監督権行使
自民党憲法改正草案を読む/番外400(情報の読み方)
2020年10月02日の読売新聞(西部版・14版)は「学術会議」の新会員問題を堂取り扱っているか。
西部版では25面(第三社会面)に書いている。記事は二本立て。(番号は、私がつけた。)
①学術会議会長に梶田氏 ノーベル賞受賞者
②首相 会員候補6人任命せず
さて。
学術会議の会長がだれかということ、知っていた? いままで、だれが会長をしていた? 知っているひとは学術会議のメンバー(学者)だけだろうなあ、と思う。記事によると朝永振一郎もやっていたそうである。
だいたい「日本学術会議」の存在自体、ふつうの国民は知らないと思う。(私は、知らない。私は自己中心的な人間だから、自分を基準にして「ふつうの国民は知らないだろう」と推測しているだけだが。)なぜ知らないかというと、その「会議」に私が出席することはないからだ。「学術会議」だからいろいろなテーマが語られると思う。私の関心のある分野もあるかもしれないが、梶田や朝永の「物理学」は、聞いてもわからない。だから、まあ、知らなくても、関係ないなあ、と言っていられる。
そういう意味では、会長がだれであるかなど、ほとんどの国民には関係がない。国民にとってのニュースではない。会議のメンバーにとっては(特に、会長になりたい、と思っている人には大ニュースだと思うが。)
もし、だれが会長かが「問題」になるとしたら、その人が「特異な」「思想」を持っているときだろう。そして、それを主張しているときだろう。たとえば「科学は武器の開発に有効なものでなければならない。平和は保有している核兵器の数によって保障されている」とかね。そういう学者もいるかもしれないけれど、まあ、会長になることはないだろう。そういう人が会長になったら、それは私の見方では、とても困る。新会長の梶田がどんな思想の持ち主なのかわからないが、
というのを読むかぎり、これは変だぞ、と感じることはない。
問題は、会長がだれかよりも、②首相 会員候補6人任命せず、である。読売新聞にも、こう書いてある。
「任命が見送られたのは初めて」。
「初めて」のことがニュースである。梶田が会長に選ばれたのも「初めて」かもしれないが、会長はいつでも選ばれていたのだから、それは単に「習慣」のひとつであって、「初めて」というほどのことでもない。
そして、いちばんの問題は、その「初めて」が、なぜ、いま「初めて」おこなわれたのか、である。
これを追及するのがジャーナリズムの仕事。
読売新聞は、どう伝えているか。いろいろなところで「学問の自由の侵害」という声が起きている。それは政権にも届いてている。
加藤氏は「法律上、首相の直轄であり、人事などを通じて一定の監督権を行使することは可能だ。直ちに学問の自由の侵害にはつながらない」と述べ、問題はないとの認識を示した。
読売新聞は、加藤の言い分(菅の代弁)を、そのまま伝えているだけである。これでは新聞の役割を果たしていない。どこに注目して読むべきか、それを知らせないといけない。
加藤の「ことば」で問題になるのは「監督権」である。いったい、何を「監督」するというのだろうか。それを明確にせずに、「監督権」といってもしようがない。
加藤はこの「監督権」を「人事」ということばといっしょにつかっている。このことが非常に重要である。「人事」を支配する(今回が、まさに、それ)によって、何事かを「監督」するのである。
一定の予算が「学術会議」に支出される。その使い道を「監督する」というのは、無駄遣いをさせないという意味では「正しい」ことのように感じられる。しかし、、どの学問に金を使い、どの学問に金を使わせないかということを「監督する」ということは、金のつかい方を支配するということである。
たとえばイグノーベル賞を受賞した研究には予算を出さない、ということが決定されるかもしれない。笑いだしてしまうような研究なので、それが研究されなくなったからといって、きっと多くのひとは気にしない。気にするのは、その研究をするひとだけ。なぜ、こんなことがおきるのか、それを知りたいと思っている人だけかもしれない。
しかし、きっと、それだけではないのだ。気にならないようなところから、少しずつ「監督」というのなの「支配」がはじまっていくのだ。
