熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

アメリカ最高裁:トランプ陣営の無法を拒否

2020年12月12日 | 政治・経済・社会
   ニューヨークタイムズの電子版が、トップで、次のように報じた。

Supreme Court Rejects Texas Suit Seeking to Subvert Election
(最高裁は、選挙を破壊しようとするミシガンの訴えを拒否した)
The suit, filed directly in the Supreme Court, sought to bar Georgia, Michigan, Pennsylvania and Wisconsin from casting their electoral votes for Joseph R. Biden Jr.

ワシントンポストも、
Supreme Court dismisses Texas bid to overturn election results
(最高裁は、選挙結果を覆すテキサスの勧告を拒否した)
President Trump had long considered the Supreme Court as his ace-in-the-hold in any post-election litigation.

先に時事通信が報じていた、下記訴えを最高裁が退けたのである。
トランプ陣営、最後の抵抗 結果確定阻止へ最高裁提訴 米大統領選
【ワシントン時事】米大統領選をめぐり共和党地盤の南部テキサス州が、バイデン次期大統領の勝利確定阻止を目指し、連邦最高裁に訴訟を起こした。
テキサス州の司法長官は8日の提訴で、いずれもバイデン氏が勝利した南部ジョージア、東部ペンシルベニアなど4激戦州で「選挙プロセスが不適切に変更され、非合法な票が大量に投じられた」と主張。投票結果に基づくのではなく、いずれも共和党が多数派の各州議会に選挙人を指名させるよう求めた。

トランプが、最高裁に、Amy Coney Barrettほか保守派の裁判官を3名も送り込んで、意のままに操縦して、次期政権を維持しようとした試みが、これで、悉く潰えたと言えよう。
三権分立の徹底したアメリカでありながら、自分が任命した裁判官が、どんな違法な横車でも容認してくれると、民主主義の最高の砦である最高裁を、an ace in the hole(最後の切り札)と考えていたトランプの浅はかさがここに極まれりと言うことであろうか。
Amy Coney Barrettさえ、同意しなかった茶番劇の悲しさ、
Trump, who has appointed three of the court’s nine members, has long viewed the Supreme Court as something of an ace in the hole,

任期ギリギリまで、自分の恩赦も含めて何をするか分らない往生際の悪いトランプのアクションが、ただただ、民主主義の危機を招かないことを祈りたい。
as a practical matter the Supreme Court’s action puts an end to any prospect that Mr. Trump will win in court what he lost at the polls.
(最高裁のこの判決で、トランプが敗北に関する件で法廷争いで勝ついかなる見込みもなくなる)

   しかし、驚愕すべきは、 
   Legal experts almost universally dismissed Texas’ suit as an unbecoming stunt.
   (法の権威者たちが、殆ど例外なしに、テキサスの訴えは認定不可能と退けた)
   にもかかわらず、
   ”トランプ氏は9日、自身も原告に加わると最高裁に申し立てた。10日にはツイッターで「米史上最大の不正選挙から国を救うチャンスが、最高裁にはある」と投稿。米メディアによると、共和党知事のいる少なくとも17州が訴えを支持したほか、同党下院議員100人以上もテキサス州の主張に賛同する意見書を最高裁に提出した。”と言う保守党の無法ぶりである。
   WPが、嘘二万回と報じたトランプの嘘と欺瞞塗れの所業はともかくとして、確たる根拠もない、法的バックアップもない訴訟に、17の共和党支配州の法務長官、かつ、保守党の下院議員106名までもが尻馬に便乗して、営々と築き挙げてきた民主主義システムを否定してぶち壊そうとするアメリカの途轍もない「法と秩序」の無視というこの悲劇をどう考えれば良いのか。
   The court, in a brief unsigned order, said Texas lacked standing to pursue the case, saying it “has not demonstrated a judicially cognizable interest in the manner in which another state conducts its elections.”(テキサスには、他の州の選挙にとやかく言う原告資格はない)と最高裁は突っぱねたと、NYTは報じる。

   1月のジョージアの2名の上院議員の選挙で、ねじれ議会となるかどうかの帰趨が決まるのだが、上院は各州2名という定員なので、人口の少ない地方の保守党地盤の州が多いので、どうしても、人口割りの下院と違って、上院は保守党優位になるのだが、これだけ、保守党がトランプ党になって劣化してしまうと、両党和解の可能性など殆ど望み薄で、アメリカの分断分裂の修復は至難の業であり、バイデンの船出も波瀾万丈となろう。

   いずれにしろ、朝起きて、NYTとWPの電子版を観て、ホッとしている。
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わが庭・・・獅子頭が綺麗に紅葉

