石原慎太郎氏が冴えてきたようだ。わけのわからない新党などに手を出して転びそうだったが、ぐっと持ちこたえた感じだ。
憲法破棄を称えている。結構である。だが、新しい憲法を作ると言う。これは?どうかな?無駄じゃないか。
日本人にとって憲法とは、汚いベベを隠す美衣(ベベ)である(広辞苑参照、老婆心ながらベベについての語釈については)。
少なくとも伊藤博文などが考えたのは、文明開化したならふんどしじゃやっていけない。西洋人のようにきれいなおべべをきせなきゃ馬鹿にされる。と憲法を作ったことは明瞭である。ある意味、目的意識がはっきりとしていた。方便として割り切っていた。そこが明治維新の推進者の偉いところだ。
ようするに憲法も鹿鳴館のダンスパーティの延長線上にあったわけだ。
憲法神格化(バイブル化)は山県有朋あたりの工夫だろう。それに国民はひっかかった。敗戦で明治憲法の美文は破棄されたが、「新憲法」でも神格化、バイブル化は引き継がれた。それが最大の弊害。橋下徹流にいえばぶち壊すべき最大の敵だ。
下世話にも言う、「神を替えるのはやさしいが、神を捨てるのは難しい」、と。
もっとも山県にとっても大衆対策としての方便にすぎなかったが、彼の後の人間にはそんなことを分からなかった。憲法を物神化してしまった。その辺がポン人の平均値だ。
何にも分からずに、「憲法違反だ」と決めつけるのが葵の印籠化している。民度が低いね。
バイブルというのは、与えられたものだ。キリスト教徒が作ったものではない。ということになっている。実際は初期教父たちが権力闘争を繰り返して編纂したものだが、キリスト教徒には神の子(キリスト)の言行録ということになっている。不可侵、不磨の大典である。
ポン人の新(今さら新でもないが)憲法を押し頂くこと青眼人の聖書を仰ぎ見るが如し。