輸入非加熱製剤の危険性を知りながらも、生産中止命令を出さずエイズを発症させ2人を死亡させたとして、松村元厚生省課長に有罪が確定した。何かを行ったのではなく行わなかった官僚の「不作為」に対する、積極的な司法からのおとがめは初めてのことである。
これで薬害エイズ事件にかかわるすべてが結審した。日本人は忘れ易い。あれほど騒いだ薬害エイズ事件であるが、その後の肝炎問題では、ほぼ同じことが繰り返された。繰り返したのは官僚である。
解っていながら、情報を開示しなかったのは、自らと厚生労働省組織に責任が及ぶからである。そのための隠ぺい工作体質は、今も引き継がれている。
これまで官僚は過失を問われないのが通例であた。いわゆる官僚の「無謬性」に守られ、その過失を今まで問われることはなかった。
今回の結審の意味するところは大きいはずである。滝川市の生活保護者に、2億円の大金を給与したのに、書類は整っていて市側に過失はなかったと、市長自身が発言している。
恐喝を受けていたのがなければ、非常識の極致である。金額など関係ない書類の世界にいるから、現実を直視できないのである。お役人の感覚は、そんなところにある。
書類の印鑑がずれているとか、書類が去年のだから書き直せだとか、内容的に何の問題もないのに単なる威厳と権威の見せつけなど何度も受けた経験がある。
通常一般社会では当然責任を負わなければならないような場面でも、お役人は瑕疵が問われることがない。こんないのように、はっきりしていて人命にかかわることなので下されて判決であろう。
我が国の、農業をここまで落としめた責任は誰かにあるはずである。政治家にもあるだろうが、官僚の作為である。さまざまなな公害も、お役人の作為である。いずれにしても彼らの過失は問われことがない。