2020年12月11日 | わが庭の歳時記
   小さな切れ長の縮れた葉と秋の鮮やかな紅葉に魅せられて、わが庭、門扉の内外に一本ずつモミジの獅子頭を植えている。
   獅子のたてがみを連想させるような独特の葉の形が名前の由来なのであろう。
   千葉から移転したときに鉢植えから庭に移したので、まだ、2メートル足らずの小木だが、存在感十分である。
   もう少し時間が掛かるのだが、深紅に真っ赤に染まるまでには至っていないが、やや緑色が残っている、このオレンジ色の広がるのが、最盛期の姿で、実に鮮やかである。
   紅葉する盆栽と言うことで、盆栽仕立てで販売されていることが多いのだが、私には、そのような根気と繊細さがないので、庭植えで十分である。
   
   
   
   
   
   
   

   他のモミジの紅葉は、鴫立沢と琴の糸。
   
   

   日本スイセンが、花を開き始めた。
   庭を総て花木や庭木にしてしまって、わが庭には、花壇がないので、庭のあっちこっちの隙間から、スイセンが顔を出している。
   ユリもシャクヤクもそうだが、庭木の間から下草のように花を咲かせるのも、元々は、そうであったはずだと楽しんでいる。
   
   
   

   バラは寂しいのだが、椿は、咲き始めている。
   これから、椿の花が順次咲き続けて、梅が開花するので、楽しみである。
   
   
   
   
   
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トランプ、最高裁でも敗北する

2020年12月09日 | 政治・経済・社会
   ワシントンポストが、アメリカの最高裁でも、トランプ陣営の異議申し立てを拒否したと次のように報じた。
”Supreme Court Rejects Republican Request to Overturn Pennsylvania Results”
(最高裁は、ペンシルベニアの選挙結果を覆す共和党の要請を却下)
The Supreme Court on Tuesday denied a last-minute attempt by President Trump’s allies to overturn the election results in Pennsylvania, a blow to the president’s continuing efforts to reverse his loss to Democrat Joe Biden.
The court’s brief order denying a requested injunction provided no reasoning, nor did it note any dissenting votes. It was the first request to delay or overturn the results of last month’s presidential election to reach the court, and it appears that Justice Amy Coney Barrett, Trump’s latest nominee, took part in the case.
The lawsuit was part of a blizzard of litigation and personal interventions Trump and his lawyers have waged to overturn victories by Biden in a handful of key states. But time is running out, and the electoral college is scheduled to meet in less than a week.
   異論はなかったと報じられているので、トランプが駆け込みで指名したAmy Coney Barrett判事も、トランプを容認しなかったのであろう。

   問題は、共和党議員の90%が、いまだに、選挙結果を認めずに沈黙を守っていることで、CNNが報じていたが、いい加減にしろとトランプに言えない情けなさが、アメリカの民主主義の危機を告げている。
   そして、トランプ支持者が、次のように、益々過激化しつつあることである。
   これは、米国社会の分断亀裂と言うよりも、最早、良識と無知の分断、
   これほどまでにエスタブリッシュメントが酷く自己利益を追求して社会を支配し、一般大衆を踏みつけにしてきたかのかという査証だとすると、恐怖を感じる。
”As Trump Rails Against Loss, His Supporters Become More Threatening”
President Trump’s baseless claims of fraud have prompted outrage among his loyalists and led to behavior that even some Republicans say is dangerous.

   ニューヨーク・タイムズも、次のように報道。
”Supreme Court denies Trump allies’ bid to overturn Pennsylvania election results”
(最高裁は、ペンシルベニアの選挙結果を覆すトランプ陣営の訴訟を拒否)
In a one-sentence order, the court rejected a Republican request to challenge election results that had already been certified and submitted. 

   同様の最高裁判決を、時事が次のように報じた。
米最高裁、大統領選への異議認めず=トランプ陣営、さらに窮地
 【ワシントン時事】トランプ米大統領を支持する共和党議員らが大統領選後、東部ペンシルベニア州で敗北確定の差し止めを求めた裁判で、連邦最高裁は8日、訴えを退ける決定を下した。トランプ陣営による一連の訴訟で、連邦最高裁による判断は初。法廷闘争を通じバイデン次期大統領の勝利確定阻止を目指した陣営は、さらに厳しい立場に追い込まれた。
 激戦州の一つだった同州では大統領選後、全有権者に郵便投票を認めた州法は無効だと主張する共和党議員らが訴訟を起こしたが、州最高裁で敗訴し、連邦最高裁に判断を求めていた。連邦最高裁は「(州最高裁判決の)差し止めは認めない」と判断した。決定の理由は示していない。

   最高裁判決で示された良識が、アメリカ民主主義を窮地から救うことを願っている。
   とにかく、このままでは、宇宙船地球号も、米国社会も無茶苦茶になってしまう。

   ブルームバーグが次のように報じている。
   米紙ニューヨーク・タイムズによると、8日時点で、全50州と首都ワシントンが選挙結果を認定した。認定を終えた州の獲得選挙人はバイデン氏が計306人、トランプ氏が計232人だ。バイデン氏は当選に必要な270人以上を既に得ている。各州選挙人の投票結果は、来年1月6日に連邦議会で集計され、確定する。

