熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが庭・・・ホトトギスが咲いている

2017年10月13日 | わが庭の歳時記
   鎌倉の古寺の庭園に、ひっそりと咲いているのがホトトギス。
   わが庭にも、いつの間にか、かなり、広がって、木陰に遠慮がちに咲いている。
   非常にユニークな花の形をしているので、いつも咲き始めると、注意をしてみているのだが、「花おりおり」によると、花弁の斑点と、鳥のホトトギスの胸の模様が類似しているから、この名前がついたのだと言う。
   
   
   
   

   私が注目するのは、その斑点のある花弁ではなくて、筒状に伸びた蕊の突端が広がって花状に開いた表面にびっしりとついた透明な小さな玉の集まりである。
   尤も、小さな粒状の球であるから、近寄って注意して見ないと分からないので、気が付かないことが多い。
   
   

   俳人・正岡子規のホトトギスは、時鳥、杜鵑、不如帰、鳥のホトトギスのようで、
   あの有名な句 目には青葉山ほととぎす初鰹   山口素堂
   も花ではないが、花のホトトギスも、鳥ほどではないが、古来より、和歌や、俳句にも詠まれていると言う。
   園芸店で売られているが、ユリの仲間であり、日本原産の野生植物だと言うことで、結構種類も多くて、白い花もあると言う。
   私の庭では、全く、雑草のように生えていて、晩秋に近づくと一斉に咲き出すので、それが本来の姿ではないかと思っている。
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山際素男著「踊るマハーバーラタ 愚かで愛しい物語 」

2017年10月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   歌舞伎「マハーバーラタ戦記」を観る前に、予備知識をと思って、マハーバーラタの翻訳者である著者のこの新書を読んだ。
   膨大な説話の内、八話を選んで、解説付きで収載されていて、バラエティに富んだ話なので、大分雰囲気が分かって、参考になった。

   第一話は、シャクンタラーの物語。
   大勢の友を引き連れて狩りに来た月氏族のドシャンタ王が、美しい聖仙カンバの娘シャクンタラーにゾッコン惚れて辛抱堪らず、父の留守中に、口説きに口説いて、ガンタルヴァ方式で結婚し、生まれた子が男なら跡取りにすると約束して帰国する。
   ところが、ドンファンの常で、待てど暮らせど、後はなしのつぶて。
   6歳になった偉丈夫に育った息子を伴って、シャクンタラーは登城して、王に面会するが、王は、知らぬ存ぜず、帰れとケンモホロロ。
   しかし、シャクンタラーは、王の瞳の奥に密かな動揺が隠されていたのを見逃さず、理路整然と王の道、王たるものの振舞いについて滔々と説き、分からなければ帰ると踵を返すと、王母が、理を悟って王を説得して、ハッピーエンド。
  
   私が、まず、冒頭から感心したのは、何千年も前の古代インドにおいて、権力者である王を前にして、堂々と論陣を張って遣り込める女性がいたと言う事実である。
   そして、人の上に立つ王の倫理道徳、人の道が理路整然と説かれていたこと。
   尤も、そうであるから、ヒンズー教の重要な聖典なのであるのだが。

   第二話は、創造主もお手上げ。
   大の女好きで鳴り響いているインドラ神が、聖仙の妻で絶世の美女ルチーに横恋慕。
   聖仙は、留守中に、インドラ神から、妻ルチーを守るように、弟子のピプラに命令するのだが、一計を案じたピプラは、彼女の膣内に潜入して、インドラ神を撃退する。

   著者のコメントでは、
   インドラ神は、自然信仰時代の神だからセックスが好きなのは当然、人類は物心ついてから女も男も”ヤッテバカリ”なのだ。それが、何かの拍子で徳性を磨きはじめ、天界の神々の脅威となったので、神々は人間の徳性をなんとかしてくれとブラフマー大神に泣きついたので、大神は男女に区別を設けた。しかし、あらゆる点で、女は男を凌駕しており、そこから、男女の関係はぐじゃぐじゃになったと言う。
   とにかく、このインドの神々は、実に自由奔放に生きている感じで、人間の方が特性が高いと言うのであるから、何をか況やである。
   女神がいるのかいないのかは知らないが、女好きの神々が多いから、神と人間との間の子供がどんどん増えて行くのが面白い。

   「教訓その一」天然自然の営みとしての強烈な肉欲と怒りを与えられた女に、男は所詮かなわず、女には従うべき経典の定めもないほどに偉大な所感覚が備わっている。太陽の熱と言う本性を誰も所有できぬように、女の本性そのものを男は所有できないのだ。
   と言うのだが、はてさて、どう言う事であろうか。

   いずれにしろ、NHKの世界ニュースを見ていると、インドでの女性に対する性的虐待やセクハラ被害の凄まじさが目を引くのだが、古代インドとは、男女関係は大違いと言うことであろうか。

   第三話は、今回の歌舞伎「マハーバーラタ戦記」で、賭博で、国も王妃もすべて失った百合守良王子(ユリシュラ)と同じように、悪魔の神が乗り移ってすべてを賭博で失って弟に城を簒奪されるニシャダ国のナラ王とダマヤンティー王妃の純愛物語である。
   無一文になって裸同然で夫ナラ王に見捨てられたダマヤンティーが、たった一人で彷徨う冒険譚で、菩薩の様に清らかで健気な女の鏡とも言うべきダマヤンティーの生き様が清々しい物語で、この本で最も紙幅を割いている。
   この話も、インドの女性賛歌の物語であるのが、興味深い。

   第四話は、性の化身。
   若い旅のバラモン僧が、一夜泊めてもらった家の老婦人に誘惑されて迫られて、性に目覚めると言う話だが、この老婦人が、「性の化身」であると言うのがミソ。

   第五話は、マハーバーラタは核兵器で終結した!
   双方合わせて800万の軍勢は、「ブラフマシラス」と言う新兵器で一瞬にして灰となると言う話。
   大量殺戮を繰り返して人類は滅びる、と言う古代インドの予言であろうか。

   興味深いのは、第七話の「最上の贈物」。
   王に、最上の贈物は何かと聞かれて、インドラ神が、最上は、土地だと答えた後に、次に最上なのは、牝牛だと言って、あらゆる故事来歴や神話を引いて、牝牛や乳牛にまつわる話を滔々と説く。
   ダクシャと言う生類創造神のゲップからスラビ(豊穣の牛)が現れて世界の繁栄を導いた。などと言う話だが、これを読むと、何故、インドでは、牛が聖なる生き物であるかと言うことが分かって面白い。

   第六話は、禿鷹とジャッカル。
   子の死を悼む親族が、この死骸もろとも、禿鷹とジャッカルに食い殺されると言う話。
   最後の第八話は、ヒンズー教徒が一番怖がったナーガ(族)。
   この叙事詩は、ナーガ(キングコブラ)をやっつける逸話から始まっているようだが、アーリア人のインド侵攻に一番抵抗した原住民が、ナーガ族だったと言うから、この話も当然かもしれない。
   ナーガのほかに、ガルダの話があって面白い。

