そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

クリスマスに見る日本人の無節操と寛容性

2016-12-25 | 安倍晋三
昨日はクリスマスイブで今日はクリスマス。クリスマスはキリスト生誕の日、降誕を記念する日なのであるが、日本ではイブにケーキを買って家族で祝っていた慎ましやかな時代もあったが、近ごろは男女が夜を共にし過ごす日のようになっているようでもある。幸せが漂うこうした祝い事はそれもよかろうが、キリスト教の祝い事を乗っ取ってチョコレートを女性が男性に配る日とか、カボチャの中身をくりぬいてとんがった帽子をかぶったりする日などとバカ騒ぎを繰り返す姿は、この国の節度のなさを象徴するようなものである。

中東などのイスラム圏の難民の子供に、クリスマスプレゼントを贈る無知さ加減は、彼らの反感と憤りを呼び起こすばかりである。赤十字が反感を呼び今では星と三日月のマークに置き換えられてもいる。
日本の教育では、世界史を東洋史と西洋史に分けて学ぶことになっている。すっぽり中東史が抜けているのである。十字軍がジュウジクム(1096年)に聖地を奪還するために挑んだと学んだ。が、中東ではキリスト教が侵略してきたという視点を、学ぶことはなかった。
一神教の常として、他教を排斥することで存在を示すしかない。多くの世界史の戦いは一神教同士の戦いといえる。モンゴルは強大な軍事力で世界を制したが、宗教には介入しなかった。そのことが侵略国を、信仰による反発を抑え、関税がなくなったこともあって繫栄させた要因にもなっている。
これに類似していたのが仏教である。地域伝来の宗教や思想に寛容であったため広がったともいえる。分派が生じても大きな戦いはなかった。
一神教には原理主義を貫けば、異教徒に対してあるいは分派に対して、そのような寛容性がない。宣教師はその地の伝統や倫理観を凌駕し、他宗教を抑え、次なる祖国の侵略の先鋒となり手助けをしていた。

年の暮れになると、永六輔が言ったような珍妙な現象が起きても、日本人は気がつかない。クリスマスを祝い、除夜の鐘をきいて仏教の煩悩を払拭し、開けた新たな年を神社で寿ぐのである。この異質な文明・文化・宗教をほとんど無意識に受け入れる日本人の特性が、経済の世界展開を支えそれが故に、世界の国々から異端の目で見られる。
日本人の寛容性は節度のなさとも符合する。イスラム圏で、原爆を落とされ東京空襲などの被害を受けた、アメリカに従順になり”寛容”さを信じることができないというのである。
国家が憲法違反の法律を提案して可決してしまえが、何時とはなく寛容な民族性がこれを容認してします。権力の側もそれを理解し、法案を通すことだけに集中し、時間が解決すると嘯くのである。すでに多くの国民は15ヶ月目に起きていた、反安保の護憲運動の本質すらどこかに追いやった感すらある。原発も消費税も武器輸出も年金も日本人の無節操と寛容性の下で、あらゆる不条理が権力者の意向のままにあるかに見えるのである。
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