60年目の夏と言われている。
20年目の夏、もう20年経ったのだと新聞テレビが報道していたことが遠い記憶にある。
それより先の昭和36年の夏。
その小学校の地域ごとの例年の夏休みの行事に6年生が町内の下級生に紙芝居をするというのがあった。
1年1年繰り上がって6年生だったその年の夏の晩、同級生の家を会場にして、拍子木を叩いて町内の小学生に伝えて回り、紙芝居の会をしたことがある。
その時に読んだ紙芝居の一つに、原爆投下で被害を受けた悲惨な様子を伝えた話があったこと、ケロイドの姿や、列をなして被災者が横たわっている様子を描いた絵が、記憶に残っている。
まだテレビが普及し始めた頃、私達小学生は戦争を知らない世代。その紙芝居作家は、あの地味な色合いの中に衝撃的な赤が入った、暗いものにしかなりようがない紙芝居を私達子供たちのもとに届く紙芝居にもと考えられたのだろう。
その後、新聞やテレビ、本から、そして各地を訪れての知識は増え、被災者のその後の暮らしの重さもその頃よりも想像できる年齢になったけれど、昭和30年代に紙芝居で子供たちに伝えようとしていた作家さんもおられたことを、チョコッと覚えています。
勿論、紙芝居の会ですから他にもいくつも6年生が交替で読んだ筈ですが、他の話はさっぱり覚えていないのです。
20年目の夏、もう20年経ったのだと新聞テレビが報道していたことが遠い記憶にある。
それより先の昭和36年の夏。
その小学校の地域ごとの例年の夏休みの行事に6年生が町内の下級生に紙芝居をするというのがあった。
1年1年繰り上がって6年生だったその年の夏の晩、同級生の家を会場にして、拍子木を叩いて町内の小学生に伝えて回り、紙芝居の会をしたことがある。
その時に読んだ紙芝居の一つに、原爆投下で被害を受けた悲惨な様子を伝えた話があったこと、ケロイドの姿や、列をなして被災者が横たわっている様子を描いた絵が、記憶に残っている。
まだテレビが普及し始めた頃、私達小学生は戦争を知らない世代。その紙芝居作家は、あの地味な色合いの中に衝撃的な赤が入った、暗いものにしかなりようがない紙芝居を私達子供たちのもとに届く紙芝居にもと考えられたのだろう。
その後、新聞やテレビ、本から、そして各地を訪れての知識は増え、被災者のその後の暮らしの重さもその頃よりも想像できる年齢になったけれど、昭和30年代に紙芝居で子供たちに伝えようとしていた作家さんもおられたことを、チョコッと覚えています。
勿論、紙芝居の会ですから他にもいくつも6年生が交替で読んだ筈ですが、他の話はさっぱり覚えていないのです。