   今回は、この本に収載されている説話について触れただけだが、とにかく、アラビアンナイトを読んでいるようで面白い。
   神話と言えば、ギリシャ神話を一寸かじった位だが、おそらく、大体大らかで、ある意味では、天衣無縫なのであろうと思うと興味深い。
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芸術祭十月大歌舞伎・・・マハーバーラタ戦記

2017年10月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   菊之助のシェイクスピアの「十二夜」に次ぐ、新作歌舞伎で、今回は、世界三大叙事詩の一つインドの「マハーバーラタ」に挑戦した意欲的な作品。
   ウイキペディアによると、原本はサンスクリットで書かれ、全18巻、100,000詩節[注釈 2]、200,000行を超えるとされる。これは聖書の4倍の長さに相当する。と言うことで、日本には全訳がないと言う。

   インドに侵入したアーリア人によるヒンドゥー教の重要な聖典の1つで、パーンダヴァ王家とカウラヴァ王家の争いを軸に進められる一大叙事詩である。
   そして、物語の中に、ヒンズー教の神々や多くの聖仙が登場して、教訓を施したり、諭したり、ヒンズー教の教典などが語られているので、宗教上重視されている。

   新作の歌舞伎や、オリジナルの作品のある芝居などを観る時には、一応、原典に当たることを試みているのだが、マハーバーラタに関しては、あまりにも膨大なので、略式ながら、マハーバーラタの翻訳者山際素男著「踊るマハーバーラタ 愚かで愛しい物語」を読んでみた。
   そのうち、八話が収載されていて、非常に面白く、今回の歌舞伎「マハーバーラタ戦記」を鑑賞するのに役立った。
   今回の菊之助が演じる歌舞伎の主人公迦楼奈(カルナ)は、太陽神が、王女汲手姫(時蔵、梅枝)に生せた子供だが、面白いのは、好色で恋に現を抜かすインドの神々の大らかさである。
   ダナエに黄金の雨に扮して近づき英雄ペルセウスを生ませ、白鳥に変じて鷹に追われるふりをしてレーダーの腕に隠れて絶世の美女ヘレネを生ませるなど、好色の限りを地で行ったギリシア神話の主神たる全宇宙を支配した全知全能の神ゼウス(ジュピター)と好一対。

   今回の歌舞伎の冒頭の舞台は、上段に、那羅延天(菊五郎)やシヴァ神(菊之助)など4神、下段に、梵天(松也)など5神が、黄金色に輝くインドのヒンズー神の神像の出立で並ぶ豪華さ。
   一寸、インド風の豪華な衣装に、光背をつけて、立派な髪飾りを頂いた日本の仏像を想像すればよい。
   そこへ、両側の花道から、太陽神(左團次)と帝釈天(鴈治郎)が登場して、夫々、人間社会に平和を実現するために、武力で平定治安を維持するために、人間との間に、子供を残したいと宣言して、神々が了承する。
   まず、太陽神が、王女汲手姫(梅枝)に、迦楼奈(カルナ)を生ませ、汲手姫は赤子をモーゼばりにガンジスに流す。舞台では省略されているのだが、帝釈天が、同じ汲手姫に百合守良王子など五王子のうち3人を生ませ、その3男の阿龍樹雷王子(アルジュラ 松也)が、後に、カルナと骨肉の争いで勝利しカルナを倒す。のである。

   この歌舞伎は、戦記と銘打つように、後半は激しいパーンダヴァ王家とカウラヴァ王家の争いで、パーンダヴァ王家の五王子たちと、鶴妖朶王女(七之助)と道不奢早無王子(片岡亀蔵)姉弟のカウラヴァ王家が、激しく戦い、カルナは、カウラヴァ王家側につくのだが、全部滅びて、パーンダヴァ王家の勝利に終わる。

   現代演劇の劇作家、青木豪が脚本化し、宮城聰が演出した、新作歌舞伎「極付印度伝 マハーバーラタ戦記」。
   かなり、ストーリーがシンプリファイされていて分かり易くて面白いのだが、バックの舞台は、エキゾチックな背景ながら、王女は、赤姫の衣装だし、男も女も殆ど完全に古い前時代の日本の衣装で登場するので、一気に、歌舞伎の舞台に転換して、セットの雰囲気など、中華風であったり、日本風であったり、一寸インド風であったり、全く国籍不明の歌舞伎と化す異様さ。
   このような異文化異文明を混交したような、ある意味では、奇天烈な芝居の面白さは、独特な雰囲気を醸し出していて興味深いのだが、イギリスでよく見た日本の衣装や舞台設定などを模した疑似日本風のオペラや芝居の舞台を思い出して、何となく、同じような違和感は拭えない。
   もう、40年ほど前に、ニューヨークのメトロポリタン・オペラで、完全に舞台考証をして当時のパリを精巧に設営したフランコ・ゼフィレッリの「ラ・ボエーム」を観て感激したのだが、全く同じ演出とセットで、今年のシーズンも上演すると言う。私など、これに傾倒している方だから、シェイクスピアでもオペラでも、クラシックな演出の方が、どちらかと言えば好きである。
   しかし、今回の「マハーバーラタ」は、面白く楽しませて貰った。
   
   興味深いのは、豊かでエキゾチックな音楽で、私としては、インドネシアのガムランを聴いているような感じであったが、音楽の棚川寛子さんの話では、楽器のメインは、鍵盤系の打楽器、木琴や鉄琴といったシロフォン系で、ジャンベなどアフリカ系の太鼓やブラジルのスルド、中東のサントゥール、それからスチールパン等々20~30種類の、基本的に弦ものではなく、たたけば鳴る楽器ものを使い、インドの楽器はタブラくらいだと言う。
   日本のものは、効果音としてツケだけで、楽譜などはなく台本に書き込まれたものが総てで、演奏者は、SPAC(静岡県舞台芸術センター)の公演で何度か一緒にやっているメンバーだと言う。
   これが、竹本や長唄や囃子と上手くコラボして紡ぎあげたサウンドの魅力は、独特であり、実に瑞々しくて楽しい。

   この歌舞伎は、正に、菊之助あってのマハーバーラタで、今回は、立役全開の素晴らしい舞台の連続で、次に、どのようなスケールの大きな新作歌舞伎を、作り出してくれるのか、その期待こそ、菊五郎と吉右衛門二人の人間国宝を父に持つ歌舞伎界の寵児としての宿命でもあろう。
   神々しいまでに威厳と風格を備えて舞台を締めていた座頭の菊五郎始め、左團次や鴈治郎や楽善などベテランの神々、時蔵の艶やかさと気品、
   今回、特に、光っていたのは、七之助のパンチの利いた強烈な烈女としての実に個性的なツルヨウダ王女で、アルジュラ王子と梵天を演じた松也の匂うような爽やかな演技も特筆ものである。
   それに、彦三郎と亀蔵の坂東兄弟、梅枝をはじめ、若手の活躍と進境が著しく楽しませて貰った。
   
