この項は、1993年6月のコヴェント・ガーデンのラ・ボエームの観劇記を元にて思い出をつづった雑感録である。
私が、最初に観たボェームは、もう、半世紀以上も前になるが、会社へ入社した直後に、大阪から東京へ出張の機会があって、丁度来日していたイタリア・オペラを東京文化会館に出かけて観た時である。
夜の会食を蹴って直行したので、少し高かったが、偶々、良い席のチケットが残っていた。クラシック・ファン駆け出しであったが、魅力的なベル・カントのアリアの数々、美しい舞台などに感激して、その後の長いオペラ鑑賞行脚の先駆けとなった。何故か、第二幕目で、可愛い一寸おきゃんなマルゲリータ・グリエルミが、ムゼッタのワルツを歌っていたのだけは覚えている。
その後、米国留学中に、ボェームは、メトロポリタン歌劇場でパバロッティの舞台を、そして、パリ出張中にオペラ座で観る機会があり、その後、METやロイヤルで再度観ており、METのフランコ・ゼフィレッリの華麗な舞台が、印象に残っている。
さて、このロイヤル・オペラの舞台だが、ロドルフォがJ・ハードレー、ミミがD ・リーデル、マルチェルロがT・ハンプソン、ムゼッタがK・マッティラ。
特に印象的だったのは、マッティラのムゼッタで、少しグラマーでおきゃん、それに、コケティッシュな役柄を器用に歌っていたので、全くイメージチェンジというかビックリした。
METで、あの凄いミミ歌いのレナータ・スコットのムゼッタにも感激していたのが、私には、ミミより、ムゼッタの記憶の方が多い。
その前に、マッティラは、ロイヤル・オペラで、モーツアルトの「フィガロの結婚」の伯爵夫人や「魔笛」のパパゲーナやワーグナー「ローエングリン」のエルザの舞台を観ており、フィンランド人のソプラノで、特に美人というわけではないが、愛くるしくて、清楚な感じの素晴らしい歌手で、ロイヤルの至宝であった。
その後、METで、「マノン・レスコー」のマノン、METライブビューイングで、「カルメル会修道女の対話」のクロワシー夫人/修道院長を観ており、このブログで書いているが、マッティラは、演技力は抜群で、モーツアルトも歌いプッチーニも歌い、そして、ワーグナーも歌え、これほど天性のオペラ歌手としての素質を備えた歌手は稀有だと思っており、クロワシー夫人/修道院長に接したときには、その健在ぶりを観て感激した。
METのヴォルピー支配人が、「史上最強のオペラ」の中で、最も魅惑的な舞台人間だったソプラノ歌手が二人居るのだがと言って、テラサ・ストラタスと、このマッティラの名前をあげている。面白いのは、ついでに、彼は、「サロメ」での全裸スタイルの一こまでのマッティラを語っていて、リハーサル途中でのニューヨークタイムズ・カメラマンのワン・ショットに逆上したが、TVでは、かたいフィンランドの家族を押し切って、無修正で放映させたと言う。
話が飛んでしまったが、カリタ・マッティラを語りたくて、筆が滑ってしまった。
この舞台の第一幕と第四幕は、」カルチェラタンの屋根裏部屋。
上手くセットが作られていて、四人の芸術家の貧しい住まいが彷彿としてくる。画家のマルチェルロが絵を描いているシーンでは、美しいヌード・モデルが背を向けて座っている。
余談だが、コヴェント・ガーデンの舞台では、時々、ハッとするようなヌードが登場する。ボロディンの「イーゴリ侯」のヌード姿の群衆、「ドン・ジョバンニ」では、全裸のドンナ・アンナの侍女を食卓の上に上向けに寝かせて沢山の果物を載せてみたり,前に紹介した「サロメ」で、マリア・ユーイングの全裸の7枚のヴェールの踊り・・・。こんな時には、無理して(?)、双眼鏡を外す。
第二幕は、賑やかなパリの繁華街で、その街頭とレストランのざわめきが、狭い舞台に凝縮されている。
第三幕は、町外れの公園の鉄格子と門の外側、左手に小さな居酒屋があり、雪がしんしんと降っているシーンで、二組の男女の別れを情感たっぷりに演じるには格好の寂しい舞台。
ジュリア・トレヴェイアン・オマンと言う女流デザイナーのセットで,クラシックながら実にリアル、そして、繊細で温かみさえ感じさせてくれる雰囲気が感動的である。
この口絵写真のMETのゼフィレッリの華麗な舞台は、2018年のMETライブビューイングでも使われているMETの定番舞台だが、少し、印象が違うのだけれど、ロイヤルの舞台も、忘れがたい公演であった。
とにかく、プッチーニ節に酔いしれる、華麗ながら一寸悲しいしんみりと心に響くオペラで、オペラを観て聴いたと言うことを本当に実感できる素晴らしい舞台である。