   今後の日程は、
   2020年12月14日  11月3日の選挙結果に基づいて、各州・地区の選挙人が投票
   2021年1月6日  連邦議会・上下院合同会議。選挙人による投票結果を開票
   2021年1月20日  大統領就任式

   必ずしも、総て、バイデンに賛成というわけではないが、新政権へのスムーズな移行を願っている。
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4.ケンウッドの野外オペラ:土砂降りの”オテロ”

2020年12月07日 | 欧米クラシック漫歩
   ケンウッドのロイヤル・オペラの野外公演は、都合、4年間鑑賞したが、先回のドミンゴの「トスカ」と比べて、第3回目の「サムソンとデリラ」と第4回目の「トスカ」は、天候の悪化のために、途中で席を立たざるを得ない苦い経験をした。
   この二回とも、グラス席ではなく、かなり良い位置の椅子席だったので、私一人だったら最後まで居たかも知れないのだが、小学生の次女と一緒であったので諦めた。

   「サムソンとデリラ」は、決して出来の悪い公演ではなかったが、その前に、同じ舞台を、コベント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスで、プラシッド・ドミンゴのサムソンで観ており、他のキャストは全く同じで、デリラのオルガ・ボロディーナには感嘆しきりではあったが、サムソンがロシアのテナー・アンドレイ・ポポフに代わっていて、如何せん、その落差が激し過ぎた。
   ポポフの端正な美声も、野外のオープン・エアーのために声も飛び、味気なくて何の飾り気もないコンサート形式であり、比較するのも無理だが、こんなにもスーパー・スターのドミンゴが偉大なのかを思い知った。それに、あまりの素晴らしさに度肝を抜かれたロシアのメゾ・ソプラノのボロディーナの迫力に対抗できるテナーは、ホセ・カレーラスでもダメで、ドミンゴしかないと感じた。
   ところで、その夜は、尋常の寒さではなく、用意していったセーターやバーバリーのコートを着込んでも寒くて堪らず、まず真っ先に娘が音を上げたので、じっと座っておれなくなって、第3幕をギブアップして帰ってしまった。

   第4回目(1993年)の「オテロ」は、ヴラディーミル・アトラントフのオテロ、カーティア・リッチャレッリのデズデモーナ、フスティーノ・ディアスのイア―ゴ、それに、指揮はクリストフ・フォン・ドホナーニ、と言う豪華版で、大いに期待して出かけた。
   その前に、このロイヤル・オペラで、ゲオルグ・ショルティ指揮、ドミンゴのオテロ、キリ・テ・カナワのデズデモーナ、セルゲイ・ライフェルカスのイアーゴと言う伝説的な舞台を観て感動し、ムーティ指揮のミラノ・スカラ座の舞台を二回、少し前に、ルネ・フレミングのロイヤルの舞台など、結構観ているのだが、このケンウッドの異色な舞台は非常に魅力を感じていた。
   ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのシェイクスピアの舞台も素晴らしいが、シェイクスピアに触発されて作曲したヴェルディのオペラの素晴らしさは、二人の偉大な芸術家の魂の爆発のような気がして深い感慨を覚える。

   ところが、この日は、あいにく雨で、悲しいかな、ずぶ濡れの椅子には、座っておれなくて、それに、寒い。
   我慢できなくなって、最初は一人二人だったが、多くの観客が、席を立ち始めて、グリーン席の客は、直接地面に座っているのであるから、斜面の雨水が流れてきて堪らない。
   結局、第1幕の終わり近くになって、妻と娘が席を立った。二人とも私ほどオペラに対して執着がないので、さっさと帰ろうとするが、こっちには未練が残る。

   今回は、望遠レンズをつけた一眼レフの他に、8ミリビデオまで持ってきたので、せめても、デズデモーナとオテロの二重唱だけでも撮って帰ろうと思って、横殴りの激しい雨に傘を差して待って、途中で諦めて、木陰に駆け込んだ。
   雨の中を、広いケンウッドの公園を小走りに横断し、ハムステッド・ヒースの高級住宅街を通り抜けて車に向かう。
   一寸小降りになったかと思って歩いていると、第1幕が終ったのか拍手の音がして、続いて、マイクで、天候のコンディションが悪いので、寒くて歌手が堪えられないので、第2幕を省略して続行すると報じている。
   マイクは使用しているが、吹きさらしのオープンな舞台で、雨がザァザァ降りしきり、気温がどんどん下がっており、それに、観客が浮き足立って前で右往左往しているような状態で、歌手も正常な状態で歌えるはずがない。

   カーティア・リッチャレッリのデズデモーナの歌う「柳の歌」を、どれほど聴きたかったか。
   キリ・テ・カナワの、そして、ルネ・フレミングの「柳の歌」にも、どれほど、感激したか、
   ヴェルディの「レクイエム」で一度だけしか、リッチャレッリの生を聴いたことがないのだが、その儚い期待もパーになってしまった残念な思い出である。