任命されなかった6人。その6人が公表されたとして、国民の何人が、この人はこんな科学的研究をしている、その功績はこれこれである、と言えるだろうか。その人がどんな考えをもって科学的研究をしているかを言えるだろうか。99%以上の国民が答えられない。だから、そのひとが学術会議の会員になれないということも、気にならない。自分の関心事ではないからだ。
逆に言えば。
だれが何を研究しているか、どんな考えを持って研究しているかを、菅は気にした。それを調べて、その調べた結果を「人事」に反映させた。「人事支配」をつうじて、「学術会議」そのものを支配しようとしているということだ。
思い出そう。
菅は「官邸の方針に従わない官僚は異動させる」と言った。「異動させる」は「排除する」である。それを「学術会議」にもあてはめようとしているのだ。「官僚の方針に従わない学者は学者として認めない(排除する)」。
実際に、こういうことが書かれている。
なぜ、松宮が「排除された」のか、それを追求するのがジャーナリズムの仕事である。安住に代弁させればそれでいいという問題ではない。
加藤は、こういうかもしれない。
「ある特定の学者は、政府と関係する分野からは排除した。しかし、排除されても学問の研究はできるから、それは学問の自由の侵害ではない」
こういうことを「詭弁」という。
「詭弁」は、最初はなかなか「詭弁」とは気づかない。
「詭弁」に気づき、それを問題にしていくのがジャーナリズムの仕事のひとつである。それを読売新聞は指摘しないだけではなく、会長がだれになったかというようなことを「大ニュース」のように仕立て、本当の問題を隠している。
読売新聞は、菅と加藤に「忖度」している、ということだ。
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#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞
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自民党憲法改正草案を読む/番外400(情報の読み方)
2020年10月02日の読売新聞(西部版・14版)は「学術会議」の新会員問題を堂取り扱っているか。
西部版では25面(第三社会面)に書いている。記事は二本立て。(番号は、私がつけた。)
①学術会議会長に梶田氏 ノーベル賞受賞者
②首相 会員候補6人任命せず
さて。
学術会議の会長がだれかということ、知っていた? いままで、だれが会長をしていた? 知っているひとは学術会議のメンバー(学者)だけだろうなあ、と思う。記事によると朝永振一郎もやっていたそうである。
だいたい「日本学術会議」の存在自体、ふつうの国民は知らないと思う。(私は、知らない。私は自己中心的な人間だから、自分を基準にして「ふつうの国民は知らないだろう」と推測しているだけだが。)なぜ知らないかというと、その「会議」に私が出席することはないからだ。「学術会議」だからいろいろなテーマが語られると思う。私の関心のある分野もあるかもしれないが、梶田や朝永の「物理学」は、聞いてもわからない。だから、まあ、知らなくても、関係ないなあ、と言っていられる。
そういう意味では、会長がだれであるかなど、ほとんどの国民には関係がない。国民にとってのニュースではない。会議のメンバーにとっては(特に、会長になりたい、と思っている人には大ニュースだと思うが。)
もし、だれが会長かが「問題」になるとしたら、その人が「特異な」「思想」を持っているときだろう。そして、それを主張しているときだろう。たとえば「科学は武器の開発に有効なものでなければならない。平和は保有している核兵器の数によって保障されている」とかね。そういう学者もいるかもしれないけれど、まあ、会長になることはないだろう。そういう人が会長になったら、それは私の見方では、とても困る。新会長の梶田がどんな思想の持ち主なのかわからないが、
梶田教授は「近年の科学技術の急激な発展によって、科学と社会の距離が狭まっている。今後、学術会議と外部との対話をさらに進めていきたい」と抱負を述べた。
というのを読むかぎり、これは変だぞ、と感じることはない。
問題は、会長がだれかよりも、②首相 会員候補6人任命せず、である。読売新聞にも、こう書いてある。
加藤官房長官は1日の記者会見で、日本学術会議が推薦した新会員候補105人のうち、菅首相が6人を任命しなかったことを明らかにした。推薦を受けて首相が任命する制度が導入された2004年以降、任命が見送られたのは初めて。
「任命が見送られたのは初めて」。
