さて、二日目の午後、ようやく本命の『ねむの木学園』に向かう。
前記事の昼食でお腹がいっぱいになっているので、バスの中では睡魔が、、、状態。
学園は街から離れたところでした。
学園と美術館も1キロ離れています。
学園には先客の団体さんがあったので先に美術館へ向かいました。大型バスが周囲の雑木林の緑葉に腹をこすらんかのようにして進んでいきます。
宮城まり子さんの『ねむの木学園』は、ずいぶん以前から聞いていたのですが、ようやく訪れることができました。
昭和43年に浜岡町設立。その後移転して今の場所になったとのこと。
彼女は確か昭和2年生まれでしたから、40歳のころから活動していたのですね。
やさしく、やさしく、やさしく、がモットーだそうです。
誰からも守られることがないということはないよ、ここにおいで、というのが彼女のスタンスなのでしょう。
どんなマイナス条件でも引き受ける、に徹しているように思いました。
ご本人は不在で、直接の話は聞いていません。
学齢期の児童は11名、それ以上の年齢の人が38名。70歳を超える人も。
学園スタート時から現在までという人もいらっしゃるそうです。
学園には宿舎も付随していて、通学の人もいるし、寝泊りも「ねむの木」でという人もいる、という形。
施設開始当時は肢体不自由児には就学の機会を与えたいということでスタートしています。もう50年。ねむの木に触発されて、制度は整えられて来ているように思います。
いろんな授業が企画されているのですが、アートを学ぶより、技能をみにつけたい、という意見の方もおられる、ということも案内の方は伝えてくださいました。
そうなのです。女優でアートティストの宮城さんの感性が学園全体をリードしているので、独創性を大いに評価し、後ろ支えしているモードですが、芸術家として自立の道よりも(『ねむの木学園』というバックボーンが必ず必要な気がします)、技術を身に着けて、社会で間に合うひとになりたい、という人のほうが本音じゃないかと、こっそり思いました。世の中芸術家ばかりでは回っていきませんから。
きっと、これまで宮城さんの資産と女優としての収益の多くを注ぎ込んでこられたのでしょう。建物の普請は立派です。でも、宮城さんの尽力を失うとどうなるのかしら、と思わないでもありませんでした。
90歳でも官庁との交渉ごとは、宮城さんご本人がやっていらっしゃるようです。
宮城まり子ブランドがあるから成り立っている、きっと、無名の後続施設が受け皿になり、持続可能なシステムに持っていくべきなのでしょう。
宮城まり子さんと素敵な子供たち、のユートピアでした。
美術館に展示してある子供たちの作品、素敵でした。
イラスト画として充分ほしくなる作品です。
スカーフになっていたらほしいな、ネクタイがらにしたらいいのでは、そんなことも思いました。
子供たちの絵を企業がカレンダーとして使っているところもあるそうです。
トートバックを1つ買って帰りました。
そういえば、介助犬施設に行った時も、犬のデザイン画のトートバックを購入したことを思い出しながら。
■追加■
『ねむの木学園』のことを考えている。大きなお世話!!かもね。
以下、個人的感想です。
学齢期の子供たちが11名と聞いて、年齢が到達したからと言って退園する人がいないから新規受け入れが困難という状況になってしまうのだと思っていた。
運営責任者の宮城さんご本人の説明はまったく聞いていないし、なかなか直接聞きにくいことだから、外野から見せていただくよりほかないのだけれど、これが自然の流れなのだとおもった。
開設当時から福祉面の変化もあって、昨今は、各地に施設がつくられているのだろう。障害のレベルも多様だから対応も各様になるのだろうけれど。時に悲惨な事件があったのは残念。職員の労働環境、労働条件の問題でしょうか。
社会の中で生きていってほしい、と先日障碍者を持つ母親さんのことばが心に残っています。森の奥にある学園ではなく、当時よりも現在は街から離れていな学園ができているのじゃないか、よくなっているのでは、と思ったりする。
公共からのサポート+障碍者年金や生活保護費に併せて宮城さんのご尽力で運営されているのだとしたら期間有限がある施設になってしまう。施設運営の後継者は育っているのだろうか。