私が、最初に観たボェームは、もう、半世紀以上も前になるが、会社へ入社した直後に、大阪から東京へ出張の機会があって、丁度来日していたイタリア・オペラを東京文化会館に出かけて観た時である。
夜の会食を蹴って直行したので、少し高かったが、偶々、良い席のチケットが残っていた。クラシック・ファン駆け出しであったが、魅力的なベル・カントのアリアの数々、美しい舞台などに感激して、その後の長いオペラ鑑賞行脚の先駆けとなった。何故か、第二幕目で、可愛い一寸おきゃんなマルゲリータ・グリエルミが、ムゼッタのワルツを歌っていたのだけは覚えている。
その後、米国留学中に、ボェームは、メトロポリタン歌劇場でパバロッティの舞台を、そして、パリ出張中にオペラ座で観る機会があり、その後、METやロイヤルで再度観ており、METのフランコ・ゼフィレッリの華麗な舞台が、印象に残っている。
さて、このロイヤル・オペラの舞台だが、ロドルフォがJ・ハードレー、ミミがD ・リーデル、マルチェルロがT・ハンプソン、ムゼッタがK・マッティラ。
特に印象的だったのは、マッティラのムゼッタで、少しグラマーでおきゃん、それに、コケティッシュな役柄を器用に歌っていたので、全くイメージチェンジというかビックリした。
METで、あの凄いミミ歌いのレナータ・スコットのムゼッタにも感激していたのが、私には、ミミより、ムゼッタの記憶の方が多い。
その前に、マッティラは、ロイヤル・オペラで、モーツアルトの「フィガロの結婚」の伯爵夫人や「魔笛」のパパゲーナやワーグナー「ローエングリン」のエルザの舞台を観ており、フィンランド人のソプラノで、特に美人というわけではないが、愛くるしくて、清楚な感じの素晴らしい歌手で、ロイヤルの至宝であった。
その後、METで、「マノン・レスコー」のマノン、METライブビューイングで、「カルメル会修道女の対話」のクロワシー夫人/修道院長を観ており、このブログで書いているが、マッティラは、演技力は抜群で、モーツアルトも歌いプッチーニも歌い、そして、ワーグナーも歌え、これほど天性のオペラ歌手としての素質を備えた歌手は稀有だと思っており、クロワシー夫人/修道院長に接したときには、その健在ぶりを観て感激した。
METのヴォルピー支配人が、「史上最強のオペラ」の中で、最も魅惑的な舞台人間だったソプラノ歌手が二人居るのだがと言って、テラサ・ストラタスと、このマッティラの名前をあげている。面白いのは、ついでに、彼は、「サロメ」での全裸スタイルの一こまでのマッティラを語っていて、リハーサル途中でのニューヨークタイムズ・カメラマンのワン・ショットに逆上したが、TVでは、かたいフィンランドの家族を押し切って、無修正で放映させたと言う。
話が飛んでしまったが、カリタ・マッティラを語りたくて、筆が滑ってしまった。
この舞台の第一幕と第四幕は、」カルチェラタンの屋根裏部屋。
上手くセットが作られていて、四人の芸術家の貧しい住まいが彷彿としてくる。画家のマルチェルロが絵を描いているシーンでは、美しいヌード・モデルが背を向けて座っている。
余談だが、コヴェント・ガーデンの舞台では、時々、ハッとするようなヌードが登場する。ボロディンの「イーゴリ侯」のヌード姿の群衆、「ドン・ジョバンニ」では、全裸のドンナ・アンナの侍女を食卓の上に上向けに寝かせて沢山の果物を載せてみたり,前に紹介した「サロメ」で、マリア・ユーイングの全裸の7枚のヴェールの踊り・・・。こんな時には、無理して(?)、双眼鏡を外す。
第二幕は、賑やかなパリの繁華街で、その街頭とレストランのざわめきが、狭い舞台に凝縮されている。
第三幕は、町外れの公園の鉄格子と門の外側、左手に小さな居酒屋があり、雪がしんしんと降っているシーンで、二組の男女の別れを情感たっぷりに演じるには格好の寂しい舞台。
ジュリア・トレヴェイアン・オマンと言う女流デザイナーのセットで,クラシックながら実にリアル、そして、繊細で温かみさえ感じさせてくれる雰囲気が感動的である。
この口絵写真のMETのゼフィレッリの華麗な舞台は、2018年のMETライブビューイングでも使われているMETの定番舞台だが、少し、印象が違うのだけれど、ロイヤルの舞台も、忘れがたい公演であった。
とにかく、プッチーニ節に酔いしれる、華麗ながら一寸悲しいしんみりと心に響くオペラで、オペラを観て聴いたと言うことを本当に実感できる素晴らしい舞台である。