一昨日NHKのアーカイブス番組、「永六輔の夕焼け紀行」という番組を見た。12年前の、元気な永さんが日本中を飛び回って、夕日にまつわる出来事などを伝える番組であった。永さんは自称”夕焼け評論家”と、夕焼けが大好きで日本中の夕日
の資料を集めている。(写真は根室港の夕焼けである)
同じ日に、野鳥の会の会報が届いた。その中に記事に、”「自然離れ」が進む現代っ子”という記事があった。そこで驚いたのが、都会の子供は日の出日の入りを、一度も見たことのない子どもが53%もいたことである。
一度は見たのが21%であるから、74%つまり4分の3の子供が、日の出日の入りを殆ど見たことがないのである。これには少々驚いた。
古来日本人に限らず、人々は自然を崇め一日の始まりと終わりを感謝する、日の出日の入りはそうした象徴でもあった。都会で閉塞された空間と、コンクリートと鉄によって囲まれた環境しか知らない子供たち、あるいはそうした環境で育った大人に、正常な環境判断ができるのだろうかと、大きな疑問を抱いた。
かつて、川の護岸工事で翡翠(カワセミ)が、巣を作れなくなってしまった。そこで開発する人たちは、穴の開いたコンクリートで巣を提供した。美談として新聞に報じられていた。自然保護でもなんでもないが、翡翠のことを知らない都会人が考えたのであろう。ことの本質(護岸工事)を考えない、何とも妙な話しである。
食糧に対する評価も同じである。なくなれが輸入すればいいと、日の出を見たことにない人たちはきっと考えるであろう。こうした無機質な処で育った人間が、人の命を支える食糧生産を、正常に判断できるだろうか、極めて疑問である。
21世紀の人口増加は、都会で起きると分析されている。田舎は増えない、むしろ減少するとのことである。経済効率は、圧倒的に都会が有利である。
彼らが、多数決を武器に田舎の現状を理解することなく、善意の無理解から不測の破壊を繰り返す現状はさらに拡大することになる。せめて日の入りくらいは、都会でもいいから見て、感動してもらいたいものである。