朝 トースト、ヨーグルト、イチゴ、コーヒー
昼 カレーライス
夜 ご飯、味噌汁、鰤の塩焼き、ウニ、ホタテのお刺身、タラの芽のピーナツ和え、ほうれん草のお浸し、レタスとトマトサラダ
間食 イチゴ・蜂蜜入りヨーグルト×2回、トースト半切
イチゴは大収穫。コレで半分弱。無農薬です。
今日は自宅。自宅にいると口さびしくて、つい、食べたくなって…、イチゴを飽食。
自宅にいるときぐらいは、で、晩御飯はちょっと贅沢な品々が…。
ウニもワンケースを二人でだから、ウニ、ホタテ丼気分です。
時々読ませてもらっている人気ブログ「内田樹の研究室」に5月19日付記事に
タイトル「父親のかなしみ」の記事があって、
大部の引用をここに。
真新しいことはなにも書かれていないじゃないか。
という、感想が聞こえてきそうですが、
内田教授のいつもの説得される文章です。
学者の分析を経た親子論の類だから、ハウツー子育て書とは、距離がありますが。
ああ、コレは来月の父の日に向けての取材がらみ、なのでしょうね。
以下、引用。
父子家庭で娘を育てた経験からわかったことは「父親」と「母親」の仕事は別のものであり、それぞれ非常にシンプルな役割演技によって構築されているということであった。
「母親」の仕事は子どもの基本的な生理的欲求を満たすこと(ご飯をきちんと食べさせる、着心地のよい服を着せる、さっぱりした暖かい布団に寝かせるなど)、子どもの非言語的「アラーム」をいちはやく受信すること、どんな場合でも子どもの味方をすること、この三点くらいである。
「父親」の仕事はもっと簡単。
「父親」の最終的な仕事は一つだけで、それは「子どもに乗り越えられる」ことである。
この男の支配下にいつまでもいたのでは自分の人生に「先」はない。この男の家を出て行かねば・・・と子どもに思わせればそれで「任務完了」である。
だから、「よい父親」というのがいわゆる「よい父親」ではないことが導かれる。
「ものわかりのよい父親」は実は「悪い父親」なのである。
否定しにくいから。
「愛情深い父親」もあまりよい父親ではない。
その人のもとを去りがたいから。
「頭のよい父親」はさらに悪い。
子どもと論争したときに、理路整然博引旁証で子どもを論破してしまうような父親はいない方がよほどましである。
それよりはやはり「あんなバカな父親のところにいたら、自分までバカになってしまう」というようなすっきりした気分にして子どもで家から出してやりたい(それについて文句を言ってはいけない。自分だって、そう言って親の家から出たのである。父親がそれほどバカではなかったことに気づくのはずっと後になってからのことである)。
言い遅れたが、人類学的な意味での親の仕事とは、適当な時期が来たら子どもが「こんな家にはもういたくない」と言って新しい家族を探しに家を去るように仕向けることである。
これが「制度設計」の根幹部分である。
それができれば親としての仕事は完了。
なまじ親のものわかりがよく、愛情深く、理解も行き届いているせいで、子どもがいつまでも家から出たがらない状態はむしろ人類学的には「機能不全」なのである。
当今の家族論は、家族の存立のそもそもの目的を見誤っているのではないか。
「イニシエーションの年齢に達したら、子どもを家から出して、新たな家族を作るように仕向けること」、それだけが親の仕事である。
自余のことは副次的なことにすぎない。
以上、引用。
父と息子。
うーーん。
大学院博士課程まで修了して、想定外にも職場が親元近くになった息子に対して、「実家に同居は認めない」とのたまった夫(こちらも大学教授)を「冷たい!」といって腹を立てていた友人がいました。
まさしく、上記事案そのもの。せっかく巣立とうとしているのに、ココロを鬼にして…、の判断だったのかも。
昼 カレーライス
夜 ご飯、味噌汁、鰤の塩焼き、ウニ、ホタテのお刺身、タラの芽のピーナツ和え、ほうれん草のお浸し、レタスとトマトサラダ
間食 イチゴ・蜂蜜入りヨーグルト×2回、トースト半切
イチゴは大収穫。コレで半分弱。無農薬です。
今日は自宅。自宅にいると口さびしくて、つい、食べたくなって…、イチゴを飽食。
自宅にいるときぐらいは、で、晩御飯はちょっと贅沢な品々が…。
ウニもワンケースを二人でだから、ウニ、ホタテ丼気分です。
時々読ませてもらっている人気ブログ「内田樹の研究室」に5月19日付記事に
タイトル「父親のかなしみ」の記事があって、
大部の引用をここに。
真新しいことはなにも書かれていないじゃないか。
という、感想が聞こえてきそうですが、
内田教授のいつもの説得される文章です。
学者の分析を経た親子論の類だから、ハウツー子育て書とは、距離がありますが。
ああ、コレは来月の父の日に向けての取材がらみ、なのでしょうね。
以下、引用。
父子家庭で娘を育てた経験からわかったことは「父親」と「母親」の仕事は別のものであり、それぞれ非常にシンプルな役割演技によって構築されているということであった。
「母親」の仕事は子どもの基本的な生理的欲求を満たすこと(ご飯をきちんと食べさせる、着心地のよい服を着せる、さっぱりした暖かい布団に寝かせるなど)、子どもの非言語的「アラーム」をいちはやく受信すること、どんな場合でも子どもの味方をすること、この三点くらいである。
「父親」の仕事はもっと簡単。
「父親」の最終的な仕事は一つだけで、それは「子どもに乗り越えられる」ことである。
この男の支配下にいつまでもいたのでは自分の人生に「先」はない。この男の家を出て行かねば・・・と子どもに思わせればそれで「任務完了」である。
だから、「よい父親」というのがいわゆる「よい父親」ではないことが導かれる。
「ものわかりのよい父親」は実は「悪い父親」なのである。
否定しにくいから。
「愛情深い父親」もあまりよい父親ではない。
その人のもとを去りがたいから。
「頭のよい父親」はさらに悪い。
子どもと論争したときに、理路整然博引旁証で子どもを論破してしまうような父親はいない方がよほどましである。
それよりはやはり「あんなバカな父親のところにいたら、自分までバカになってしまう」というようなすっきりした気分にして子どもで家から出してやりたい(それについて文句を言ってはいけない。自分だって、そう言って親の家から出たのである。父親がそれほどバカではなかったことに気づくのはずっと後になってからのことである)。
言い遅れたが、人類学的な意味での親の仕事とは、適当な時期が来たら子どもが「こんな家にはもういたくない」と言って新しい家族を探しに家を去るように仕向けることである。
これが「制度設計」の根幹部分である。
それができれば親としての仕事は完了。
なまじ親のものわかりがよく、愛情深く、理解も行き届いているせいで、子どもがいつまでも家から出たがらない状態はむしろ人類学的には「機能不全」なのである。
当今の家族論は、家族の存立のそもそもの目的を見誤っているのではないか。
「イニシエーションの年齢に達したら、子どもを家から出して、新たな家族を作るように仕向けること」、それだけが親の仕事である。
自余のことは副次的なことにすぎない。
以上、引用。
父と息子。
うーーん。
大学院博士課程まで修了して、想定外にも職場が親元近くになった息子に対して、「実家に同居は認めない」とのたまった夫(こちらも大学教授)を「冷たい!」といって腹を立てていた友人がいました。
まさしく、上記事案そのもの。せっかく巣立とうとしているのに、ココロを鬼にして…、の判断だったのかも。