   良く晴れた爽やかな日の夜のロンドンの野外コンサートは、本当に気持ちよく至福のひとときを楽しめるのだが、この日のように、横殴りの激しい雨に打たれて寒さに震え上がるような巡り合わせになると、まさに天国と地獄のような激しい落差。
   翌年、イングリッシュ・ヘリティッジから、ケンウッドの野外オペラの案内状が、帰国していたので、イギリスから転送されてきたのだが、オテロの第2幕キャンセルのお詫びとして5ポンドのバウチャーが同封されていた。

   ロンドンで、夏の夜、各地で、野外コンサートが開かれて人気を博しているのは、気持ちの良い広々とした公園で、気楽なピクニック気分で飲食に興じながら、オペラなりクラシック音楽なり、ジャズなりを楽しめるからであろう。
   夏には、英国のみならず、ヨーロッパ各地で、公園や、ローマ時代のアリーナや、古城や宮殿、古い教会や、歴史的遺産や遺跡・廃墟などで、カラフルな照明にライトアップされて、野外コンサートやイヴェントが開かれる。
   イタリアのヴェローナの巨大なローマ時代の野外劇場での、「アイーダ」と「トゥーランドット」が最も印象にのこっているが、他の印象記についても、追々書いてみたいと思っている。
   
   
    。
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体力の衰えを感じる時

2020年12月06日 | 生活随想・趣味
   後期高齢者になってから、加齢の徴候であろう、一気に体力の衰えを感じ始めた。
   真っ先に衰えるのは、「歯目足」または「歯目○○」だと聞いたことがある。

   一番気になっている衰えは、足である。
   脊柱管狭窄症になって、足腰が痛くなって苦痛を感じているという事もあるが、これは、エゴスキュー体操でかなり改善したのと、痛みが止まると普通に歩けるので、特に、障害だと言うことにはならないであろう。
   問題は、歩く速度が遅くなってきたことと、以前ほど、歩く距離を伸ばせなくなってきたことで、孫娘の幼稚園への送り迎えをしているのだが、走られれば追いつけないという事である。
   バス停へ駆け込むことくらいは、まず出来ても、最近では走ったことがない。
   それに、階段の上り下りは、大事を取って手摺りを使うことが多くなった。
   まだ、ステッキを使うほどではないので、随分前に買ったが埃を被っている。
   30分や一時間くらいの散歩は、普通にやれているが、鎌倉のようにアップダウンが激しいと、昔のように、距離は伸ばせなくなった。

   今は、コロナの心配があって、遠出は出来なくなっているのだが、これまでのように、一日中、野山を歩いて古社寺散策が出来るのかどうか、一寸、考えている。
   しかし、孫娘の幼稚園の送り迎えが済む2022年の春には、このブログの「ニューヨーク紀行」の再現、フィラデルフィアの母校へのセンチメンタルジャーニーとニューヨークでのMETなど文化鑑賞三昧のアメリカ旅に出たいと思っている。

   目は、若いときから近眼なので、ずっと、メガネを使っているが、最近では一つのメガネでは調整がつかず、遠中近、すなわち、常用メガネ、パソコン用、読書用の三つを使い分けている。
   幸いなことに、何時間続けても、読書には苦痛を感じないし、観劇など普通に舞台が見えるので、目で不自由することはない。

   歯は、随分前に右下の大臼歯を1本抜いただけで、無傷で、老年まで過ごし、虫歯の親知らずを3本抜いたくらいで、「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」という8020運動を十分クリア出来たが、最近になって、歯が欠けたり虫歯になったりして、時折歯医者にお世話になっている。

   「歯目○○」の○○については、年相応と言うことにしておこう。
   体の方はそれなりとしても、心や精神面では現役であるのが面白い。

   余談だが、歳を真っ先に実感したのは、紙こよりをよれなくなったこと。
   すなわち、指紋が消えてしまったのである。
   本のページを捲りづらくなったり、プラスチックの袋を開けにくくなったり、・・・とにかく、指紋の有り難さを思い知った。
   それから、もう一つ、最近感じ始めたのは、髪の毛の伸びが異常に遅くなったことで、これまでのように頻繁に散髪屋へ行かなくなったこと。
   しかし、不思議なもので、白い髭だけは今までのように伸びるので、孫娘の幼稚園の送り迎えの関係上剃り続けている。

   しかし、やはり、一番気になるのは、「頭の老化」。
   先に引用した帚木 蓬生 著「老活の愉しみ」では、
   歳を取ると第一の変化は、知能の低下で、加齢につれて低下するのは、単純な記憶と動作記憶で、知識や一般常識、判断力は、高齢になっても維持される。
   第二の変化は、記憶で、最も低下しやすいのは、展望記憶(これからやるべきことや予定の記憶)エピソード記憶(出来事の記憶)、時間順序記憶で、逆に、意味記憶(単語を聞いて意味を引き出す記憶)、手続き記憶(手や身体が覚えている記憶)過去の記憶は、老化による影響を受けにくい。ということである。
   難しいことはともかく、記憶力が著しく衰えたのは身に染みていて、ほんの少し前の出来事でも忘れてしまうし、人の名前など中々思い出せないし、人との会話で、「あれ、あの、あれだよ」と言う表現が多くなった。
   逆に、過去のことは良く覚えていて、忘れていた嫌な記憶ばかり頭に浮かんできて、苦痛を感じることが多い。
   尤も、私の場合、若いときから物忘れが激しかったので、今も同じだと言うことで、それ程心配はしないことにしている。

