丁海玉(チョン・ヘオク)『こくごのきまり』(土曜美術出版販売、2010年09月20日発行)
丁海玉は「法廷通訳(人)」という仕事をしているらしい。その仕事を様子を書いた作品がいちばんおもしろい。いちばん刺激的だ。
「ここではみんなことばは」の2連目。
「裁判官の前にすわったおんな」は丁海玉だろう。丁海玉は、法廷で通訳をしたときのことを、彼女自身のことばではなく被告人の側から描いている。
ここでは、ことばが不思議な動きをしている。独特の動きをするしかない。
通訳をするということは、「意味」を正確に別の言語にかえることである。そのとき「意味」以外のものは切り捨てられる。通訳しながら丁海玉は「意味」以外のものを切り捨てていることに気がついている。「意味」にはなりきれない感情がそこにあるのに、それは訳出せずに「意味」だけを訳出している。
そして、それだけでは不十分なのだと気づいている。だれのことばであっても、ことばは「意味」をこえるものを含んでいる。「意味」になりきれないものを含んでいる。それに気づきながら、「意味」しか通訳できない。伝えられない。
それをどうにかしたい--そう思って書かれたのが、この詩のことばである。
訳出されなかった苦しみ、ことばの「意味」をこえて暴走するものがある。それを知ってしまった丁海玉は、いま、その「意味」をこえるものを書くために、被告人のふりをしてことばを動かしている。そのなかに、丁海玉に関する思い、丁海玉への批判が含まれる。これがおもしろい。
それは、ほんとうに被告人の「ことば」なのか。それとも被告人がそう考えた(感じた)と思ったときの、丁海玉のことばなのか。区別がつかなくなる。被告人の苦しみを伝えるはずのことばが、丁海玉の苦悩を伝えることばに変わってしまう。被告人を代弁しようとすればするほど、丁海玉は被告人を裏切るのである。裏切ってしまうことになるのである。
ここから、書くということの「暴走」がはじまる。詩がはじまる。
「石ころをおなかから/吐き出すように出したことば」の、そのことばを発するときの苦悩が丁海玉によって「翻訳」されなかったと被告人が怒るとき、それは丁海玉の、そういうことばを「翻訳」できなかったことへの苦しみを語ることと同義になる。被告人の「思い」を伝えることができない、被告人の語っている「意味」しか伝えることができない、被告人の苦悩を直に感じ取ることができるのは丁海玉しかいないのに、その直に感じた感情を伝えることができないという苦しみ。それは、丁海玉が単に法廷通訳人であるだけではなく、詩人であるとき、より強い苦しみになる。
丁海玉が伝えうるのは被告人の語っている「意味」にすぎない。被告人の語っていることば、その「ことばの肉体」を伝えられない。そのことを、また、こんなふうにして書いてみても、それは被告人の「ことばの肉体」を語ることにはならない。それを語ることができなかったという丁海玉の「ことばの肉体」を語るにすぎないのだ。
被告人のことを語ろうとすればするほど、そしてそのとき被告人になりすまして語ってみても、それは丁海玉のことしか語れない。「自己弁護」になってしまう。自己弁護してしまう丁海玉の「ことばの肉体」の弱点を語ることしかできない。
丁海玉の意図に反して、ことばはそんなふうに暴走していく。そして、そのことばの弱点が丁海玉を疲れさせる。
その疲労困憊した丁海玉の肉体から立ち上がってくることばが、とても美しい。
「ゆうごはん」。
ことばは「肉体」になる。「いつものように」という、どうすることもできない部分にかえっていって、そこから丁海玉を乗っ取ってしまう。
「意味」も「感情」も、もう、もちこたえられない。
最後の2行の「忘れてしまった/ように飲み干した」の「ように」のことばの強さ。あらゆることが「ように」を吐き出しながら「肉体」の奥にたまりつづけるのだ。そして、それが積み重なって、丁海玉そのものになる。
丁海玉が出会った被告人のことば、その語りきれなかったもの、通訳しきれなかったものが、丁海玉そのものになる。
それにあらがいながら、丁海玉は丁海玉であろうとする。そのとき、丁海玉に語れるのは、「いつものように」かつおのタタキを食べた、ビールを飲んだというようなことだけなのである。
「はんせいしています/にどとしません」も「あなたはけいむしょいきです」も「意味」ではなくなる。「意味」はどこかへいってしまって、たどりつけない「肉体」の絶望になる。
絶望は人間にとって必要なものであるかどうか、よくわからない。けれど、そういうどうすることもできないものを丁海玉は覗いてしまったのだ。ことばで。その絶望を、私は、なぜか、美しいと感じてしまう。
そこには「正直」がある。
丁海玉は「法廷通訳(人)」という仕事をしているらしい。その仕事を様子を書いた作品がいちばんおもしろい。いちばん刺激的だ。
「ここではみんなことばは」の2連目。
裁判官の前にすわったおんなが
日本語とぼくの国のことばを訳している
ぼくは舌がこわばって
言いたいことの半分も言えないのに
なんとかつっかえ話したら
あんなにもためらいなくぼくを日本語で演じて見せた
石ころをおなかから
吐き出すように出したことばも
