110ページから、ことばの調子が一気に変わる。主人公を含む3人が詩の朗読の会場を脱けだし、ストゥピシンは電車の停留所に向かい、ゴドゥノフとコンチェーエフは逆の方向に歩きはじめる。そして、すぐに別れが来る。ひとりは右にひとりは左に。
ここから二人の文学談議がはじまる。そのことばの動きが、とても速いのである。直前のコンチェーエフが「石畳の黒い魅惑について」というような、脇道へ逸脱していくことばとはまったく違ってくる。いや、さまざまなロシア文学のテキストをすばやく横断するのだが、そこには「逸脱」がない。「石畳の黒い魅惑について」というような「過剰なことば」がない。詩がない。かわりに、批評がある。
この二人の対話に、私は、とても違和感を覚えた。
そして、その違和感が、 120ページ、会話の最後でびっくりするような形で終わる。
二人の会話は会話ではなかったのである。ひとりで続けた対話なのである。だからどんなに対立してもそれは会話を加速するためのものである。
これは、「会話」だけについていえることではないのだ。
ナボコフはあらゆる描写を「ひとり」で繰り広げる対話の形で書いているのだ。「会話」の形をとっていないが、そこに書かれていることは「対話」なのだ。ことばと対象とナボコフの間を行き来している。人間が風景について語るだけではない。風景がナボコフの投げかけたことばに対してことばを返してくる--ということをナボコフは描写の中でおこなっているのである。
架空の二人の対話において、どちらがどちらであるかは重要ではない。いれかわってもかまわない。同じように、ナボコフの情景描写においては、それが人間の側からおこなわれたものであるか、あるいは情景の方からおこなわれたものであるかは、どうでもいい。双方で対話がある--対話しながらことばが動いていくということが基本なのだ。
ナボコフは、ここでは、彼自身のことばの運動の構造を教えてくれているのである。二人の対話がはじまる寸前、
ということばがある。それはゴドゥノフに言っているのではなく、読者に対して言っているのだ。逆説的に、あらかじめ予告しているのである。
ナボコフのことばには、ときどきこんな「予告」がある。そして、そういう「予告」からはじまる文章は、この作品の110 ページから 120ページまでがそうだが、それが終わるまでは途中で休むことができない。ナボコフの小説は、たいてい、どこから読んでもいい。どこでやめてもいい。けれど、ときどき途中で休めない部分がある。
その部分というのは詩ではなく、いわば評論が主体になっている。
二人は別れた。いやあ、なんていう風だ……。
「……でも、待ってください。ちょっと待って。やっぱりお送りしますよ。あなたはきっと宵っぱりでしょうから、石畳の黒い魅惑についてぼくがお教えすることもないでしょうけれど。あの哀れな朗読を聴いていなかったんでしょ?」
「最初だけね、それもいいかげんに。とはいえ、あれがそれほどひどい代物だとはまったく思いませんよ」
ここから二人の文学談議がはじまる。そのことばの動きが、とても速いのである。直前のコンチェーエフが「石畳の黒い魅惑について」というような、脇道へ逸脱していくことばとはまったく違ってくる。いや、さまざまなロシア文学のテキストをすばやく横断するのだが、そこには「逸脱」がない。「石畳の黒い魅惑について」というような「過剰なことば」がない。詩がない。かわりに、批評がある。
この二人の対話に、私は、とても違和感を覚えた。
そして、その違和感が、 120ページ、会話の最後でびっくりするような形で終わる。
「でも残念ですね、あなたと交わしたいと思っていたこのすばらしい会話を、誰にも聞いてもらえなかったなんて」
「だいじょうぶ、むだにはなりません。こんな風になって、むしろ嬉しいくらいです。ぼくたちは実際には最初の角で別れ、その後ぼくが一人で自分を相手に、文学的霊感の独習書に従って架空の対話を続けてきた--だからといって何なんです、そんなこと誰もきにしやしませんよ」
二人の会話は会話ではなかったのである。ひとりで続けた対話なのである。だからどんなに対立してもそれは会話を加速するためのものである。
これは、「会話」だけについていえることではないのだ。
ナボコフはあらゆる描写を「ひとり」で繰り広げる対話の形で書いているのだ。「会話」の形をとっていないが、そこに書かれていることは「対話」なのだ。ことばと対象とナボコフの間を行き来している。人間が風景について語るだけではない。風景がナボコフの投げかけたことばに対してことばを返してくる--ということをナボコフは描写の中でおこなっているのである。
架空の二人の対話において、どちらがどちらであるかは重要ではない。いれかわってもかまわない。同じように、ナボコフの情景描写においては、それが人間の側からおこなわれたものであるか、あるいは情景の方からおこなわれたものであるかは、どうでもいい。双方で対話がある--対話しながらことばが動いていくということが基本なのだ。
ナボコフは、ここでは、彼自身のことばの運動の構造を教えてくれているのである。二人の対話がはじまる寸前、
「ぼくがお教えすることもないでしょうけれど」
ということばがある。それはゴドゥノフに言っているのではなく、読者に対して言っているのだ。逆説的に、あらかじめ予告しているのである。
ナボコフのことばには、ときどきこんな「予告」がある。そして、そういう「予告」からはじまる文章は、この作品の110 ページから 120ページまでがそうだが、それが終わるまでは途中で休むことができない。ナボコフの小説は、たいてい、どこから読んでもいい。どこでやめてもいい。けれど、ときどき途中で休めない部分がある。
その部分というのは詩ではなく、いわば評論が主体になっている。
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