「初めて」のことがニュースである。梶田が会長に選ばれたのも「初めて」かもしれないが、会長はいつでも選ばれていたのだから、それは単に「習慣」のひとつであって、「初めて」というほどのことでもない。
そして、いちばんの問題は、その「初めて」が、なぜ、いま「初めて」おこなわれたのか、である。
これを追及するのがジャーナリズムの仕事。
読売新聞は、どう伝えているか。いろいろなところで「学問の自由の侵害」という声が起きている。それは政権にも届いてている。
加藤氏は「法律上、首相の直轄であり、人事などを通じて一定の監督権を行使することは可能だ。直ちに学問の自由の侵害にはつながらない」と述べ、問題はないとの認識を示した。
読売新聞は、加藤の言い分(菅の代弁)を、そのまま伝えているだけである。これでは新聞の役割を果たしていない。どこに注目して読むべきか、それを知らせないといけない。
加藤の「ことば」で問題になるのは「監督権」である。いったい、何を「監督」するというのだろうか。それを明確にせずに、「監督権」といってもしようがない。
加藤はこの「監督権」を「人事」ということばといっしょにつかっている。このことが非常に重要である。「人事」を支配する(今回が、まさに、それ)によって、何事かを「監督」するのである。
一定の予算が「学術会議」に支出される。その使い道を「監督する」というのは、無駄遣いをさせないという意味では「正しい」ことのように感じられる。しかし、、どの学問に金を使い、どの学問に金を使わせないかということを「監督する」ということは、金のつかい方を支配するということである。
たとえばイグノーベル賞を受賞した研究には予算を出さない、ということが決定されるかもしれない。笑いだしてしまうような研究なので、それが研究されなくなったからといって、きっと多くのひとは気にしない。気にするのは、その研究をするひとだけ。なぜ、こんなことがおきるのか、それを知りたいと思っている人だけかもしれない。
しかし、きっと、それだけではないのだ。気にならないようなところから、少しずつ「監督」というのなの「支配」がはじまっていくのだ。
任命されなかった6人。その6人が公表されたとして、国民の何人が、この人はこんな科学的研究をしている、その功績はこれこれである、と言えるだろうか。その人がどんな考えをもって科学的研究をしているかを言えるだろうか。99%以上の国民が答えられない。だから、そのひとが学術会議の会員になれないということも、気にならない。自分の関心事ではないからだ。
逆に言えば。
だれが何を研究しているか、どんな考えを持って研究しているかを、菅は気にした。それを調べて、その調べた結果を「人事」に反映させた。「人事支配」をつうじて、「学術会議」そのものを支配しようとしているということだ。
思い出そう。
菅は「官邸の方針に従わない官僚は異動させる」と言った。「異動させる」は「排除する」である。それを「学術会議」にもあてはめようとしているのだ。「官僚の方針に従わない学者は学者として認めない(排除する)」。
実際に、こういうことが書かれている。
任命されなかった6人のうち、立命館大学大学院法務研究科の松宮孝明教授(略)は2017年に野党側の参考人として国会に出席し、テロ等準備罪法を批判した。立憲民主党の安住淳国会対策委員長は「(任命見送りが)政治的意図を持っていたとすれば看過できない」と記者団に語った。
なぜ、松宮が「排除された」のか、それを追求するのがジャーナリズムの仕事である。安住に代弁させればそれでいいという問題ではない。
加藤は、こういうかもしれない。
「ある特定の学者は、政府と関係する分野からは排除した。しかし、排除されても学問の研究はできるから、それは学問の自由の侵害ではない」
こういうことを「詭弁」という。
「詭弁」は、最初はなかなか「詭弁」とは気づかない。
「詭弁」に気づき、それを問題にしていくのがジャーナリズムの仕事のひとつである。それを読売新聞は指摘しないだけではなく、会長がだれになったかというようなことを「大ニュース」のように仕立て、本当の問題を隠している。
読売新聞は、菅と加藤に「忖度」している、ということだ。
*
「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞
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