長田典子「五月の庭」、水嶋きょうこ「玉葱」(「ひょうたん」41、2010年06月25日発行)
長田典子「五月の庭」におもしろい行があった。
「背伸びします」「立ち上がります」ではなく、今、芽を出したばかりの植物のように「しゃがみます」。
うーん。
草花の芽は、芽を出すとき、しゃがみはしない。
うーん。
でも、わかるなあ。
芽を出したばかり。その姿は、すっくと立ってはいない。たしかに丸まっている。その植物の芽をまねると、人間のからだはまるくなる。しゃがんで膝を抱えた様子ににているかもしれない。
うーん。
それだけじゃないんだなあ。単なる「形態」の模写ではない。しゃがんだ形は草花の芽に似ているかもしれない。ひとところふくらんだてっぺんは頭だね。その下にはほそいからだがある。ちょっと丸まっている。そして、それは、そこから立ち上がる。
「しゃがみます」と長田は書いているし、実際、しゃがんだ姿もきちんと想像できるのだが、私は、そのあと、長田が立ち上がってくるのを見てしまう。書いてないけれど、読んでしまう。そして、その立ち上がる姿に、伸び上がる姿に、草花(植物)の力を感じてしまう。
「しゃがみます」としか書いていないのに、そして「しゃがみます」を読んだ一瞬は変じゃないと思ったはずなのに、次の瞬間には、納得してしまう。「しゃがむ」「たちあがる」という矛盾したことばが、一瞬の内にひとつづきの運動になって動いている。
うーん。
こういうときだね。うーん、とうなって、あ、これが詩のことばなんだなあと思う。書かれていることばとは違うことばを呼び込んでしまう。「誤読」してしまう。「誤読」なんだけれど、納得してしまう。(作者がどう思っているかではなく、私だけの納得なのだが……。)
*
水嶋きょうこ「玉葱」のことばは、「誤読」しようがないかもしれない。それは水嶋が「誤読」しているからである。「現実」が「流通言語」ではなくて、水嶋語で語られる。どこが違うか--というのは説明が面倒なので、読んでもらうしかない。
おばあさんが玉葱に見える。これは「比喩」だね。そこまでは、わかる。というか、「流通言語」であるかもしれない。「学校教科書」でつかわれている日本語かもしれない。そこから玉葱が熱をもち、根っこをひろげるというのは、「比喩」を出発点として、ことばが独自に動いていく部分だ。
で、それが店頭の「おばさん」であるかぎりは「比喩」、「流通言語の詩」であるといえるかもしれないが。
最後。
「日だまりのような温もり」(これは、微熱を抱え込む、から派生したことばだろう)「と共に白い根っこが指先にそっと絡まりついてくる」。これは、何? いや、何というものではなく、実際に、根っこがからまりついてくるというだけのことなのだが、変に、こわい。水嶋が「おばさん」になっていく。「シチューをつくる」という「日常」をとおして、その「日常」とつながるほかの女と何かを共有し、「おばさん」(水嶋ではない人間)になっていく。
「私が私でなくなる」というのは、あらゆる文学の到達点だが、それを、なんだかよくわからない(あ、文学的ではない、といえばいいのかな?)ことばでつかみとる。「おばさん」になる、玉葱おばさんになるというのは、変な虫になるのと比べるとなんだかおかいしよねえ。しかも、玉葱そのものではなく、根っこ。「玉葱」そのものなら、まだ、「文学的」かもしれないが、「白い根っこ」ねえ。
どこかで、水嶋は「世界」を「誤読」している。
よくよく見ると、最初は「根っこのようなもの」と書いていたが、最後は「根っこ」になっている。「ようなもの」は「比喩(直喩)」であるが、それが「暗喩」になっている。イメージになっている。それは「比喩」ではなく、「比喩」を突き破り、「実在」になっている。
ことばが、その自分で動く力で、「直喩」の「ような」を切り捨てて、飛躍していく。この「ような」を切り捨てた瞬間、「流通言語」は「流通言語」ではなくなる。そして、「誤読」になる。
それは「悪い」意味ではない。「否定的」な意味ではない。「何年も何年も絡まった」何かを「正直」に書こうとすると、「流通言語」では書けないものがある。「流通言語」を切り捨てなければならないことがある。
「流通言語」からずれて、違ったことばを語るしかない。
「誤読」ではなく、「誤語り(誤書)」なのかなあ。それは「誤っている」のだが、その「誤り」のなかに、水嶋でしか語れない「正直」がある。--そういうふうにしかいえない「誤読」。
「世界」を「誤読」するとき(「誤書」するとき)、そのときだけ、人間は「正直」になるのかもしれない。なれるのかもしれない。
「正直」は嫌われる。「現代詩っ、わからない」と敬遠される。でも、「世界」は「誤読」するひとがいないと、平板になる。
長田典子「五月の庭」におもしろい行があった。
鳥が囀っています
若葉が揺れています
ハイヒールの明るい音が通り過ぎます
仔犬の吐く息が聞こえました
遠くを波のように車が走り去っていきます
それら みんなが
五月の庭に反響しています
やわらかい風をからだいっぱいに吸い込みながら
わたしは
今、芽を出したばかりの植物のように
しゃがみます
「背伸びします」「立ち上がります」ではなく、今、芽を出したばかりの植物のように「しゃがみます」。
うーん。
草花の芽は、芽を出すとき、しゃがみはしない。
うーん。
でも、わかるなあ。