おんなには辞書にならぶ
ちいさな活字のひとつにすぎないらしい
「裁判官の前にすわったおんな」は丁海玉だろう。丁海玉は、法廷で通訳をしたときのことを、彼女自身のことばではなく被告人の側から描いている。
ここでは、ことばが不思議な動きをしている。独特の動きをするしかない。
通訳をするということは、「意味」を正確に別の言語にかえることである。そのとき「意味」以外のものは切り捨てられる。通訳しながら丁海玉は「意味」以外のものを切り捨てていることに気がついている。「意味」にはなりきれない感情がそこにあるのに、それは訳出せずに「意味」だけを訳出している。
そして、それだけでは不十分なのだと気づいている。だれのことばであっても、ことばは「意味」をこえるものを含んでいる。「意味」になりきれないものを含んでいる。それに気づきながら、「意味」しか通訳できない。伝えられない。
それをどうにかしたい--そう思って書かれたのが、この詩のことばである。
訳出されなかった苦しみ、ことばの「意味」をこえて暴走するものがある。それを知ってしまった丁海玉は、いま、その「意味」をこえるものを書くために、被告人のふりをしてことばを動かしている。そのなかに、丁海玉に関する思い、丁海玉への批判が含まれる。これがおもしろい。
それは、ほんとうに被告人の「ことば」なのか。それとも被告人がそう考えた(感じた)と思ったときの、丁海玉のことばなのか。区別がつかなくなる。被告人の苦しみを伝えるはずのことばが、丁海玉の苦悩を伝えることばに変わってしまう。被告人を代弁しようとすればするほど、丁海玉は被告人を裏切るのである。裏切ってしまうことになるのである。
ここから、書くということの「暴走」がはじまる。詩がはじまる。
「石ころをおなかから/吐き出すように出したことば」の、そのことばを発するときの苦悩が丁海玉によって「翻訳」されなかったと被告人が怒るとき、それは丁海玉の、そういうことばを「翻訳」できなかったことへの苦しみを語ることと同義になる。被告人の「思い」を伝えることができない、被告人の語っている「意味」しか伝えることができない、被告人の苦悩を直に感じ取ることができるのは丁海玉しかいないのに、その直に感じた感情を伝えることができないという苦しみ。それは、丁海玉が単に法廷通訳人であるだけではなく、詩人であるとき、より強い苦しみになる。
丁海玉が伝えうるのは被告人の語っている「意味」にすぎない。被告人の語っていることば、その「ことばの肉体」を伝えられない。そのことを、また、こんなふうにして書いてみても、それは被告人の「ことばの肉体」を語ることにはならない。それを語ることができなかったという丁海玉の「ことばの肉体」を語るにすぎないのだ。
被告人のことを語ろうとすればするほど、そしてそのとき被告人になりすまして語ってみても、それは丁海玉のことしか語れない。「自己弁護」になってしまう。自己弁護してしまう丁海玉の「ことばの肉体」の弱点を語ることしかできない。
丁海玉の意図に反して、ことばはそんなふうに暴走していく。そして、そのことばの弱点が丁海玉を疲れさせる。
その疲労困憊した丁海玉の肉体から立ち上がってくることばが、とても美しい。
「ゆうごはん」。
きょう
あなたはけいむしょいきです、と
男につうやくした裁判所からの
かえりみち
デパ地下に寄って
かつおのタタキを買ってから
ホームの電車に飛び乗った
(略)
家についてすぐに米をあらう
はんせいしています
にどとしません
の、男のことばは
ざくざく
米のとぎ汁に流れていく
炊飯ジャーのスイッチを入れた
赤いボタンがひかりはじめる
炊きたてのごはんの甘い湯気を嗅ぎながら
ポン酢におろしにんにくを混ぜながら
いつものように
ゆうごはんを食べる
きょう
あなたはけいむしょいきです、と
男につうやくしたことなんか
冷えたビールを喉に流し込みながら
すっかり
忘れてしまった
ように飲み干した
ことばは「肉体」になる。「いつものように」という、どうすることもできない部分にかえっていって、そこから丁海玉を乗っ取ってしまう。
「意味」も「感情」も、もう、もちこたえられない。
最後の2行の「忘れてしまった/ように飲み干した」の「ように」のことばの強さ。あらゆることが「ように」を吐き出しながら「肉体」の奥にたまりつづけるのだ。そして、それが積み重なって、丁海玉そのものになる。
丁海玉が出会った被告人のことば、その語りきれなかったもの、通訳しきれなかったものが、丁海玉そのものになる。
それにあらがいながら、丁海玉は丁海玉であろうとする。そのとき、丁海玉に語れるのは、「いつものように」かつおのタタキを食べた、ビールを飲んだというようなことだけなのである。
「はんせいしています/にどとしません」も「あなたはけいむしょいきです」も「意味」ではなくなる。「意味」はどこかへいってしまって、たどりつけない「肉体」の絶望になる。
絶望は人間にとって必要なものであるかどうか、よくわからない。けれど、そういうどうすることもできないものを丁海玉は覗いてしまったのだ。ことばで。その絶望を、私は、なぜか、美しいと感じてしまう。
そこには「正直」がある。