2011年の作品。2時間の作品。
「ジェーン・エア」
Netflixで。
2時間の時間があれば視聴できる。
庭めぐりして、本を読んで、映画を見て。
バラの世話が楽しくできて、読みたい本を持っていて、魅きこまれる映像作品に出会える、至福。
■追加して、書いておきたくて■
私は本読み少女ではなかったので、「赤毛のアン」も「ジェーン・エア」も読んでいない。
赤毛のアンは子育て時期に少女雑誌に書き下して連載されていたのをよんだから、話の筋やいくつかのエピソードは知っている。
ジーン・エアのほうは、ブロンテ姉妹のもう一人のほうの作品「嵐が丘」を学生時代映画で見た程度だったのが、後になって、テレビ放映されている「ジェーン・エア」の少しのシーンを見て、あっ、こっちの作者のほうが、、、と興味を持った程度で、あれから数十年(苦笑)という状態でした。
「アンという名の少女」でも思ったのですが、「ジェーン・エア」でも、幼い少女のうちにある芯についてです。
両方に焦点を当てるとピンボケになるようで、アンについて言うと、
不遇だったり、不本意な待遇というのは、嫌というほど体験するのだけれど、でも、自分というものを、これを見失ってはいけない、というものを持っているのです。大人の言うとおりに言うことをきく素直な子じゃなかったりするけれど、ひとつひとつを自分のやり方で生きていくのです。
学校が彼女を助けてくれます。勉強という場が、彼女の力を認めてくれる場になるのですから。もし、公共教育という場がなかったら、家柄の良い子や高級品を持っている子が評価され続けるでしょうね。ギルバートも勉強が楽しいタイプでしたね。よく似た相棒も見つかります。苦笑
勉強の世界はどんどん広がっていく(ものと違って、かさばらない)から、さらに興味が増えていく。知力が増せば乗り越える力も備わってくるのです。
ジェーン・エアも、不遇で理不尽な少女時代を経ます。うそつき、素直じゃない子というレッテルを張られます。寄宿学校を出た後、家庭教師として食べていこうとしたのですから、勉強すること嫌じゃなかった女性なのでしょう。どこー放り出されても、身に付いた勉強は荷物にはならない。
その家庭教師の雇い主と恋仲になるのですが、男性側の特殊事情がアレコレの障害となります。それでも彼女が魅かれていくのですが、きっと原作では、読者を引き込ませる展開、描写があるのでしょうね。映画では時間に制約があるので、こまごまが端折って張るような気がします。描かれているだけのシーンでは、恋に落ちる男性の魅力が伝わってこないから。
そして、並行して、司馬遼太郎の「胡蝶の夢」第3巻を読んでいます。
幕府軍を結成して、長州征伐に向かう時代に入っています。200年余り戦のない世の中でした。身分社会ですから、幕臣と諸大名の家来(陪臣)は身分がまったく違う別物です。親の身分を長男が受け継いでいるだけですから、ちっとも剣の腕が立つわけではありません。身分によって兵○十人を引き連れることとなっても、口入屋を通してにわかにそろえるというありさま。武具は古道具屋でそろえる、とか。これで戦です。江戸時代、藩校が諸藩に作られたけれど、徳川様の江戸には藩校がなかった(向学心が育たなかったのか)。蘭学熱が盛んな幕末でも、身分が決まっているので努力する必要もなかったからか幕臣で蘭学を学ぼうとした最初の人は勝臨太郎だったと。
もやもやと吐き出しましたが、あんなこんなの小片が私の頭を巡っています。苦笑
ページをめくっても(電子書籍だから、指を触れるだけですが)、数ページ前の名前は零れ落ちるのが昨今ですけれど、でも、先人が残してくださった書物をありがたく追いかけています。
映画もいろいろですが、チョイスしていけばいいものに出会えるのでありがたいです。
「ジェーン・エア」
Netflixで。
2時間の時間があれば視聴できる。
庭めぐりして、本を読んで、映画を見て。
バラの世話が楽しくできて、読みたい本を持っていて、魅きこまれる映像作品に出会える、至福。
■追加して、書いておきたくて■
私は本読み少女ではなかったので、「赤毛のアン」も「ジェーン・エア」も読んでいない。
赤毛のアンは子育て時期に少女雑誌に書き下して連載されていたのをよんだから、話の筋やいくつかのエピソードは知っている。
ジーン・エアのほうは、ブロンテ姉妹のもう一人のほうの作品「嵐が丘」を学生時代映画で見た程度だったのが、後になって、テレビ放映されている「ジェーン・エア」の少しのシーンを見て、あっ、こっちの作者のほうが、、、と興味を持った程度で、あれから数十年(苦笑)という状態でした。
「アンという名の少女」でも思ったのですが、「ジェーン・エア」でも、幼い少女のうちにある芯についてです。
両方に焦点を当てるとピンボケになるようで、アンについて言うと、
不遇だったり、不本意な待遇というのは、嫌というほど体験するのだけれど、でも、自分というものを、これを見失ってはいけない、というものを持っているのです。大人の言うとおりに言うことをきく素直な子じゃなかったりするけれど、ひとつひとつを自分のやり方で生きていくのです。
学校が彼女を助けてくれます。勉強という場が、彼女の力を認めてくれる場になるのですから。もし、公共教育という場がなかったら、家柄の良い子や高級品を持っている子が評価され続けるでしょうね。ギルバートも勉強が楽しいタイプでしたね。よく似た相棒も見つかります。苦笑
勉強の世界はどんどん広がっていく(ものと違って、かさばらない)から、さらに興味が増えていく。知力が増せば乗り越える力も備わってくるのです。
ジェーン・エアも、不遇で理不尽な少女時代を経ます。うそつき、素直じゃない子というレッテルを張られます。寄宿学校を出た後、家庭教師として食べていこうとしたのですから、勉強すること嫌じゃなかった女性なのでしょう。どこー放り出されても、身に付いた勉強は荷物にはならない。
その家庭教師の雇い主と恋仲になるのですが、男性側の特殊事情がアレコレの障害となります。それでも彼女が魅かれていくのですが、きっと原作では、読者を引き込ませる展開、描写があるのでしょうね。映画では時間に制約があるので、こまごまが端折って張るような気がします。描かれているだけのシーンでは、恋に落ちる男性の魅力が伝わってこないから。
そして、並行して、司馬遼太郎の「胡蝶の夢」第3巻を読んでいます。
幕府軍を結成して、長州征伐に向かう時代に入っています。200年余り戦のない世の中でした。身分社会ですから、幕臣と諸大名の家来(陪臣)は身分がまったく違う別物です。親の身分を長男が受け継いでいるだけですから、ちっとも剣の腕が立つわけではありません。身分によって兵○十人を引き連れることとなっても、口入屋を通してにわかにそろえるというありさま。武具は古道具屋でそろえる、とか。これで戦です。江戸時代、藩校が諸藩に作られたけれど、徳川様の江戸には藩校がなかった(向学心が育たなかったのか)。蘭学熱が盛んな幕末でも、身分が決まっているので努力する必要もなかったからか幕臣で蘭学を学ぼうとした最初の人は勝臨太郎だったと。
もやもやと吐き出しましたが、あんなこんなの小片が私の頭を巡っています。苦笑
ページをめくっても(電子書籍だから、指を触れるだけですが)、数ページ前の名前は零れ落ちるのが昨今ですけれど、でも、先人が残してくださった書物をありがたく追いかけています。
映画もいろいろですが、チョイスしていけばいいものに出会えるのでありがたいです。