大沢武「脇往還を 梓巫女の行く」(「SOOHA」3、2008年03月15日発行)
ことばが好きな詩人である。それも特別むずかしいことばではなく、だれもが知っていることばを、だれもつかったことのない方法でつかうことが好きな詩人である。
「脇往還を 梓巫女の行く」の冒頭。
真空のいただきに収まる鼓動が
あれた共鳴波形に装飾を求める夕べは
吐く息と経験則が 思考過程の私を指図する
その無機質な警告は 過ぎた日の堆積に群れ入って
分解し熟れて 設問と悔いの構築を
間も与えずに常温で発酵気化してしまう
「思考過程の私を指図する」。この語法が、全体のぎくしゃくした感じを、なぜかすっきりしたものに転換する。あらゆるぎくしゃくが「思考過程の私を指図する」のねじれのなかで鍛えられ、そこをとおることでまっすぐなものにかわるような、不思議な印象がある。
普通に考えるならば、「吐く息と経験則が 私の思考過程を指図する」。吐く息、経験則が思考過程に影響を与える。思考が、吐く息、経験則によって、影響を受ける。「私」とは「思考」である。この場合、「私」(私の)は省略しても、同じ意味である。
ところが、こうした語法をとらずに、大沢は「思考過程の私を指図する」と書く。思考が影響を受けるのではなく、「私」そのものが影響を、「指図」を受ける。「思考」などというものは「私」が生み出す産物であって、それに意味はない。問題なのは、あくまでも「私」である。
「思考」=「私」ではない。「私」は「思考」を超越する何者かである。
「思考」にかぎらないだろうと、思う。大沢の描く「私」はすべてを超越する。すべてを超えて、特権的である。
特権的であることを利用して、だれもつかわなかった語法を駆使する。
これは別のことばで言えば、国語文法への反乱である。暴力である。
詩は、ここにある。
既存の国語文法を否定し、破ること。そのとき、ことばに対して人はどうしても批判的にならざるを得ない。流通していることばをそのまま流用したのでは、流通経路を破壊し、ことばを氾濫させることはできない。
大沢の詩にはことばがあふれているが、それは当然である。文法に対して反乱するとき、ことばをせき止めていたものはなくなる。ことばは氾濫するまるでことば遊びだが、そこに詩がある。
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N極とS極をムササビが移り飛ぶ夜に大沢 武七月堂このアイテムの詳細を見る |