やっぱり、大きなお世話、でしたね。
前記事の昼食でお腹がいっぱいになっているので、バスの中では睡魔が、、、状態。
学園は街から離れたところでした。
学園と美術館も1キロ離れています。
学園には先客の団体さんがあったので先に美術館へ向かいました。大型バスが周囲の雑木林の緑葉に腹をこすらんかのようにして進んでいきます。
宮城まり子さんの『ねむの木学園』は、ずいぶん以前から聞いていたのですが、ようやく訪れることができました。
昭和43年に浜岡町設立。その後移転して今の場所になったとのこと。
彼女は確か昭和2年生まれでしたから、40歳のころから活動していたのですね。
やさしく、やさしく、やさしく、がモットーだそうです。
誰からも守られることがないということはないよ、ここにおいで、というのが彼女のスタンスなのでしょう。
どんなマイナス条件でも引き受ける、に徹しているように思いました。
ご本人は不在で、直接の話は聞いていません。
学齢期の児童は11名、それ以上の年齢の人が38名。70歳を超える人も。
学園スタート時から現在までという人もいらっしゃるそうです。
学園には宿舎も付随していて、通学の人もいるし、寝泊りも「ねむの木」でという人もいる、という形。
施設開始当時は肢体不自由児には就学の機会を与えたいということでスタートしています。もう50年。ねむの木に触発されて、制度は整えられて来ているように思います。
いろんな授業が企画されているのですが、アートを学ぶより、技能をみにつけたい、という意見の方もおられる、ということも案内の方は伝えてくださいました。
そうなのです。女優でアートティストの宮城さんの感性が学園全体をリードしているので、独創性を大いに評価し、後ろ支えしているモードですが、芸術家として自立の道よりも(『ねむの木学園』というバックボーンが必ず必要な気がします)、技術を身に着けて、社会で間に合うひとになりたい、という人のほうが本音じゃないかと、こっそり思いました。世の中芸術家ばかりでは回っていきませんから。
きっと、これまで宮城さんの資産と女優としての収益の多くを注ぎ込んでこられたのでしょう。建物の普請は立派です。でも、宮城さんの尽力を失うとどうなるのかしら、と思わないでもありませんでした。
90歳でも官庁との交渉ごとは、宮城さんご本人がやっていらっしゃるようです。
宮城まり子ブランドがあるから成り立っている、きっと、無名の後続施設が受け皿になり、持続可能なシステムに持っていくべきなのでしょう。
宮城まり子さんと素敵な子供たち、のユートピアでした。
美術館に展示してある子供たちの作品、素敵でした。
イラスト画として充分ほしくなる作品です。
スカーフになっていたらほしいな、ネクタイがらにしたらいいのでは、そんなことも思いました。
子供たちの絵を企業がカレンダーとして使っているところもあるそうです。
トートバックを1つ買って帰りました。
そういえば、介助犬施設に行った時も、犬のデザイン画のトートバックを購入したことを思い出しながら。
■追加■
『ねむの木学園』のことを考えている。大きなお世話!!かもね。
以下、個人的感想です。
学齢期の子供たちが11名と聞いて、年齢が到達したからと言って退園する人がいないから新規受け入れが困難という状況になってしまうのだと思っていた。
運営責任者の宮城さんご本人の説明はまったく聞いていないし、なかなか直接聞きにくいことだから、外野から見せていただくよりほかないのだけれど、これが自然の流れなのだとおもった。
開設当時から福祉面の変化もあって、昨今は、各地に施設がつくられているのだろう。障害のレベルも多様だから対応も各様になるのだろうけれど。時に悲惨な事件があったのは残念。職員の労働環境、労働条件の問題でしょうか。
社会の中で生きていってほしい、と先日障碍者を持つ母親さんのことばが心に残っています。森の奥にある学園ではなく、当時よりも現在は街から離れていな学園ができているのじゃないか、よくなっているのでは、と思ったりする。
公共からのサポート+障碍者年金や生活保護費に併せて宮城さんのご尽力で運営されているのだとしたら期間有限がある施設になってしまう。施設運営の後継者は育っているのだろうか。
やっぱり、大きなお世話、でしたね。