   
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鎌倉宮(大塔宮)・・・「鎌倉薪能」

2017年10月10日 | 能・狂言
   鎌倉宮大東宮で、恒例の「鎌倉能」が催されたので、二日目に出かけた。
   プログラムは、次の通り。
   金春流 素謡 翁 金春憲和
   金春流 仕舞 養老 山井綱雄
          井筒 本田光洋
   和泉流狂言  樋の酒 野村万作
   金春流能   融  金春安明
  

   この鎌倉薪能は、中世の神事能もしくは法楽能を現代に蘇らせると言うことで、金春宗家の指導で奉納されている神事能と言うことである。
  
   これまでは鎌倉宮本殿にて天下泰平が祈願されていたのだが、今回は、橋掛かり後方に本殿に向かって拝檀が設けられて、この神事一切を舞台上で執り行われて、その後、火入れ式が行われた。神職の手により御神火が二人の巫女に手渡され、舞台上で正、副奉行へと渡り、能舞台両翼、目付柱とワキ柱下の薪木に御神火が灯された。
   
   橋掛の背後の石段下に祭壇、後方は本宮
   
   
   ワキ柱下の御神火

   法螺貝の重々しい響きが開演を告げ、神事能では欠かすことのできない「翁」が、素謡の形式で行われて、厳粛な薪能が始まる。

   5時開演だったが、少し早く着いた。
   境内全体は、1000人規模の観客席が設営されていて、完全に、薪能シフトで、入場すると、弁当などの売店や朱印状、神事関係の販売コーナーが並んでいて、消防車が待機。
   
    
   
   

   周りはテントで囲まれているので、入ると、かなり本格的な観覧席が設営されていて、正面席の9列までは平土間、10席から25席までは、かなり急な傾斜状の席で、私の場合には、21列5番だったが、少し、遠い感じではあったが、正面やや右ながら視界が遮られることなく上等であった。
   マイクが使用されてはいたが、非常にクリアなサウンドで癖がなく、違和感がなくて良かった。
   問題は、遠方から延々と鳥居前を通過した救急車のサウンドがぶっ壊し。
   昔、ロンドンのケンウッドの野外公演のロイヤルオペラで、トスカで歌っっていたドミンゴのマリオ・カヴァラドッシをヒースローを出た飛行機の爆音が伴奏したのを思い出した。
   
   

   舞台は、変わったところは、野外なので、当然、天井はなく、大きな松の絵が描かれた鏡板もないのだが、目付柱、シテ柱、笛柱、脇柱の四本柱が、青竹に変わっており、ただ、目印として重要な目付柱だけは、2メートル弱の角柱が建てられていた。
   橋懸は、空間の関係もあって、少し短かったが、一の松、二の松、三の松は、通常通りであった。
   
   

   冒頭の金春流 素謡 翁 金春憲和、千歳 井上貴覚 は、舞台に正座しての謡で動きがないので厳粛そのもの。
   金春流 仕舞 養老 山井綱雄と、井筒 本田光洋は、短縮ながら、地謡をバックに、シテが装束なしで舞う。

   和泉流狂言「樋の酒」は、シテ 万作、アド 月崎晴夫、小アド 深田博治で、
   主人が太郎冠者には米蔵を、次郎冠者には酒蔵を、離れないで番をするように言いつけて外出するのだが、酒蔵で酒を飲む次郎冠者を見た太郎冠者が羨むので、次郎冠者が蔵と蔵との間に樋を掛け渡して酒を流して、飲み始めるのだが、意を決した太郎冠者が酒蔵に移って二人で酒宴を始める。そこへ主人が帰ってきて・・・

   前日の太郎冠者は、萬斎が舞う予定であったが、この日は、人間国宝の野村万作のいぶし銀の様に実に奥深い芸の極致で、何度観ても感動ものである。

   能「融」は、何回か鑑賞の機会を得て、この6月にも、国立能楽堂で、シテ/金井雄資の宝生流の「融」を観た。
   光源氏のモデルとも言われている源融の塩竈の千賀の浦を模した庭内に、難波の海から毎月20石の海水を運ばせて塩を焼いたと言う、その河原の院の廃墟を舞台にした世阿弥の代表作である。

   東国の僧(ワキ/森常好)が京都六条の「河原の院」に着くと、汐汲みの老人(前シテ)が現れて、この地は昔の源融の邸宅の跡であると教える。河原の院の情趣を楽しんでいたが、老人は源融の物語を語ると、昔を慕って泣き崩れる。僧に請われて近隣の名所を教えていた老人は、汐を汲もうと汐曇りの中に消える。その夜、僧の夢の中に源融の霊(後シテ)が在りし日の姿で現れて、月光のもとで、懐旧の舞を舞う。

   後場で、「千重振るや、雪を廻らす雲の袖」と、後シテの融の霊が、自分自身の舞ぶりを思い出して、かってと同じように舞い、
   「あら面白の遊学や、その名月のその中に、・・・」とロンギになって、シテは、月に寄せた詞章に合わせて地謡と掛け合いで歌いながら舞いながら、「あら名残惜しの面影や、名残惜しの面影」と消えて行く。
   この優雅さ美しさ、
   真っ暗な鎌倉宮のただ一点に照明が当てられた舞台に、天国からの様な囃子と謡のサウンドに乗って舞い続ける金春安明宗家の高貴な舞姿は、正に、天使の舞を観ているようで、感動の一語に尽きる。
   
   
   
   
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九州の神楽が響舞する 〜國學院大學

2017年10月08日 | 能・狂言
   國學院大學の百周年記念講堂で、「九州の神楽が響舞する」が上演されたので、鑑賞する機会を得た。
   福岡の京築神楽と宮崎の西米良神楽が上演され、その前に、夫々の神楽の魅力や特色について、民俗芸能学会の久野隆志氏と國學院の小川直之教授の解説があって、延々3時間以上に及ぶ、非常に意欲的な素晴らしい神楽が執り行われた。
   能や狂言のオリジンは、神楽であり、猿楽、田楽を経て、室町時代に、観阿弥世阿弥によって大成され、江戸幕府による式楽制度に依って、一気に日本の古典芸能のトップに上りつめたのであるが、元々、神に奉納する芸能であり、日本人の心のよりどころでもあった。

   子供の時に、祖父に連れられて、よく、三輪の大神神社に参っていたので、微かに神楽の記憶はあるが、今の私の神楽認識は、神社の巫女さんが、鈴を振りながら厳かに舞うと言う程度の印象しかなく、本格的な神楽に接したことがなかった。
   今回、見せてもらった神楽は、神社の儀式的なものは別として、プログラムに組み込まれた神楽の夫々には、立派な目的とテーマがあって、笛、太鼓、鉦の楽に乗って演じられる舞踊劇であって、立派なパーフォーマンスアーツなので、驚くと同時に、楽しませて貰った。

