池井昌樹「川」(「明日の友」2011年春号)
池井昌樹は最近ひらがなばかりの詩をたくさん書いている。「川」もタイトル以外はひらがなである。この詩にあわせる形で谷川俊太郎が、
と書いている。
谷川の書いていることと重なるが、重なりを承知で感想を書いてみる。まず、全行引用する。
2行目に出てくる「かわのじ」というのは「川の字」、比喩だね。わかりきったことだけれど、そう書かずにいられないのは、最後から2行目の「しらないかわのどこかしら」の「かわ」が「川の字」というときの「かわ」とは違っているからだ。ほんとうに、どこかの「かわ」なのだ。それは「川の字」の「川」にはなれない存在である。「川の字」の「川」はあくまで親子3人の並んで寝ている様子であり、そこには「水」など流れていない。でも最後から2行目の「かわ」には水が流れている。「川の字」、その「川」という比喩が、比喩ではない「かわ」になっている。
いつ、どこで、どうして、なぜ?
これは、わからない。
1行目「そぼをなくしたよるのこと」から6行目「おばさんたちがやすんでおり」というのは、過去の1日のことである。親類が家に集まってきている。池井と両親は2階に寝ていて、親類は1階に寝ている。
そのあと、時間が一気に飛躍する。7行目「そのひとたちもいなくなり」から10行目「だれひとりもういなくなり」は、祖母を夜から以後の日々のことである。「過去」の日から「いま」という日までの時間の経過と、その時間のなかで起きたことが書かれている。
6行目と7行目には「断絶」がある。
11行目「よるはすっかりふけまさり」から15行目までは「いま」が書かれている。そしてその「いま」から祖母が亡くなった日、その「過去」を思っている。過去には父と母がいて、「川の字」になって、池井といっしょに寝ている。そのことを池井ははっきり思い出すことができる。「いま」と「記憶の一瞬」がぴったり重なる。
6行目と7行目のあいだにあった「断絶」、そして7行目から10行目までの「中間的過去」も消え去り、「いま」と祖母の亡くなった「よる」がぴったりかさなる。
その重なりのなかで「川の字」になれない「かわ」そのものがなまなましくよみがえる。「川の字」になって池井は両親と寝たのではないのだ。「かわ」そのものになって、両親といっしょにいたのだ。
「川の字」(漢字)ではなく「かわ」そのものになって、そこにいたのだ。
でも、「かわ」って何? 「川」ではあらわせない「かわ」って何? 水がどこからともなくながれてきて--いや、どこからともではなく、遠いところから着実に流れつづけている。その流れの「いま」に池井はいる。いつでも「流れ」の「いま」にいる。
その「かわ」が「どこ」にあるか、池井は知らない。どことは特定できない。「いま」、その「かわ」があるということはわかるが、それが「どこ」かわからない。どこかわからないというのは、別な言い方をすると「どこ」と特定しなくても、いつでも「ここ」であるからだ。それは「ここ」とは切り離せない「どこ」である。だから「どこ」とはいえないのだ。「ここ」としかいえないのだが、その「ここ」にある「かわ」は、池井以外の人間には見えない。「川なんて、ないじゃないか。布団があるだけの部屋じゃないか」とひとはいうだろう。客観的にはたしかにそうなのだが、池井の「主観」の「いま」「ここ」に「かわ」はあるのだ。「かわ」と呼ぶとき、「かわ」と声にするときに「肉体」にふれてくるすべてものがあるのだ。でも、それを客観的にいうことはできない。「意味」にして語ることはできない。
ひとはいつでも、そういう「矛盾」に陥るものである。
最終行。
ここにも語ることのできない「矛盾」がある。何をなくしたか、池井は知らないのではない。知っている。反語なのである。「君恋し」という歌のなかに「乱るるこころに/浮かぶは誰が影」という行があるが、「誰の影」であるか「わたし」にはわかりきっている。「君」以外のだれでもない。わかりきっているから、それを言わない。言うと悲しくて苦しくなるからである。それと似ている。何をなくしたか知っている。わかりきっている。「こころ」がではなく、「肉体」が知っている。それはことばにまだなっていないけれど、ことばにしなくても知っている。ことば--ことばであることを超越して、知っている。
あえて言ってしまえば「かわ」をなくしたことを知っている。そして、「いま」「ここ」で池井は「かわ」を見つめている。なくしたけれど、あるもの。あるけれどもなくしたもの。それが「かわ」である。そこにはちちはは、そぼとつながる「かわ」を超越したものがある。そういうものに「かわ」という「音」をとおして池井はつながる。「川」という「漢字」ではなく「かわ」という「音」で。池井は、その「かわ」の「音」を聞いている。
池井昌樹は最近ひらがなばかりの詩をたくさん書いている。「川」もタイトル以外はひらがなである。この詩にあわせる形で谷川俊太郎が、
ひらがなばかりで書かれいてると、表意文字の漢字と比べて意味が取りにくくなるので、自然にゆっくり繰り返して読むようになる、おかげで言葉の意味だけでなく、肌触りが感じられるようになります。文字にひそむ声が、日本語に内在する音楽が聞こえてくるのです。
と書いている。
谷川の書いていることと重なるが、重なりを承知で感想を書いてみる。まず、全行引用する。
そぼをなくしたよるのこと
ちちははとかわのじになり
ちちははのおもいがおもわれ
ぼくはこどもにもどっており
ぼくらのしたではおじさんや
おばさんたちがやすんでおり
そのひとたちもいなくなり
いつしかちちもいなくなり
いつでもそばにいてくれた
だれひとりもういなくなり
よるはすったりふけまさり
けれどこどもにもどったまんま
まだねむれないこのぼくは
おててつないでともいえず
おしっこゆきたいともいえず
しらないかわのどこかしら
なにをなくしたかもしらず
2行目に出てくる「かわのじ」というのは「川の字」、比喩だね。わかりきったことだけれど、そう書かずにいられないのは、最後から2行目の「しらないかわのどこかしら」の「かわ」が「川の字」というときの「かわ」とは違っているからだ。ほんとうに、どこかの「かわ」なのだ。それは「川の字」の「川」にはなれない存在である。「川の字」の「川」はあくまで親子3人の並んで寝ている様子であり、そこには「水」など流れていない。でも最後から2行目の「かわ」には水が流れている。「川の字」、その「川」という比喩が、比喩ではない「かわ」になっている。
いつ、どこで、どうして、なぜ?
