創世記はキリスト教とユダヤ教の聖典である(おそらくイスラム教の聖典でもあろう)。第二十二章に、エホバはアブラハムにその愛する独り子のイサクを我のためにいけにえとして焼けと命じた。アブラハムは命じられたとおり、指定された地にイサクを連れて行き、イサクを縛り刀で殺そうとしたときに、天から声あり。汝の信仰は分かった。自分の子供を殺すな、と止めた。アブラハムが後ろを見ると藪にいけにえ用の子羊がつながれていた。アブラハムはそれをいけにえとして薪の上にのせて焼いた。
新興宗教は信仰心を試すために極端な犠牲を信者に強いることが多い。真の宗教と邪教、金儲け宗教との違いは最後に人倫に反する行為を中止させるかどうかである。統一宗教で家庭を破壊するようなむちゃくちゃな献金を要求するのも同じことだろう。しかし、違うのは最後の段階で「よし分かった。もうよい」の一言がない。
信者の家庭が破壊されようが、崩壊しようが構わない。無茶苦茶な要求を際限なく繰り返す。サタンの仕業としか言いようがない。
もう一つ言えるのは、新興宗教では極端な階級制度があることだ。信者同士を献金を競わせる。それにつれて教会内の地位があがり、教祖との距離が縮まる。いったんはまり込むと教会内の昇進のみが教徒の頭を占領する。とくに、ポイント集めに狂奔するような性癖を持つ、おばさんたちは教徒変じて狂徒となる。山上家もそうだったのではないか。