   特に、京築神楽の「御先」などは、正に、上質の芝居の舞台を観ているような感じであった。
   天照大神の孫・邇邇芸命が豊葦原中国に降臨した時、出迎えた猿田彦大神の形相が凄まじかったので、鬼神と間違えられて、荒ぶる猿田彦を、高木神が鎮めて封じ込む、と言うテーマの神楽である。
   猿田彦は、おおべしみのような厳つい威厳のある面をつけ、能の衣装と見まがうばかりの素晴らしい出立で、同じく能装束に似て盛装した高木神と、丁々発止の戦いで、勇壮な舞を披露する。
   舞台狭しとくんずほぐれつ、時には流れるように美しく、舞うが如く激しく演じており、歌舞伎で言う見得と思しき絵の様なシーンの数々は、観ていて感動的でさえあった。

   前半の「御福」は、4人が神棚の前で、神々を称賛する詞や歌を謡いながら、神降ろしの舞を舞うのは、神社の儀式的なパーフォーマンスだが、太鼓、笛、鉦の楽が調和して美しい。
   この舞台は、夫々、30分以上に及ぶのだが、もうこうなれば、立派な舞台芸術である。
   40年途絶えていたのを、平成14年に復活したと言うのだが、古老の記憶が頼りであったであろうが、日本の地方文化の素晴らしき伝統と実力は捨てたものではないと思った。

   後半の西米良神楽は、宮崎の越野尾と小川村の2団体の響舞で、もっと神聖の勝った神楽で、穢れなき清らかさの象徴か、舞い手の衣装は全員「白衣白袴」。
   厳粛な儀式的な神楽もあれば、剣の舞や弓将軍と言った勇壮な神楽もあり、33種もあると言うのだが、とにかく、簡素だが優雅で美しい。
   漆黒の闇の中、満天に輝く星空にくっきりと流れる天の川の下で、境内の舞台だけが明るく浮かび上がって、楽の音に乗って、厳かに神楽が舞い続けられると言う。

   驚いたのは、小川神楽などは、集落の人口が90余人で、舞台に登場した人が21人。
   どうして、宮崎と熊本の県境の山間の寒村で、このような途轍もない神楽が、保存されて演じられ続けているのか、驚きを通り越して、驚異でさえある。

   能の原点を観たくて、今回の鑑賞機会を得たのだが、日本人の信仰や古典芸能について、改めて、考えさせられた。
   西米良の特産品が即売されて客で賑わっていたが、必死の町おこし村おこしを感じて、地方の元気印を垣間見た。
   帰りに、渋谷の繁華街に立ち寄ったが、前に向かって進めないくらいの雑踏。東京一極集中の悲劇を、もう、ボツボツ真剣に考えなければならないと思う。
   
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鎌倉国宝館「国宝鶴岡八幡宮古神宝」&鎌倉宮「鎌倉薪能」

2017年10月07日 | 今日の日記
   久しぶりに鎌倉に出た。
   鎌倉に居て、出たも何もないのだが、西鎌倉の方だから、鎌倉山を越えて、大仏や長谷寺をパスしないと、鎌倉の旧市内には、出られないのである。
   この日は、夕刻5時からの鎌倉宮での「鎌倉薪能」に行くことになっていた。
   昨日は、薪能の初日であったのだが、鎌倉は大雨だったので中止となっており、幸い二日目を選んでいたので、鑑賞することが出来た。

   少し早く出たので、時間があり、これも、久しぶりに、鎌倉国宝館に立ち寄った。
   特別展示として、「国宝鶴岡八幡宮古神宝」をやっていた。
   

    国宝の古神宝としては、朱漆弓 1張 、黒漆矢 6隻 、沃懸地杏葉螺鈿平胡籙 1腰 、 沃懸地杏葉螺鈿太刀
   どのくらいの価値があるのか、よく分からなかったが、太刀は、武具ではなく貴族の所有物とかで、細工など豪華であった。
   もう一つの国宝は、頼朝が後白河法皇から下付されたと言う籬菊螺鈿蒔絵硯箱 1合 、籬菊螺鈿蒔絵硯箱内容品 1組
   これも、螺鈿の蒔絵が素晴らしかった。
   丁度、能を観に行く前だったので、興味を感じたのだが、舞楽面が、5面展示されていて、菩薩の美しさと陵王のエキゾチックで精巧な造形が気に入った。
   誰かの病気快癒に役立ったと言って、顔は象、体は人間の2体の像が抱き合っている歓喜仏があって、比較的珍しいので興味を惹かれた。
   後で、新作歌舞伎のマハーバーラタを観る予定で、マハーバーラタの本をかじり始めたのだが、エロチックな話ばかりで、あのインドの歓喜仏や豊満な女神が満艦飾のインドのヒンズー教寺院を思い出した。
   丁度、技芸員の解説があったので、鶴岡八幡宮のことについて、少し勉強になって良かった。

   鎌倉宮へ行く道すがらなので、頼朝の墓地に立ち寄った。
   歴史に燦然と輝く偉大なリーダーの一人でありながら、ポツンと、それ程立派でもない墓が立っているので、いつも不思議な感じがしている。
   

   少し、西方向に歩いて、荏柄天神社に出た。
   学問の神様の神社であり、漫画家たちの絵筆塚もあるので、参道の両端に、漫画家たちが描いた灯篭が並んでいて面白かった。
   

   さて、鎌倉宮の「薪能」は、私としては、初めてだったので、非常に興味があって、楽しめた。
   金春流 素謡 翁 金春憲和
   金春流 仕舞 養老 山井綱雄
          井筒 本田光洋
   和泉流狂言  樋の酒 野村万作
   金春流能   融  金春安明

   鑑賞記は、明日、書くことにしたい。
   
   
   
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兼高かおる 、曽野綾子著「わたくしたちの旅のかたち 」その3

2017年10月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   わたくしたちの「世界の旅」は、まだまだ続きますわね。と、四捨五入すれば、90歳のお姉さんたちは、元気な言葉で、この本を〆ている。
   シニア世代へのお勧めだといって、
   クルーズの旅、
   ツアーに参加する旅
   を挙げている。

   兼高さんは、若い時は旅は学びの場であったが、歳を取ったら、ただリラックスして楽しむ旅でもいいじゃないか。」と言う。
   船はエレベーターがあって階段を使わなくてもよいし、スタッフが総て面倒を見てくれるので、クルーズの旅は良いと、ハワイを往復する「飛鳥」の思い出を語る。
   曽野さんは、「クリスタル・セレニティ」の船旅を、語っている。
   
   横浜港に接岸中の飛鳥

   私は、まだ、このクルーズには参加した経験がないので、何とも言えないが、一度、フィンランドのヘルシンキから、バルチック海を、スウェーデンのストックホルムまで、豪華船で1泊して渡ったことがある。
   ロンドンにいた頃、夏の休暇での北欧の旅の途中である。
   巨大なフェリーを兼ねた客船で、多少は、クルーズ船に似た観光船であろう。
   全く、関係ないのだが、仕事で、マレーシアのセランゴールのサルタンの出迎えに、横浜港へ停船中のクイーンエリザベス二世号の中に入ったことがあるが、前の船だったので、随分古ぼけた船だなあと思ったことがある。