芽を出したばかり。その姿は、すっくと立ってはいない。たしかに丸まっている。その植物の芽をまねると、人間のからだはまるくなる。しゃがんで膝を抱えた様子ににているかもしれない。
うーん。
それだけじゃないんだなあ。単なる「形態」の模写ではない。しゃがんだ形は草花の芽に似ているかもしれない。ひとところふくらんだてっぺんは頭だね。その下にはほそいからだがある。ちょっと丸まっている。そして、それは、そこから立ち上がる。
「しゃがみます」と長田は書いているし、実際、しゃがんだ姿もきちんと想像できるのだが、私は、そのあと、長田が立ち上がってくるのを見てしまう。書いてないけれど、読んでしまう。そして、その立ち上がる姿に、伸び上がる姿に、草花(植物)の力を感じてしまう。
「しゃがみます」としか書いていないのに、そして「しゃがみます」を読んだ一瞬は変じゃないと思ったはずなのに、次の瞬間には、納得してしまう。「しゃがむ」「たちあがる」という矛盾したことばが、一瞬の内にひとつづきの運動になって動いている。
うーん。
こういうときだね。うーん、とうなって、あ、これが詩のことばなんだなあと思う。書かれていることばとは違うことばを呼び込んでしまう。「誤読」してしまう。「誤読」なんだけれど、納得してしまう。(作者がどう思っているかではなく、私だけの納得なのだが……。)
*
水嶋きょうこ「玉葱」のことばは、「誤読」しようがないかもしれない。それは水嶋が「誤読」しているからである。「現実」が「流通言語」ではなくて、水嶋語で語られる。どこが違うか--というのは説明が面倒なので、読んでもらうしかない。
駅の近くに、野菜を売っている家がある。門前に机を出し、新鮮な野菜を置いている。男の人はその母親らしきおばさんが、店番に座っていることもある。時々、男の人がおばさんをどなる声が聞こえ、耳について離れない。職場からの帰り道、その家の前を通りかかると、巨大な野菜が置かれていてぎょっとした。よく見ると、おばさんで。野菜よりも静か。薄闇の中、地面を見据え、台の側に座っている。丸まった背中は、闇に潜む大きな玉葱。玉葱はうすうすと溶け出しそうな、微熱を抱え込む。その下の地面には、どこにもぶつけることのできない、何年も何年も絡まった根っこのようなものが深く広がっている。家に帰り、いつものように家族の食事を作った。今日は寒いので、とろとろのシチューをつくろうと思う。包丁で野菜を丁寧に切り刻んでいく。鍋から湯気が上がる。野菜カゴを見ると、玉葱がはいっていたので、持ち上げた。日だまりのような温もりと共に白い根っこが指先にそっと絡まってくる。
おばあさんが玉葱に見える。これは「比喩」だね。そこまでは、わかる。というか、「流通言語」であるかもしれない。「学校教科書」でつかわれている日本語かもしれない。そこから玉葱が熱をもち、根っこをひろげるというのは、「比喩」を出発点として、ことばが独自に動いていく部分だ。
で、それが店頭の「おばさん」であるかぎりは「比喩」、「流通言語の詩」であるといえるかもしれないが。
最後。
「日だまりのような温もり」(これは、微熱を抱え込む、から派生したことばだろう)「と共に白い根っこが指先にそっと絡まりついてくる」。これは、何? いや、何というものではなく、実際に、根っこがからまりついてくるというだけのことなのだが、変に、こわい。水嶋が「おばさん」になっていく。「シチューをつくる」という「日常」をとおして、その「日常」とつながるほかの女と何かを共有し、「おばさん」(水嶋ではない人間)になっていく。
「私が私でなくなる」というのは、あらゆる文学の到達点だが、それを、なんだかよくわからない(あ、文学的ではない、といえばいいのかな?)ことばでつかみとる。「おばさん」になる、玉葱おばさんになるというのは、変な虫になるのと比べるとなんだかおかいしよねえ。しかも、玉葱そのものではなく、根っこ。「玉葱」そのものなら、まだ、「文学的」かもしれないが、「白い根っこ」ねえ。
どこかで、水嶋は「世界」を「誤読」している。
よくよく見ると、最初は「根っこのようなもの」と書いていたが、最後は「根っこ」になっている。「ようなもの」は「比喩(直喩)」であるが、それが「暗喩」になっている。イメージになっている。それは「比喩」ではなく、「比喩」を突き破り、「実在」になっている。
ことばが、その自分で動く力で、「直喩」の「ような」を切り捨てて、飛躍していく。この「ような」を切り捨てた瞬間、「流通言語」は「流通言語」ではなくなる。そして、「誤読」になる。
それは「悪い」意味ではない。「否定的」な意味ではない。「何年も何年も絡まった」何かを「正直」に書こうとすると、「流通言語」では書けないものがある。「流通言語」を切り捨てなければならないことがある。
「流通言語」からずれて、違ったことばを語るしかない。
「誤読」ではなく、「誤語り(誤書)」なのかなあ。それは「誤っている」のだが、その「誤り」のなかに、水嶋でしか語れない「正直」がある。--そういうふうにしかいえない「誤読」。
「世界」を「誤読」するとき(「誤書」するとき)、そのときだけ、人間は「正直」になるのかもしれない。なれるのかもしれない。
「正直」は嫌われる。「現代詩っ、わからない」と敬遠される。でも、「世界」は「誤読」するひとがいないと、平板になる。
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感激です。