭の中で計算しているような演技に見えて、太郎冠者の大らかで底抜けの明るさ面白さが見えてこないのである。
この後、例の那須与一の舞が展開されているのだが、私など、どんどん、テンションが高じて行く庶民代表の太郎冠者の酔って行く醜態と人間らしさが、寸断されてしまって、幸四郎の芸だけが光って、芝居としては、何を表現したいのか、分からなくなってしまった。
後場では、上機嫌で帰って来た太郎冠者は、主に悟られまいと素襖を必死に隠しながら陽気に舞うのだが、途中で落としてしまって、一気に意気消沈してしまって探し回る様子と、素襖を拾って太郎冠者の陽気だった訳を知った主が、一気に元気になって、これをネタにして太郎冠者を揶揄する攻守逆転劇の面白さなども、この曲の見どころであろう。
狂言の方は、この逆転劇に徹している感じだが、歌舞伎は、筋は継承するものの、最後には、太郎冠者を真ん中にして、素襖を引っ張り合いながらの踊りにしており、ストーリー展開には拘らない舞踊劇になっている。
どっちが良いのかは分からないが、私自身は、シャープで笑いとアイロニーに満ちたストレートな狂言の方が、面白いと思っている。
新歌舞伎十八番には、かなり、能や狂言オリジンの演目が入っているのだが、当時の歌舞伎界の姿が分かるようで興味深い。
このブログを見ると、
太郎冠者が吉右衛門、大名某が富十郎、姫御寮が魁春、そして、もう一度は、
太郎冠者が幸四郎、姫御寮は魁春、大名某が左團次、次郎冠者が高麗蔵、三郎吾が錦吾、鈍太郎が彌十郎 の舞台を観ていることが分かる。。
今回は、昨年、狂言の「素襖落」を見たので、非常に興味を持って、鑑賞した。
その時の狂言は、和泉流の「素襖落」で、太郎冠者が三宅右近、主が石田幸雄、伯父が野村万作であった。

同じ舞台芸術でありながら、そして、殆ど同じストーリーを踏襲していながら、簡潔を旨とする狂言と、出来るだけ見せ場を作って派手に演じようとする歌舞伎とでは、見る観客の立場から云っても、全く違った世界となっていて、非常に面白い。
狂言の話の筋は、
伊勢参宮を思い立った主人が、参詣を希望していた伯父を誘うため、太郎冠者を遣いに出す。明日と言う誘いに伯父は同行できないので、太郎冠者に門出の祝いとして酒を振舞い、自分の代参を頼んで引出物の素袍を託す。素襖を隠し持って帰るのだが、主人たちと、舞を舞っている間に、落として主人に拾われて、大慌て。
歌舞伎は、松羽目ものながら、この狂言の「素襖落」を舞踊化した歌舞伎舞踊で、長唄・義太夫をバックに繰り広げられる派手な舞台に変換されて、上演時間も倍になっている。
狂言では、登場人物は、シテ/太郎冠者、アド/主人、小アド/伯父の3人だが、歌舞伎では、伯父の代りに姫御寮を出すのだが、これは、靭猿で、シテの大名を女大名三芳野に代えているのと同じで、やはり、女性に代えて観客を楽しませようとするサービス精神の発露であろうか。
ほかにも、大名某(左團次)に太刀持ち鈍太郎(彌十郎)を従わせ、姫御寮(高麗蔵)に次郎冠者(亀寿)と三郎吾(錦吾)の家来をつけて登場人物を増やして派手にしている。
特に興味深いのは、狂言には全くないシーンで、女御寮の屋敷で酒に酔っ払ってからの舞台に、本来は能「八島、屋島」の、狂言方の小書に所作が入る仕形語りによる「那須与一語」がここに挿入されていて,酔っ払った太郎冠者に演じさせていることである。
更に家来の二人も踊ると言う、正に、舞踊劇である。
何となく、このほろ酔い気分で演じる那須与一のシーンが太郎冠者の見せ場と言う感じで,初演の外題は「襖落那須語」であったと言うのが、これを物語っていて面白い。