   自分の判断で何だが、このブログも適当に書き続けているし、かなりの程度の専門書にも対峙できるし、少し前の頭のMRI検査で、先生から問題ないと太鼓判を押されたので、認知症の心配はないと思っている。
   とにかく、日々是好日、健やかに暮らせている幸せに感謝あるのみである。
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スティーヴン グリーンブラット 著「シェイクスピアの驚異の成功物語 」(2 当時の劇場)

2020年12月05日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   シェイクスピアで一番興味があるのは、その戯曲が演じられた劇場のことである。
   イギリスで言われていたことで気になったのは、「シェイクスピアを聴く」と言うことで、シェイクスピアを見ると言うことではないということである。

   さて、ロンドンのテムズ川南岸のサザークに、シェイクスピア当時の劇場を彷彿とさせるグローブ座(Globe Theatre)があり、毎年、夏期に、シェイクスピア劇が上演されている。
   この劇場は、映画「恋に落ちたシェイクスピア」の舞台である劇場そっくりで、そのイメージが良く分かるのだが、完全に青天井の劇場であり、ハムレットの漆黒の闇の中で、父王の亡霊の呪いのシーンを観るのも、この太陽が燦々と輝く舞台であって、シェイクスピアの戯曲が素晴らしい聴く文學であったとしても、まさに、聴くというシチュエーションであったのである。

   あれほど、エポックメイキングなシェイクスピアを輩出した黄金期のロンドンでありながら、このような劇場が生まれたのは、ほぼ、この当時のことだと言うから、ギリシャ悲劇や喜劇が演じられたエピダウルスのような巨大な野外劇場や、大規模な競技や猛獣たちとの闘技などの見世物を演じたローマのコロッセオのような野外競技場や円形劇場などの歴史を思うと、芝居小屋である劇場の歴史は、極めて新しいのである。
   

   シェイクスピアが生まれた頃にはイングランドの何処にも独立して存在していなかった劇場は、歓楽地帯が提供してくれる殆どあらゆるもの――踊り、音楽、上達すると面白くなるゲーム、血を見るスポーツ、刑罰、セックスなど――と手を結び、それをネタにしていて、実際、劇的模倣と現実との境界線、一つのお楽しみと別のお楽しみとの堺がぼけることがあって、売春婦は劇場の雑踏で客を見つけ、劇場内の小部屋で事に及んだ。熊いじめなど血腥い俗悪な見世物を演劇とは見なしてはいなかったとしても、エリザベス朝のロンドンでは、動物をいじめることと芝居の上演とは奇妙に絡み合っていて、市当局の怒りを招き、交通渋滞、無為徒食、治安紊乱、公的不衛生を起こすものとして非難されたので、サザックのように、参事会員や市長の管轄外の場所で、芝居が打たれた。と言う。

   しかし、このような見世物小屋とは一線を画した赤獅子座、そして、後のシェイクスピアのグローブ座などの、極めて画期的な新機軸の劇場が生まれてきた。
   シェイクスピアがロンドンに初めて出てきた時に目にした劇場は、グローブ座のような、
   大きな平土間の真ん中に突き出した四角い舞台、そして周りを取り囲む、階段状に成ったギャラリー(回廊)の客席、「平土間客」が立って芝居を観る平土間には屋根がないが、舞台は、絵が描かれた天蓋が屋根のように覆っていて二本の柱で支えられていた。地面からは5フィートの高さの舞台には、落ちないように周りに柵がないので役者は注意する必要があった。舞台の底は、奈落で保管場所と成っていて、舞台に仕掛けられた落とし戸で役者が奈落に消えるときには効果満点であった。舞台奥の木製の壁には登退場のドアが二つあり、背後には小部屋があって役者たちが、カーテンをさっと開けて気色張って登場したり演技効果を上げた。舞台奥、ドアの上には、最高の入場料を払う上客専用の小部屋に分かれた二階席があって、この二階席の中央部分は舞台として利用され、シェイクスピアは、バルコニーや城壁上部の胸壁と言った使い方をしていた。私が観たグローブ座では、楽隊が入って演奏していた。
   手持ちの写真が探せないので、分りやすいように、インターネットの写真を借用すると、
   
   
   

   著者は、「劇場」という名前は、どうしても、ルネサンスという概念にピッタリで、どうしても、古代の円形劇場を思い起こさせるという。
   当然、シアター座は、「ローマの古い異教の劇場を模して」作られたと教会の説教師から攻撃されたと言うことだが、興行師たちは、市当局や教会の管轄が及ばない女王の枢密院管轄地区で芝居をして屈しなかった。

