東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

東条英機と中野正剛

2005-08-08 11:26:16 | 東条英機
江戸時代、心中に失敗したものは日本橋のたもとに何日か手鎖
をはめられてさらし者にされたという。その後、女は吉原に売
られ、男は無宿者になったとか。

武士が切腹に失敗した場合の掟は武家法度にあったであろうか。
あるまい。武士が切腹に失敗するなどという事態は考えられな
かったに違いない。

それが幕府や藩の命令である場合には検死役が派遣されること
が多い。介錯という習慣もあった。しかし、自分の意思で、様
々な理由で自裁する場合でも武士が一旦自分で決めたことで失
敗するなどということはありえないことであった。諌死という
こともある。厳しい監視のなかで自決を決意することもある。
介錯など期待できない場合もある。

この精神は昭和時代にも生きていたようだ。昭和18年に衆議
院議員の中野正剛が自決した。彼は朝日新聞記者から政治家に
なった人物であるが昭和18年1月1日の朝日新聞に寄稿した
「戦時宰相論」が当時の東条英機首相を激怒させたという。内
容を見るとそんなに激しい内容ではない。東条はすこしでも自
分の政策に意見を述べるものは排除したという。記事にはむし
ろわざと韜晦していたずらに刺激しないような配慮も見られる。

個人的に好き嫌いが激しく、自分に反対する人物を召集して激
戦地に送るというのは東条が酷愛した手法であるという。毎日
新聞記者が「竹槍では勝てない。飛行機だ」という記事を書い
たというので、その記者を招集して玉砕が予想された硫黄島に
二等兵として送ろうとした。その記者は37歳と言う高齢で当時
の戦局では大正時代の老兵は一人も招集されていなかった。

さて、中野正剛であるが、東条は倒閣運動を画策したと言う理
由で憲兵に彼を逮捕させて屈辱的な取調べを行わせた。中野正
剛は数日後保釈されて自宅に戻ったが、東条は彼に自殺されて
は大変と自宅にまで刑事を派遣して寝室のとなりで監視させた。
東条としては、中野に逮捕という屈辱を与えて、惨めに生き続
けるのを世間に見せることが世間に対する牽制になって一番良
かったのである。

ところがである。中野正剛は釈放された夜、自宅寝室で見事に
抗議の自決をし遂げたのである。日本家屋であるから刑事が寝
ずの番で見張っている隣室との間にはふすましかない。ほとん
ど防音の効果はない。その敏腕の刑事も朝まで自決したことに
気がつかなかったという。民間人にしてこの覚悟である。自決
がいいと言っているのではない。武士的道徳で辱められたら自
決すると決めたからには、いかに厳重な監視下であっても抜か
りなく、しおおせるという覚悟のことをいっている。

中野正剛の葬儀には、東条の妨害にもかかわらず、大変な数の
参列者が集まったという。









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