この狂言の面白さが、何処にあるかと言うことだが、「狂言 茂山千作の巻」に、
シテの太郎冠者がだんだんと酒に酔っていく様子や、素襖をもらって上機嫌だったのが素襖を落とした途端に不機嫌になる様子など、喜怒哀楽が素直に出る人間心理を巧みに表現した名作である。と記されている。
Toutubeを検索すると、茂山千作の太郎冠者、茂山千五郎の主、茂山千之丞の伯父による素晴らしい舞台録画が鑑賞できるが、和泉流の野村万作も萬斎も、素襖落は茂山家が得意な曲だと言っているように、千作の太郎冠者の素晴らしさは秀逸で、観客の笑いが絶えない。
これだけでも、狂言の素晴らしさと、この素襖落が名曲であることが良く分かる。
さて、歌舞伎の舞台だが、大名某に呼ばれて登場する幸四郎の太郎冠者の姿が、絶えず傾斜傾向で下向きに出る狂言と違って、何故か、下腹を突き出し気味に登場してくるところから、何となく、雇い人に過ぎないと言う卑屈感が漂っていて、太郎冠者らしからぬ違和感を覚えた。
何も、違う芝居だから、狂言の太郎冠者に拘る必要はないのだが、太郎冠者とは一体何なのか。
茂山千三郎は、
”太郎冠者のキャラクターは何と言っても、「おバカ」でしょうね。彼はとにかくカン違いやヘマが多いんです。でもその「おバカ」さが愛敬につながり、単なる間抜け者にはとどまらない、たぐいまれな大らかさと滑稽さを作り出しています。”と言っている。
この伯父・女御寮の前でも、太郎冠者は、自分がお供について行くと言うと餞別をくれるので、それを受け取るとお土産を買って来なければならないので、ついて行くと言うなと主に釘を刺されていることを暴露するし、酒好き故に、飲むほどに調子に乗って、相手を褒め上げて、主の悪口を言って愚痴をこぼして説教してくれと言うし、最後には、土産物にしようとしている品物を取り違えて言ったりしてしまう。
何回も酒のお替りをしていると、3回目くらいからは、呂律も怪しくなるのだが、このあたりのテンションの高揚は、千作が実に上手い。
一方、幸四郎の酒の飲みっぷり、どんどん酔って行く酩酊気味の表情など、勧進帳や魚屋宗五郎などの舞台でも素晴らしい芝居を見せているので、実に上手いのだが、どうしても、頭の中で計算しているような演技に見えて、太郎冠者の大らかで底抜けの明るさ面白さが見えてこないのである。
この後、例の那須与一の舞が展開されているのだが、私など、どんどん、テンションが高じて行く庶民代表の太郎冠者の酔って行く醜態と人間らしさが、寸断されてしまって、幸四郎の芸だけが光って、芝居としては、何を表現したいのか、分からなくなってしまった。
後場では、上機嫌で帰って来た太郎冠者は、主に悟られまいと素襖を必死に隠しながら陽気に舞うのだが、途中で落としてしまって、一気に意気消沈してしまって探し回る様子と、素襖を拾って太郎冠者の陽気だった訳を知った主が、一気に元気になって、これをネタにして太郎冠者を揶揄する攻守逆転劇の面白さなども、この曲の見どころであろう。
狂言の方は、この逆転劇に徹している感じだが、歌舞伎は、筋は継承するものの、最後には、太郎冠者を真ん中にして、素襖を引っ張り合いながらの踊りにしており、ストーリー展開には拘らない舞踊劇になっている。
どっちが良いのかは分からないが、私自身は、シャープで笑いとアイロニーに満ちたストレートな狂言の方が、面白いと思っている。
新歌舞伎十八番には、かなり、能や狂言オリジンの演目が入っているのだが、当時の歌舞伎界の姿が分かるようで興味深い。