   経営者研修で一週間の飛鳥の船旅を経験した娘婿が、豪華船飛鳥の旅の経験を話してくれていたが、搭乗者の平均は71歳とかで、リピーターが多いのだと言う。
   日本人の預貯金の大半を所持している富裕層の老人たちの格好の娯楽だと言うことのようである。
   先日、国立劇場で、文楽を楽しむ飛鳥の旅のチラシを見たのだが、あの手この手で富裕な趣味人を取り込もうと言う戦術の一環であろうが、旅と合体した良質な豪華客船での船旅は、マーケティングとしても非常に当を得たセグメンテーションで、高齢社会であるから、益々、伸びるであろうと思う。

   私自身は、それほど、クルーズには興味はないが、あのプラトンが説いたアトランティスだと言われているサントリーニ島には、行きたいと思っているので、ギリシャから出帆して島々を巡る地中海クルーズには、行ければ行きたいとは思っている。

   さて、兼高さんは、出入国の手続きやホテルや車の手配、言葉の心配をするより、そういう事は添乗員に任せて、とにかく、旅をエンジョイする、シニア世代には、ツアーに参加するのが良いと薦めている。
   曽野さんは、ベルリン・フィルの演奏会を聴きたくてツアーに一人で申し込んだと言う。

   私は、一泊以上した外国は、仕事もプライベートも含めて、40ヵ国以上で、随分、外国を歩いているが、業務上、エージェントを使ったことはあるが、視察旅行やオフィシャルな旅以外は、殆ど、私自身で、スケジュールの作成から、旅の手配等一切をやってきた。
   1973年のヨーロッパ家族旅から初めて、クックの時刻表やミシュランのレッドとグリーンのガイドをはじめとして、主に、欧米の旅行ガイドや地図、解説書を頼りにして、インターネットが普及してからは、インターネットを駆使して、やってきたのだが、幸いにも、殆ど、問題らしきものが起こったことがない。

   元々、大学の受験科目でもあったので、世界史と世界地理には、非常に興味を持って勉強し続けて来たし、歴史遺産は勿論、絵画や彫刻、音楽や芝居など芸術鑑賞にも大いに関心があったので、人のお仕着せの旅のスケジュールでは満足できなかったと言うこともあると思う。

   このブログを書き始めたのは、2005年以降なので、旅のブログは、
   欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)(31)
   ニューヨーク紀行(15)
   晩秋のロシア紀行(16)
   初春の上海・江南紀行(12)
   だけだが、欧州紀行とニューヨーク旅は、私の海外旅行の典型例で、オペラやシェイクスピア、博物館美術館巡りなどの文化旅である。

   ところが、最近のロシア旅と中国旅は、ツアーに参加した海外旅行であった。
   まず、ロシアは、何かルートがないと、個人旅行は難しく、頃合いのJALパックがあったので、それに乗った。
   私自身がやったのは、ロシア入国ビザの取得と、マリンスキー劇場とボリショイ劇場のチケットの手配だけ。
   中国旅行は、前にやった殆ど同じルートの個人旅行は、すべて自分で手配したのだが、今回は、同じなら安い方が良いと思って、完全にツアーに乗った。
   それに、この旅は、中国がどう変わったのか、それを知りたくて行った中国旅行だったので、ツアーの方が楽だと思ったのである。

   まだ、多少、自分の趣味嗜好を楽しみたいと言う思いが残っているので、アメリカやヨーロッパに旅をするのなら、旅行会社任せのツアーよりは、やはり、個人旅行になるであろう。
   ツアーに参加したとしても、オプションの多いツアーを選ぶか、個人の自由が利く旅を選ぶであろうと思う。
   今回のJALパックの番外のボリショイ劇場などの鑑賞は、先に予約を入れて既成事実を作ってしまったので、エージェントとしては、あまり、嬉しくないことなのであろうが、やはり、お仕着せスケジュールでは、旅行慣れした人間には、好みに合わないことが結構多いのである。
   しかし、あれも観たいこれも見たいと言うのは、貧乏根性の表れなのかもしれない、歳も歳だし、もう少し、大人(?)になって、兼高さんが仰るように、リラックスして旅をエンジョイすることだと、言う気持ちも分かっているつもりではある。
   
   
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兼高かおる 、曽野綾子著「わたくしたちの旅のかたち 」その2

2017年10月05日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   曽野さんが、日本財団の会長として、福祉関係の活動に力を入れ、経済援助などでアフリカとの関係が深くて、アフリカの話が随所で語られており、非常に興味深いのだが、やはり、大統領追放後のフジモリ大統領の105日間自宅に滞在の話同様、別世界の話である。

   最終章 これからの日本、そして旅のかたち で、最近の動向について触れているので、少し、考えてみたい。
   まず、日本は本当に貧しいのか、という問題。
   ここでは、発展途上国、特に貧しい1日1ドル生活のボリビアの家族のことを語っているので、今なお、この地球上には、このような最貧困層が何十億人と存在しており、比較にならないのだが、お二人が言うように、日本人の生活は、十分に豊かであると思う。
   これは私見だが、失われた20年で、この間、GDPは500兆円どまりで鳴かず飛ばずが続いているのだが、技術革新によるのだが、この経済指標では表現できない経済社会の質量の向上は、計り知れないものがあり、随分、豊かになっている。
   これは、例えば、我々が日常使っているテレビやパソコンを取ってみれば、20年前の20万円のものと、今の20万円のものと比べれば、その途轍もない質の向上に気づく筈で、この現象が、すべての日本の経済社会生活に反映されており、まして、デフレであり人口減少の時代であるから、GDPの成長はゼロでも、日本人は、世界最先端の文明文化生活を営んでいることには間違いないと思う。

   それとは逆に、最近、若者は、「海外に行け」と言っても行きたがらないと言う内向き現象、例えば、医者は、もう、アメリカからは学ぶものはない、と言う。
   兼高さんは、海外の大学で得る一番大きなものは、人脈で、ハーバードなら留学で築くネットワークだ。と言っている。
   語学留学と言うケースは兎も角、海外の高等教育機関への日本人留学生は極端に減っているようで、深刻な問題となっており、この人脈、ネットワークの構築と言うことは、正に、正論であり、中国人の欧米トップ大学への留学ラッシュを考えれば、末恐ろしくなる。

   しかし、私のケースで、もう少し、どろどろした俗っぽいことを言うと、貴族制度がなくなったフランスを例にとれば、完全に学歴社会であり、ポリテクやENAを筆頭にグランゼコール出身者が支配していると言っても過言ではなく、
   ビジネスにしてもその相手のアイデンティティを確認するのに最も重要なのは、学歴であり、ポリテクを出たトップエクゼクティブが、私の場合には、ウォートン・スクールのMBAだと言うことで、対等だと言って付き合ってくれた。

   イギリスでも、貴族制度は残っていても、少数なので、やはり、資格や学歴優先で値踏みされて、とにかく、肩書に何かないと、Mrだけでは話にならず、私は、英人に勧められて、仕方なく、名刺にMBAを付けたのだが、送られてくる手紙や書類は、すべて、そのMBAがついていた。
   以前に、ブラジルの記事で書いたが、会社の社長などトップは、当然、PhD、すなわち、ドクター(博士)である筈だと言う前提で、その資格を持っていても持っていなくても、ドートールと呼ばれているように、発展途上国でも先進国でも、資格が独り歩きしているのである。

