沖縄でオスプレイの墜落事故が起きて早速翌日に書いたブログに、お門違いや認識不足のコメントが多くアメリカと日本政府の発表を全幅の信頼を寄せたものが多いことに驚かされる。
有翼垂直離着陸機が戦場などで希望が多く、現在のオスプレイ(Ⅴ-22)に至る機種の開発が始まったのは1970年代とされている。繰り返し繰り返し有翼垂直離着陸機の開発は行われたが、その都度基本方針は見直されとん挫している。そして新たな機種の開発を繰り返す歴史であったといえる。オスプレイが量産されるようになったのは、1994年であるが2000年に死亡事故がありいったん製造と使用が中止されている。
上の左の表であるが、多少の欠陥機であっても繰り返し使用することで、問題点を解消したり小さな箇所の見直しや改良なども含め事故は減少するものである。ところがオスプレイは全く逆に、順調に事故が増えている。しかもランクAの事故が多いのは、オスプレイの器質的な欠陥を物語っているといえる。今回の墜落事故も、Aランクに分類されている。
2011年にアフガニスタンにオスプレイは配備されたが、ほとんど使われてなかったのは異常である。このことについて、オスプレイ評論家のレックス・ソボロ氏は、「オスプレイは実践には使えない」と断じている。実際、アフガニスタンに派遣されたオスプレイが250機であるが飛行時間はたった723時間であった。これに比して、150機しか配備されなかったUHIYヘリコプターは1万6千時間も飛行している。戦場で使えない代物であることが解る。
結局オスプレイは、平時にしか使われることがなく、アメリカ国内では密集地の使用は近隣の住民の意見に配慮して配備すらしていない。日本ならすべての基地が密集地である。
そもそもオスプレイ(Ⅴ-22)の事故は、離着陸時と水平飛行への異動時か水平から垂直に着陸移行する時に起きている。巨大な機体を空中で移動方向を変えることが無理なのである。他国が開発に二の足を踏んでいることや、日本ぐらいにしか売り込めない状況を見ても素人目にはっきりしている。
今回の沖縄の墜落事故も、給油という減速時に起きている。更にに朝日テレビでは、水中のバラバラになった機体に、放射性物質の存在を示すマークを確認している。日本は全くこのことを追及どころか聞くこともできない。アメリカ軍には事故報告でも見られるように、極めて強い日本支配感覚が滲み出ていた。
私はこの事故を喜んでいるのではない。以前に何度も事故は起きますと指摘していたように起きたから、また起きますよと警告しているだけである。そして、また起きますよ。
有翼垂直離着陸機が戦場などで希望が多く、現在のオスプレイ(Ⅴ-22)に至る機種の開発が始まったのは1970年代とされている。繰り返し繰り返し有翼垂直離着陸機の開発は行われたが、その都度基本方針は見直されとん挫している。そして新たな機種の開発を繰り返す歴史であったといえる。オスプレイが量産されるようになったのは、1994年であるが2000年に死亡事故がありいったん製造と使用が中止されている。
上の左の表であるが、多少の欠陥機であっても繰り返し使用することで、問題点を解消したり小さな箇所の見直しや改良なども含め事故は減少するものである。ところがオスプレイは全く逆に、順調に事故が増えている。しかもランクAの事故が多いのは、オスプレイの器質的な欠陥を物語っているといえる。今回の墜落事故も、Aランクに分類されている。
2011年にアフガニスタンにオスプレイは配備されたが、ほとんど使われてなかったのは異常である。このことについて、オスプレイ評論家のレックス・ソボロ氏は、「オスプレイは実践には使えない」と断じている。実際、アフガニスタンに派遣されたオスプレイが250機であるが飛行時間はたった723時間であった。これに比して、150機しか配備されなかったUHIYヘリコプターは1万6千時間も飛行している。戦場で使えない代物であることが解る。
結局オスプレイは、平時にしか使われることがなく、アメリカ国内では密集地の使用は近隣の住民の意見に配慮して配備すらしていない。日本ならすべての基地が密集地である。
そもそもオスプレイ(Ⅴ-22)の事故は、離着陸時と水平飛行への異動時か水平から垂直に着陸移行する時に起きている。巨大な機体を空中で移動方向を変えることが無理なのである。他国が開発に二の足を踏んでいることや、日本ぐらいにしか売り込めない状況を見ても素人目にはっきりしている。
今回の沖縄の墜落事故も、給油という減速時に起きている。更にに朝日テレビでは、水中のバラバラになった機体に、放射性物質の存在を示すマークを確認している。日本は全くこのことを追及どころか聞くこともできない。アメリカ軍には事故報告でも見られるように、極めて強い日本支配感覚が滲み出ていた。
私はこの事故を喜んでいるのではない。以前に何度も事故は起きますと指摘していたように起きたから、また起きますよと警告しているだけである。そして、また起きますよ。