   劇場の説明については、セシル・デ・バンクの「シェイクスピア時代の舞台とその今昔」が詳しい。
   何かを見物するために集まる最も単純な方法は、観るものを取り囲むことである。原始人の「踊場」の円形状やストーンヒンジのような有史以前の寺院の円形がやがてギリシャ・ローマ演技場のような広大な観客席を持つ円形または半円形の劇場に至った。
   中世には、観客は馬の引く屋台の上で演じられる短い宗教劇を車座に成って見物したり、長い奇跡劇はコーニッシュ円形場で演じられ観客は四方から眺めた。
   したがって、当時、テムズ川の南岸の熊いじめの小屋は円形競技場、すなわち、サーカス小屋のような形をしていた。それが、建てやすい八角構造になっていった。
   いずれにしろ、エリザベス時代ロンドンにあった公設劇場は、ギリシャ・ローマ時代の円形演技場の流れを汲んでいるのである。
   
   これらとは一寸違って、私が興味を持ったのは、シェイクスピア時代の田舎の芝居の舞台である。
   旅籠を劇場として使うことがあって、何階か建ての「コ」型の旅籠の開口部に屋根付きの舞台を設えて、旅籠の中廊下部分をギャラリー席、中庭部分を立ち見席にして、公演を行っていたと言うことである。
   これだと、劇場が四角形となるのだが、グローブ座の舞台と雰囲気は殆ど違わないし、この辺りの感覚も面白いと思う。

   私が幼少年期を過ごした、宝塚の田舎では、田舎回りの劇団が、大きな農家の庭先を借りて、縁側を舞台に、庭を客席にして、国定忠治や切られの与三などを見せていたが、あの観劇も懐かしくて良い。

   
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わが庭・・・モミジも心なしか寂しそう

2020年12月04日 | わが庭の歳時記
   わが庭には、かなり大きなモミジが1本植わっていて、この方は、今、紅葉の最盛期である。
   褐色がかった赤一色のモミジなので、野村かなにか、その種類は分らないのだが、結構、存在感を主張している。
   しかし、今年は、コロナで、紅葉を愛でる人の姿も少なくなって、可哀想である。
   

   他のモミジ数本は、6年ほど前に植えたので、まだ、小木で、この方は、やっと、紅葉し初めた段階である。
   気温が、5~6℃以下に下がると紅葉するようだが、この鎌倉では、まだ、連続して、この最低温度を保つところへは行っていない。
   まだ色づきし始めたところなので、真っ赤に燃えるように鮮やかに紅葉する獅子頭は、まだ、木の上部から徐々に紅葉してきたところである。
   まだ、1.5メートルくらいだが、葉が小さくて華奢なので、風雨や寒さに弱くて、真っ赤に色づくのは、影の部分となろう。
   
   

   もう一つのモミジは、鴫立沢。
   このモミジも、寒さに晒される外縁から色づいており、葉が痛んでいて、可哀想である。
   去年は、紅葉以前に、殆ど葉が落ちてしまったので、今年は、水不足を避けるために、意識して水やりを続けていた。
   まだ、無傷の葉を維持している枝が残っているので、どのように紅葉するのか、楽しみにしている。
   
   

   先日、庭師に入って貰って、大幅な剪定をして貰った。
   落葉樹が枯れ葉を落として明るく成ったところに、バサバサ、常緑樹を剪定したので、かなり、鬱蒼としていた庭が、一気に明るく成った。
   それは良いのだが、椿はそれ程触られなかったのだが、私が数年前に植えて、成長を楽しみにしていた柿の錦秋や秋咲きの桜エレガンスみゆきなど、半分以上も、バッサリと切られてしまった。
   任せると言ったので、仕方がないのだが、よく見ておいて希望を言えば良かったと後悔している。
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コロナで巣籠もり生活10ヶ月

2020年12月03日 | 生活随想・趣味
   もう、師走、しかし、コロナウイルス騒ぎは、益々急を告げており、休息の気配さえない。
   2月下旬から怪しくなって、外出を控えて巣籠もり同然の生活に入ってから10ヶ月になる。

   一線を離れて悠々自適の生活に入っていると、それ程変化がないはずなのだが、何故か、生活習慣というか生活感覚がかなり変ったような感じがしている。
   まず、大きく変ったのは、電車やバスで外出することがなくなって、精々出かけて行くのは、大船くらいまでで、頻繁に行っていた東京や横浜にさえ出かけなくなった。
   従って、毎月、何回か東京へ出かけて、観劇やコンサートを楽しむと言ったことがなくなって、チケットを反故にしたり、その後、年末までは総て諦めようと決めてからは、チケットの手配は止めている。
   不思議なもので、月初めに、翌月の公演のチケットを取得するために、発売日の朝10時に、パソコンを叩いて、席の争奪戦に加わる必要もなくなって、焦ることもなく、至って平穏である。
   最近では、HPを開けることもなくなり、国立劇場の月刊誌あぜくらや歌舞伎座のほうおうさえ、開くこともなくなったので、何を公演しているのかさえ分らない。
   日経新聞の劇評で、ああそうか、といった感じである。
   クラシックコンサートは、都響の定期公演の会員だけなのだが、2020年度は、総て予約したチケット公演はキャンセルされて、その後実施された公演は、席数を減らしての再予約なので、結局、全部パーである。
   映画館にも行くのを控えているので、METライブビューイングも観る機会がないので、いずれにしろ、外出しての芸術鑑賞は、最近は全くなくなっている。
   この調子だと、年初の数ヶ月は無理であろうから、当分、観劇で焦ることもなかろうと思っている。