   もう一つ、嫌味になるのを覚悟で書けば、業界紙にインタビュー記事で紹介されたこともあるのだが、京大経済卒では、通用せず、グローバル水準のウォートンスクールのMBAが、私にとっては、ロンドンでのビジネスのパスポートとなった。
   欧米では、まともにビジネスをやろうとすれば、世界でもトップクラスの大学のドクター、少なくとも、MBAや法科大学院などの修士号以上を持っていなければ、まず、スタートで引けを取る。
   良いか悪いかは別として、また、アメリカンドリームだと言われても、欧米は、日本以上に、学歴と資格社会であって、これらに伍して行く最も簡単な方法は、欧米のトップ大学を目指して卒業することである。
   尤も、日本は、「出る釘は叩く」社会であり、エリートを寄って集って引き下ろす社会であるから、海外留学が良いか悪いかは別次元の話で、海外へ羽ばたけ、と言うのは、海外での話である。と言うことにしておこう。

   兼高さんが言っているのだが、
   朝から晩まで日本に閉じこもって、多くは似たような顔ぶれで生活していれば、新しいアイデアなど浮かぶ筈がない。海外に出て、日常から切り離されて、初めて見るもの、面白いものに触れれば脳が活性化する。海外へ出ると言う体験は、自分を成長させる近道である。
   可愛い子には旅をさせよ、イギリス貴族が、子息をイタリアへ、「グランドツアー」に送り出した、これ総て、子を思う親が心すべき教訓である。
   まして、海外留学すれば、これに加えて、将来の財産となるグローバルベースの人脈を得て、かつ、グローバルに活躍できるパスポートを得ることになる。
   ハーバード大学への日本の留学生は、たったの5人だと、アメリカの著名人が嘆いていたが、日本のノーベル賞受賞者の大半が、アメリカ帰りの学者である現実を観れば、如何に、欧米への海外留学が大切かが分かるであろう。

   日本の若い音楽家やバレエダンサー、それに、スポーツ分野での若い人々の海外での活躍が脚光を浴びているが、やはり、学問芸術など海外での高等教育機関での勉強も大切であり、明治維新の頃や戦後の復興期に、若者たちが、雲霞のごとく海外に雄飛した、あの時代を再現しない限り、日本の将来は、このまま、鳴かず飛ばずであろうと思う。

   さて、「富」が文化をつくる と言う項で、
   突出したお金持ちの存在は、歓迎すべきで、そもそも、お金がなければ、文化や芸術は育たない。お金持ちから富裕税を取ってはいけません。豪邸でも庭でも最高水準のものを作れば、後に残って観光資源になる。
   と、お二人は、ピラミッドやタージ・マハルやフィレンツェなどの例を挙げて、威勢のいいことを仰る。
   富と文化とは相関関係なのは、事実としても、格差拡大の深刻な現代社会においては、そのやり方如何では、資本主義のみならず、民主主義まで窮地に追い込む。
  文化文明論やルネサンス、はたまた、資本主義の将来などのついては、このブログで、随分論じて来たので、蛇足は避けたい。

   他にも、この本では、色々と問題提起されていて、興味は尽きない。
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兼高かおる 、曽野綾子著「わたくしたちの旅のかたち 」

2017年10月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本のサブタイトルが、”好奇心が「知恵」と「元気」を与えてくれる。”
   私より、はるかに長く人生を送って来られた海外への草分けとも言うべきお二人のお姉さんが、旅について語ると言う本、
   兼高かおるのテレビ番組「世界の旅」で、海外への夢を触発されたようなものだし、文学界きっての海外通である曾野綾子との対談であるから、中身を確かめずに、買って読んだ。

   冒頭、苦しかった戦中・戦後の話がかなりあって、兼高さんが、ハワイ経由でアメリカへ留学したのは、1954年であるから、まず、経験したのは、異文化でのカルチャー・ショック、アメリカの豊かさから語り始めている。
   曾野さんの初めての海外は、その少し後、女流作家の視察旅行で、インド、パキスタンなど東南アジアで、強烈なカルチャー・ショックは、インドのカースト制度の実態に触れたことだと言う。

   誰でもそうだと思うが、海外に出て、びっくりするのは、異文化異文明下で、全く日本とは違った習慣や経験、風景などに接した時のカルチャー・ショックで、その落差が大きければ大きいほど、強烈な印象を与える。
   曾野さんは、主に、米軍に接収された箱根宮ノ下の富士屋ホテルでの経験、夫君三浦朱門とのアメリカ生活、度々訪れたアフリカなどについて語っており、兼高さんは、「世界の旅」で、訪れた国は150か国と言うから、二人とも、異国で接したタブーの話など、日本人の常識をはるかに超えたカルチャー・ショック、日本とは全く違った海外での経験や思い出を語っていて非常に面白い。

   私も、留学と海外赴任で海外生活14年、訪れた国は40か国を越えているので、それなりに異文化異文明に翻弄されて、苦しい経験もしているのだが、住んだのはアメリカからブラジル、オランダとイギリスと言った、かなり、知識の入っている先進国であった所為でもあろうか、それ程、強烈なカルチャー・ショックを感じて打ちのめされたと言う経験はない。
   むしろ、その違いを楽しみながら、世界を歩いていたと言う思いの方が強い。

   二人がアメリカでの大学生の生活について、アメリカ人の豊かな生活に比べて、学生たちは、質素で、どちらかと言えば貧しい生活を送っており、お金がなくても、どんなことでも楽しんでしまう、自由で心は豊かな生活を送って、大学生活をエンジョイしている。と語っている。
   私の場合は、全米屈指のビジネス・スクール、ウォートン・スクールのMBA、すなわち、自分たちの将来のキャリアーが成績如何で殆ど決定してしまう大学院の2年間であるから、アメリカ人学生と言えども、かなり、勉強勉強で必死であったように思う。
   友人のアメリカ人は、妻が働いて学校に通っていて、そのかわり、卒業すれば、妻が代わって大学院に入るのだと言っていた。
   あの名作映画『ある愛の詩 Love Story』のように、アメリカの場合は、悲しくも切ない物語は例外ではなく、日本のように、子供に貢ぐ親バカが少ないので、必死に自活する学生が多いことは事実であると思う。今でも、学費の高騰などで、アメリカの若者たちの深刻な奨学金地獄が、前途を暗くしている。

   「海外が身近になった1970年代」と言う章があった。
   パン・アメリカンがジャンボを飛ばして、高価だった旅行代金が大幅に引き下げられて、海外旅行は一気に身近になって、農協はじめ団体旅行がブームになって、多くの日本人が世界へ飛び立った。と言うのである。
   私が、留学のためにフィラデルフィアへ飛び立ったのは、1972年、羽田からであった。
   学生ビザだが、米国政府指定の聖路加病院で検診を受けて、大判のレントゲン写真フィルムを持って、サンフランシスコ空港に降り立ったのだが、兼高さんも同じことを言っており、ホノルルでフィルムを渡したら待たされたて困ったと語っているが、私の場合には、見せろとも言われなかった。
   確か、ずっと後、オランダからイギリスへ移住した時にも、同じような健康関連書類を示せと言われた記憶があるのだが、まだ、日本人を信用しないのであろうか。

