光市の母子殺害事件は、心痛む事件である。この事件は、穏当にこれまでの判例を踏襲すれば、どう見ても無期懲役と思われる事件である。
被害者の主人がきわめて弁の立つ人であったことから、マスコミは一斉に彼を支援し始めた。被害者の権利の問題や未成年の問題それに、加害者男性の育った環境やその後の言動も大いに、マスコミを喜ばせるには十分に盛りだくさんであった。
面白おかしく掻き立てるマスコミは、死刑判決を期待させることに終始していた。
死刑を、報復手段として扱っているのである。日本には、赤穂浪士などの仇討を認める思想が、底流にある。また死んでお詫びするというような、割腹思想もある。死刑を報復手段として、大衆を扇動するマスコミには、量刑としての視点がない。
償うということもかなり主観的で、宗教的側面や歴史的、地理的、宗教的な風土も関係して、いまひとつ判然としない。量刑ならば、再犯防止、社会的抑止効果も考慮されるべきである。
1989年12月15日に、国連は死刑廃止条約を批准した。1997年以降、国連人権委員会は「死刑に関する決議」を繰り返している。日本にも死刑廃止を通告している。
1990年死刑を設けていた国は、96か国あったが、現在は54か国に減少している。しかもそのほとんどは執行していないのである。
死刑のもっとも多い国は中国である。推定で2000人以上が死刑を執行されている。次にイランとアメリカとロシアである。これらの国を列挙するだけで、死刑を増やせば、犯罪が減少するというわけではないことが判る。
アメリカの例を出せば、収監されている囚人の7割が、何らかの犯罪経験を持つ再犯者だといわれている。
人は過ちを犯すものである。犯罪においても判決においてもである。国家としておこなう、死刑という殺人も過ちであることも当然ある。人にはどんな状況でも生きてゆく権利がある。国家がそれを断つことを今後も続けることに、大いに疑問を感じるのである。