   そうかと言って、苦痛を感じているかと言うことだが、それが日常になって、年末まで諦めようと決めると、何の抵抗もなく慣れてしまっている。
   劇場へ行きたいと思わなくなっているのである。

   これまでに、オペラやクラシック演奏は勿論、能狂言、歌舞伎文楽、落語等、NHK BSPやWOWOW などから、膨大な録画をしているので、超一流の舞台鑑賞には事欠かない。
   現実的には、今現在、劇場へ通うよりも、遙かに水準の高い舞台を選択できるので、テレビでは小画面で臨場感に欠けるが、書斎で、新しいパソコンの4K画面では多少画像が良くなるのかどうかは分からないが、ハイレゾ音響で視聴すると、それなりに、高度な観劇気分を楽しめる。

   もう一つ、外出制限で、ままならないのは、近場の鎌倉湘南程度の散策さえ、出不精になってしまったことである。
   バス一つを乗り継げば、鎌倉市内なら何処へでも間単に行けるのだが、まず、大船フラワーセンターから歩き始めようかと思っている。

   買い物は、今まで以上に、ネットショッピングに頼るように成ってしまった。
   本一冊買うにしても、大船に行かなければならないし、それも大型店ではないので、いきおい、アマゾンなどネットに頼らざるを得ない。
   若い頃と違って、新しいものを探して買うというのではなく、分りきった日常品を買うことが多いので、ネットショッピングの方が世話がないということもある。

   さて、それでは、毎日、暇を持て余して、だらだらしているのかと言うことだが、正直なところ、時間がないほど焦っている。
   簡単な話、テレビだが、NHK BS1の8時のキャッチ!世界のニュース、22時の国際報道2020ほかの國際ニュース視聴で二時間、日経新聞を読み、ネットでNYTやWP、ロイター、ニューズウィークその他の記事をチェックするのに二時間、このブログを書くのに二時間、他のテレビを見たり庭仕事をしたりパソコンで調べ物をしたりしているとどんどん時間が経ち、それに、体調維持のための散歩と、残りの余暇を読書に当てているつもりが、中々思うように本が読めないと言うのが実情である。
   買い溜めた膨大な本が、読んでくれ読んでくれと尻を叩くのだが、自分でも、、あれが読みたいこれが読みたいと焦る毎日でもある。

   80の手習いというところだろうが、だんだん、終幕に近づきつつある命が、やっと、惜しくなってきた。
   
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スティーヴン グリーンブラット 著「シェイクスピアの驚異の成功物語 」(1 学卒俊英と切磋琢磨)

2020年12月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   シェイクルピアについては、記録が少なくて謎の部分が多いのだが、この本は、シェイクスピアの30数作品の戯曲と絡ませて推敲を重ねながら成功物語を綴っているので非常に面白い。
   私の場合は、在英5年間に、小田島雄志教授の翻訳本を片手にして、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーやロイヤル・ナショナル・シアタ―に通って、多くのシェイクスピアの舞台を鑑賞してきたので、かなり、細部にわたっても理解し楽しむことが出来た。
   著名なシェイクスピア学者スティーヴン・ グリーンブラット・ハーバード大教授の著作で、河合洋一郎東大教授の翻訳・解説という600ページに及ぶ大著なので、纏めてレビューというのも恐れ多いので、興味を感じたトピックスについて、感想を書いてみたいと思う。

   私の関心事の一つは、それほど高度な教育を受けたとも思えない田舎者のシェイクスピアが、どうして、歴史上最高峰の戯曲作家となりえたのかの言うことであった。
   この本を読んでも、まだ、定かには分らないのだが、興味を感じたのは、当時のロンドンに、文学界のメディチ・エフェクトが現出されていたという指摘である。

   ”フィレンツェで十数人の素晴らしい画家が一度に現れたように、あるいは、ニューオーリンズやシカゴで一時的にジャズやブルースのミュージシャンが次々に出てきた数年間があったように、魔法の瞬間に一斉に現れた、当時、ロンドンの舞台のために戯曲を書いていた多くの「詩人」が出て、”シェイクスピアは、彼らに会ってインスパイアされたと言うのである。
   ルネサンスを開花させた文化文明の十字路メディチ家のフィレンツェのように、
   16世紀後半のロンドンには、純粋な発生学的偶然が働いて、都市人口の異常な増加、公衆劇場の出現、新作劇を競う市場の存在、識字率の広範囲に及ぶ躍進的拡大、修辞的感性を高める教育制度、鑑賞を好む社会的政治的趣味、長く複雑な説教を聞く教区民に強いた宗教文化、活発で止むことを知らぬ知的文化といった制度的、文化的状況が生まれていた。
   豊かな演劇を生み育むエコシステムが醸成されていた。と言うことである。
 