   このアメリカ在住中に、ヨーロッパ留学生の格安里帰りチャーター便に便乗して、家族を連れてヨーロッパの貧乏列車旅をしており、また、メキシコまで足を延ばしており、これから、幸も不幸も綯い交ぜの私の海外行脚が始まったのである。

   さて、買い物で国際交渉術を鍛えると言って、曾野さんは、五分の一の法則で、インドシナで、1000ドルの壺を200ドルで買ったと言う。
   私もこのブログで、度々アラビアの市場での商法や外国での土産物の買い方、先の中国旅行での値切り交渉などについて書いているが、実際に、これまで、値切り交渉をせずにモノを買って、随分損をしたと思っており、日本で買うよりは安かったであろうと慰めている。
   ビジネスでは、タフ・ネゴーシエーションをしても、個人の買い物では、大した金額でもないし、と思って気が弱くなっている。

   ところで、お二人の異国でのタブーに接した時の戸惑いや苦労話が、面白い。
   日本の「当たり前」を疑う、理解できない習慣も沢山あるので、その国のタブーを知っておくことが大切だと言うのだが、それが、そんなに生易しいことなら苦労はしない。
   言葉が違うように、歴史や依って立つ伝統や習慣が違うのであるから、どこへ行ってもどんなに長く住んでも、所詮は日本人であって、絶対に、現地人のようにはなれないし振舞える筈がない。
   お二人の結論は、日本人のマナーは超一流であるから、日本人は誇りをもってよく、少し気を付けて丁寧な立ち居振る舞いを心がければよい。と言うことである。

   さて、この本のほんの一部しかコメントできなかったが、実に、タフな国際人と言おうか、世界のどこへ出しても引けを取らない素晴らしいコスモポリタンのタフなお姉さんがおられると言うだけでも元気の出る、面白い本であったことを付記して置く。
   
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桂米朝著「桂米朝 私の履歴書」

2017年10月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「子米朝」を読んだ後、親の米朝を知りたくて、この履歴書を読んだ。
   全く、米朝を知らないわけではなく、この履歴書も、日経掲載当時に、飛ばし飛ばしながら読んだ記憶もあるのだが、残念ながら、米朝の高座には全く接したことはなく、米朝の落語は、すべて、YouTubeや、録画録音からである。
   しかし、元関西人であったと言うこともあるが、能狂言は勿論、文楽や歌舞伎など、日本の古典芸能の多くは、上方オリジンだと思っているので、出来るだけ、その本物を味わいたいと言う気持ちが強いので、どうしても関心が行き、米朝は、その意味でも、最高峰に聳え立つ上方の古典芸能人だと思っているので、米朝一門落語会を聴いた直後でもあり、読みたくなったのである。
   
   まず、米朝の経歴で、特筆すべきは、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京して東京で学生生活を送っており、同時に、作家であり落語・寄席研究家であり、六代目尾上菊五郎の座付作者ともいわれたと言う卓越した文学者正岡容に私淑して弟子として薫陶を受けたことである。
   この履歴書には触れていないが、正岡から、「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」と言われて、落語家への道を決心をしたと言うのは有名な話で、戦後風前の灯であった上方落語の継承と復興への功績から「上方落語中興の祖」と称えられている文化的な貢献は勿論のこと、『米朝落語全集』を筆頭にして、膨大な著書やCDやDVDなどの音源や映像を残すなど、並の落語家を超越した知的武装をした偉大なインテリ芸術家であり、人間国宝に上り詰めたと言うのは、決して偶然ではなかった筈である。

   本の虫であったと言うのは、この履歴書では、奥方との初めての出会いのシーンで一寸匂わせているだけだが、「子米朝」の中で、子息の米團治が語っており、落語は勿論、日本の古典芸能なり上方文化などについては、正に、学者以上に造詣が深かったのであろうと思う。
   それに加えて、常人を超越した凄い落語家であったのみならず、種々の文化関係のプロモーターであったり組織のオルガナイザーであったりなど八面六臂の活躍を89歳まで続けて来たのであるから、大変な偉業である。

   「落語全集」のところで、「落語は文学か」と言われるが、その議論には関心がなく、落語を活字にするのは、芸を記録に残して後世に伝えるためで、一応の上方落語の定本を作っておきたいからだと言う。
   米朝のテープはすべて揃えている言っていた司馬遼太郎は、寝る時には、米朝の2席テープをかけると安らかに夢の世界に入れると言っていた。という。
   その司馬遼太郎が、「米朝ばなし」の解説で、「・・・米朝さんほど心をよろこばせるという本質的な機能をもった文学作品に出あうことは、そう多くはない。」と書いている。
   米朝の著わす落語は、文学だと認めているのである。
   圓朝の作品などは、まさに、立派な文学であるし、落語も、形式は違うが、平家物語や浄瑠璃や、あるいは、狂言などと同じような、文学に相違ないと思っている。
   小米朝、すなわち、米團治が書いていたが、落語は、映画にもなれば芝居にもなる、芸能の原点でもあるのである。

   ところで、愛する上方文化、上方芸能の衰退をどうして復興して行けばよいのか、本当の上方の特色、個性について、ジャンルを超えて、芸能界に共通する問題について語り合って行こうではないと、上方のトップ芸人・芸術家が参集して、雑誌「上方風流」発行など、活動を始めたと言う。文楽で言えば、住太夫、源太夫、寛治、簑助、文雀と言った人間国宝の揃い踏み、私の知っている人でも、藤十郎、藤山寛美、大村崑、夢路いとし喜味こいし、茂山千之丞の面々、他には、舞踊ほかの古典芸能、演劇、書家、史家作家など、人間国宝を含めて総勢24人が集まり、年齢オーバーで、千作や延若などは、涙を飲んだと言う。
   全く余談だが、イタリアルネサンスが、文明の十字路、メディチのフィレンツェで、繚乱したのは、正に、学者や芸術家など、クリエイティブ・クラスのトップ才能が雲霞のごとく参集したためであって、そんな土壌を醸し出した古典芸能のプチ大阪版と言うところであろうか。
   異文化異文明の交流はもとより、異分野異業種のコラボレーション、切磋琢磨、鬩ぎ合い等々が、限りなく、フィレンツェの学問や芸術の創造性を高めて豊かにしたのである。
   良くは知らないが、能狂言、文楽などが、歌舞伎との交流を厳しく規制して、殆ど、芸のコラボレーションがなかったと聞くのだが、考えられないような愚挙である。
   先の人間国宝銕之丞は、吉右衛門の勧進帳の弁慶に触発されて芸に取り入れたと言うから、芸術とは、それ程奥深いものなのであり、門戸を閉ざすなど自殺行為であり、米朝も、千之丞の追放騒動について疑問を呈している。