これは、わからない。
1行目「そぼをなくしたよるのこと」から6行目「おばさんたちがやすんでおり」というのは、過去の1日のことである。親類が家に集まってきている。池井と両親は2階に寝ていて、親類は1階に寝ている。
そのあと、時間が一気に飛躍する。7行目「そのひとたちもいなくなり」から10行目「だれひとりもういなくなり」は、祖母を夜から以後の日々のことである。「過去」の日から「いま」という日までの時間の経過と、その時間のなかで起きたことが書かれている。
6行目と7行目には「断絶」がある。
11行目「よるはすっかりふけまさり」から15行目までは「いま」が書かれている。そしてその「いま」から祖母が亡くなった日、その「過去」を思っている。過去には父と母がいて、「川の字」になって、池井といっしょに寝ている。そのことを池井ははっきり思い出すことができる。「いま」と「記憶の一瞬」がぴったり重なる。
6行目と7行目のあいだにあった「断絶」、そして7行目から10行目までの「中間的過去」も消え去り、「いま」と祖母の亡くなった「よる」がぴったりかさなる。
その重なりのなかで「川の字」になれない「かわ」そのものがなまなましくよみがえる。「川の字」になって池井は両親と寝たのではないのだ。「かわ」そのものになって、両親といっしょにいたのだ。
「川の字」(漢字)ではなく「かわ」そのものになって、そこにいたのだ。
でも、「かわ」って何? 「川」ではあらわせない「かわ」って何? 水がどこからともなくながれてきて--いや、どこからともではなく、遠いところから着実に流れつづけている。その流れの「いま」に池井はいる。いつでも「流れ」の「いま」にいる。
その「かわ」が「どこ」にあるか、池井は知らない。どことは特定できない。「いま」、その「かわ」があるということはわかるが、それが「どこ」かわからない。どこかわからないというのは、別な言い方をすると「どこ」と特定しなくても、いつでも「ここ」であるからだ。それは「ここ」とは切り離せない「どこ」である。だから「どこ」とはいえないのだ。「ここ」としかいえないのだが、その「ここ」にある「かわ」は、池井以外の人間には見えない。「川なんて、ないじゃないか。布団があるだけの部屋じゃないか」とひとはいうだろう。客観的にはたしかにそうなのだが、池井の「主観」の「いま」「ここ」に「かわ」はあるのだ。「かわ」と呼ぶとき、「かわ」と声にするときに「肉体」にふれてくるすべてものがあるのだ。でも、それを客観的にいうことはできない。「意味」にして語ることはできない。
ひとはいつでも、そういう「矛盾」に陥るものである。
最終行。
なにをなくしたかもしらず
ここにも語ることのできない「矛盾」がある。何をなくしたか、池井は知らないのではない。知っている。反語なのである。「君恋し」という歌のなかに「乱るるこころに/浮かぶは誰が影」という行があるが、「誰の影」であるか「わたし」にはわかりきっている。「君」以外のだれでもない。わかりきっているから、それを言わない。言うと悲しくて苦しくなるからである。それと似ている。何をなくしたか知っている。わかりきっている。「こころ」がではなく、「肉体」が知っている。それはことばにまだなっていないけれど、ことばにしなくても知っている。ことば--ことばであることを超越して、知っている。
あえて言ってしまえば「かわ」をなくしたことを知っている。そして、「いま」「ここ」で池井は「かわ」を見つめている。なくしたけれど、あるもの。あるけれどもなくしたもの。それが「かわ」である。そこにはちちはは、そぼとつながる「かわ」を超越したものがある。そういうものに「かわ」という「音」をとおして池井はつながる。「川」という「漢字」ではなく「かわ」という「音」で。池井は、その「かわ」の「音」を聞いている。
池井昌樹詩集 (現代詩文庫) | |
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