   それに加えて、教育制度が既存の社会制度より先に進んでいたので、高等教育を受けても、教会や法律の仕事に就きたくない人は、自分で仕事を探さねばならず、高度な知的人間の進路は非常に限れれていたので、不名誉とされてはいたが、演劇界は手招きしていた。
   したがって、クリストファー・マーロウなどと言ったオックスフォード大学やケンブリッジ大学を出た多くの俊英が、シェイクスピアの周りに犇めいていて、少なくとも6人のオックスブリッジ卒の俊英がシェイクスピアに関わり影響を与えた。

   1580年代後半に、シェイクスピアは、偉大な才能を持ったマーロウなど、20代から30代後半の彼らの仲間に入り、大いに啓発され、神話や古典、故事など知識情報や創作のネタを仕入れるなど教えられることが多かった。
   これら学識豊かで才能のある先輩劇作者たちに、新米のシェイクスピアは当然大いに興味を持って、魅了され、それに、彼らは既に創作のネタとして生涯利用させて貰えそうな種々の作品を書いており、しびれるほど感動を覚えた。自分が作家としてスタートを切るときに、仲間とすべき連中であり、忘れがたい友達となると言う予感に打ち震えたというのだが、しかし、シェイクスピアにとって最も重要だった存命中のこれら作家たちに、ロンドン到着直後に会ったのは、劇場近くのいかがわしい宿屋であったと言うのである。
   特筆すべきは、ケンブリッジで文学修士を取り、オックスフォードでも学位を取ったロバート・グリーンで、評判の良い紳士の娘と結婚し将来を嘱望されながら、妻の持参金を使い切ると、妻子を捨ててロンドンに出て、大劇作詩人として成功していて、シェイクスピアは大いに影響を受けたのだが、
   その後、グリーンは、学問と才能を破廉恥に鬻ぎ、詐欺師、ペテン師まがいの生活に陥り、骨は梅毒に冒され、際限ない飲酒で体はボロボロ、
   自堕落な放蕩三昧で、悪党のような髪、みすぼらしい格好ながら、見栄っ張りの自慢屋、下品な道化師、新しいファッションを次から次へ真似する軽薄児、
   プロの賭博師の上前をはねる抜け目なさ、誓いは破る、口汚く罵る、道徳のかけらもない、勘定は踏み倒す、
   貞淑な妻を捨てて、愛人の娼婦に私生児を産ませ、その義兄の殺し屋をボディガードに雇い、目上の者に無礼を働き、金が足りなくなると、失礼な小冊子や奇妙奇天烈な劇を書いて、破れかぶれの誹謗中傷をしてみせる。
   グリーンは、友達皆から見捨てられ、飲み会で、酢漬け鰊とライン産ワインを飲み食いした後で、路頭に迷った乞食のように無一文で死んでいったという。

   このグリーンは、「三文の知恵」で、詩人たちに、役者は、「我らの口を借りて話す」「操り人形」だから信用するなとのべ、シェイクスピアに矛先を向けて「一羽の成り上がり者のカラス」とこきおろしている。
   しかし、そこは寛大なシェイクスピアのことで、グリーンをファルスタッフに造りかえて蘇らせるという贈り物をして報いたというから面白い。

   いずれにしろ、あのシェイクスピアのライバルでもあったマーロウも、30才の誕生日を待たずに、居酒屋の勘定をめぐっての喧嘩で、殺されている。

  私は、ロンドンで始めて観たRSCのシェイクスピア戯曲は、最初に成功を収めた「ヘンリー6世」三部作なのだが、ハル王子とファスタッフが、いかがわしい売春宿まがいの飲み屋でくだを巻いている姿が、強烈な印象として残っているのだが、前述したようなグリーンの生き様を考えても、こんな魑魅魍魎が跋扈するロンドンの場末の歓楽街劇場街が、シェイクスピアの学校であったと言うべきか、
  マーロウやグリーンたちと言ったオックスブリッジ卒の俊英たちと、侃々諤々、文学論を戦わせて作劇修行を続けていたのかも知れないと思うと興味深い。

   ところで、英国で最も愛されているキャラクターのファルスタフだが、エリザベス女王もいたく感激して、シェイクスピアに、「彼の恋物語が見たい」と所望したので書いたのが、「ウインザーの陽気な女房たち」。
   ヴェルディの素晴らしいオペラ「ファルスタッフ」が残っていて、野村万作の「法螺侍」も凄い。
   このファルスタフ象は、シェイクスピアの聖地ストラトフォード・アポン・エイボンの大劇場前の広場の片隅で我々を迎えてくれる。
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