   もう一つの米朝の芸や芸術仲間のすそ野の広さは、正岡容や小沢正一がからむ「東京やなぎ句会」などの東京の芸術家たちとの交流においても言え、これも特筆すべきであろう。

   この履歴書には、流石、天下一の噺家の自伝であるから、読んでいて実に面白い。
   師匠米團治への篤い思いなど、随所に書かれていて、この米團治あっての米朝なのであろうが、米團治の言葉を心に秘めて奮闘した米朝の姿が清々しい。
   前半の相当部分は、戦前や古い話で、多少馴染みがないぶん、少し退屈であったが、奥方桑田絹子変じて駒ヒカルのOSK時代のジャングルブギを踊る雄姿(?)の素晴らしい写真のページくらいからは、第三章 充実の時代へ で、俄然面白くなる。

   1時間以上にも及ぶ自身で集大成した「地獄八景亡者戯(江戸落語は、地獄めぐり)」が面白いようだが、私は、一度だけ、国立演芸場で、極めて省略バージョンだが、春團治の弟子桂春蝶の「地獄めぐり」を聞いたことがある。
   後先になってしまったが、これから、Youtubeで、米朝の名演を観られるので、それを聴きながら、米朝の偉大さを懐かしんでみたいと思う。
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ロバート・C・アレン著「なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか」

2017年10月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
    原題は、GLOBAL ECONOMIC HISTORY グローバル経済史なのだが、日本語版へのプロローグの冒頭で、本書の目的は、「なぜ世界には豊かな国と貧しい国があるのか」と言うことだと述べており、今はやりの、グローバル・ベースの経済格差の依って立つ原因や成り立ちについて論じていて、興味深い。
   アメリカ経済学会の会長を務めたことのあるオックスフォード大学教授の概説経済書なので、分かり易い書物だが、手抜きのない高度な学術書でもある。

   なぜ、国によって経済発展に差が出来たのか、これまでは、制度、文化、地理的条件などに依拠した理論が盛んであったが、これらも重要ではあるが、技術革新、グローバル化、経済政策の持つ歪んだ特性とその影響を強調したいと言う。

   イギリスで、何故、産業革命が起こったのか、
   大航海時代の幕開けで、第一次グローバル化とともに始まった「大いなる分岐」の後、
   賃金が割高で、エネルギーコストが割安なイギリス経済では、産業革命を切り開いた技術を発明したり、利用することによって、企業が利益を上げることが出来た、このイギリス特有の賃金・生産要素価格「エネルギー価格と資本価格」の在り方が鍵だった。
   イギリスの発明家が多くの時間とお金を研究開発に費やし、往々にして平凡な着想でしかないものを具体化しようとしたのか、
   それは、彼らが発明した機械は、労働を節約するために資本を増やした、すなわち、結果として、これらの機械の使用から利益を上げたのは、労働が割高で、資本が割安であったイギリスにおいてのみ起こり得たことで、他国は、その資本投下の余地がなく、そのシステムを導入してもペイしなかった。
   また、マンチェスターを筆頭にイングランド北部とスコットランドの多くの都市が爆発的に成長したが、この拡大は、インド、中国および中東の犠牲のもとになされた。ともいう。

   幸いなことに、18世紀の発明が一過性のものではなく、継続的な技術革新の流れを加速し、経済成長が持続的となったために、所得が増え続けて、今日のように繁栄が庶民まで広く行きわたるようになった、イギリスの産業革命の成果と言えよう。というのである。

   北米と西ヨーロッパは、イギリスに負けじとキャッチアップするために、内国関税の廃止やインフラ建設による国内市場統一、自国企業保護のための対外関税、通貨安定と銀行創設労働者育成のための普通教育の普及等々経済政策を打ち出し、イギリスの先進技術を、低賃金低燃費などの自国でも費用対効果が出るように改良するなど、投資家たちに経済的インセンティブを与えて、経済システムを自国の経済状況に合わせて経済成長を策した。
   いずれにしろ、盛者は衰退する理で、アメリカやドイツが、イギリスを凌駕して、今日に至っている。

   経済成長格差について、偉大なる帝国であったインドの工業化の挫折について克明に論じていて面白い。
   勿論、経済的な成功と失敗を分けたのは、技術革新、グローバル化、そして、国の経済政策だと言っているのだが、。
   産業革命がインドなどアジアの工業化を挫折させたのは、
   第一は、工業の生産性がヨーロッパにおいて、益々上昇し、コストを低下させた。機械化費用よりも労働コストが低すぎるので、先進工業技術を導入不可能であった。
   第二に、蒸気船と鉄道の普及が、国際競争力を一層過酷なものにした。
   尤も、イギリスが、インドからの綿製品の輸入を阻止したとか、英国の植民地政策が問題の一端でもあろうが、このインドの挫折は、経済学の基本原理「比較優位」が齎した結果だと言う。

   ところで、日本の経済成長は、どう説明するのか。
   著者は、20世紀に貧困から抜け出した大国(日本、台湾、韓国、ソ連)は、計画の手段は様々だが、ビッグプッシュ型工業化をやり遂げた結果だったと言う。
   これは、国よって当然異なるのだが、政府主導の計画下で、一気に先進工業国へキャッチアップすべく経済政策を実行推進するのことで、確かに、ソ連や日本のケースは、その典型であろう。

   日本について、興味深いのは、
   明治維新の工業化政策について、日本は、西洋の条件下で、西洋の機械化工業のレイアウトにおいてうまく機能する創造的な対応を示した。低賃金経済で日本で採算が取れるように、西洋の技術を作り変えたのだとして、赤字だった富岡製糸場とは違って、ヨーロッパ式の機械を、金属製ではなく木製に、蒸気機関ではなく人力でクランクを回した改良式の「諏訪式座繰機」を考案して普及させた。高価な資本を少なくして安価な労働の使用を多くしたので、日本にとっては、最適の技術であった。と述べていることである。
   尤も、戦後の快進撃では、この近代技術を自国の資本価格に適合するように資本節約的な方向で改造して利用する方式とは違って、最も近代的で資本集約的な技術を大規模に駆使して、最先端の工業立国となっている。

   この本では、最近のインドや中国など、成熟して成長の止まっている先進工業国とは違った、新興国の経済成長について、殆ど論じていないし、デジタル革命、ICT革命によって大きく様変わりした政治経済環境下での、経済成長のトレンドなどについても、殆ど叙述していない。
   アフリカについては、今後の経済成長について、その可能性さえ言及していないが、最先端を行くBOTビジネスや、破壊的イノベーションの推移などによっては、どのように逆転するかも分からないし、とにかく、AIやIOTによって、人間に変わって神となりつつある機械をどうコントロールするのか、いずれにしろ、最先端最高の科学技術を一気に取り込める新時代の経済成長、その格差の動向は、大きく変わってくる筈である。

   最後に、
   「多くの戦略のうち、何がもっとも効果的であったのか・・・成功した政策を他の国々に移し替えることが出来るのか・・・経済発展をもたらすもっともよい政策は、まったく解明されないままなのである。」と言っているのが興味深い。
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