松川穂波『ウルム心』(思潮社、2009年07月10日発行)
松川穂波『ウルム心』を読んだ。私は不勉強な人間なので、松川穂波という詩人を知らなかった。同人誌か何かで作品を読んでいるかもしれないけれど、まったく記憶にない。たぶん、今回読むのが初めてだと思う。
読みはじめてすぐ引き込まれた。文体が安定している。とても安心して読むことができる。ただし、文体が安定しているのだけれど、その安定がどこから来るのかよくわからない。そして、文体が安定していると言っても、それは何かを積み上げていくというような文体ではない。うまくいえないけれど、ことばを積み上げて、その果てに何かを築き上げるというような文体ではない。築き上げていくのではないのだけれど、その細部のひとつひとつが堅牢で、その堅牢さが、文体が安定しているという印象を産むのだ。
この堅牢さ、叩いてもこわれない感じ--れは、何なのだろう。
その疑問を抱いたまま、読みはじめたら、やめられない。
表題作「ウルム心」に何か手がかりがあるだろうか。私は、急いで、急いで、急いでページをめくるのだけれど、「ウルム心」という詩がない。目次を見る。やっぱり、ない。どこか、ある1行に隠れているのだろうか。またまた、ぺらぺらぺらとページをめくる。でも、見つからない。一気に読んだので読み落としているかもしれないが、どの作品にも「ウルム心」ということばがない。(もし、どこかにあるのなら、ごめんなさい。読み落としです。)
たしかに、この詩集の文体は、先に書いたように何かを築き上げていくような文体ではないから、うるむ、うるうるゆるむ、というような感じなのだけれど、それはじめじめしていないし、ゆるむといっても構造がゆるやかになるというだけであって、けっしてこわれない。こわれないようながっしりした細部でできあがっている。
これはいったい何なのだろうなあ。
詩集を片手に持って、掌に叩くようにして、ぽんぽんぽん。ふと、「帯」に目がとまった。倉橋健一が書いている。「頽唐意識」などという不思議なことば、私の知らないことばがあっていやだなあ、と思いながら、そのつづきを読むと。
びっくりした。「ええっ」と思わず、声がでた。
「窓」という漢字を分解したのが「ウルム心」なんだねえ。昔、「疑問」の「疑」という字を、「ヒ、マ、矢(や)」から疑問が浮かぶんだと説明してくれた友人がいたが、それを聞いたときと同じような衝撃を受けた。私は、そんなふうには漢字を見ることができない。
そして、同時に、ああ、そうなのだ、と納得した。というか、何かがわかったような気持ちになった。
松川の文体は、あることがらを、分解して見せたものである。「何かを積み上げていく文体ではない」と最初に書いたが、それは「いま」「ここ」を、独自の距離感で分解していく文体なのだ。安定している--というのは「窓」を「ウルム心」と分解するように、その分解の方法が、誰もが知っているものに向けて分解していて、その誰もが知っているということをけっして踏み外さないところにあるのだ。
そして、この誰もが知っているものを、松川は「部品」と呼んでいる。
「海辺の市」という作品に出てくる。私は本を読むとき、ドッグイヤー(ページの端を三角に折る、犬の耳みたいにね)をつくり、鉛筆で、この部分からなら感想が書けるかな、と思うところに傍線を引きながら読む。最初のドッグイヤーと傍線が、そこにあった。
この行に、私は「ウルム心」を感じたのだ、きっと。「世界をあたらしく淋しくしていた」の「あたらしく」はあくまで「あたらしく淋しく」である。「あたらしくしていた」ではない。その「あたらしいさびしさ」が「部品」のなかに宿っている。「世界」という「構造物」から解体された「部品」が、何も作り上げることもできず、こんなふうにして実は「世界」をささえていたのは、実は私たちです--と静かに主張するように、そこに存在している。
「世界」の「構造」の一部、その部品となって生きているものたち。そのひとつひとつに、ひっそりとよりそって、そのさびしさを代弁する。ああ、いいなあ、この抒情。
「遥かに連結されていた」にも、私は傍線を引いていた。世界が部品に解体され、それは同時に、それまでとは違った「構造」というか、「連結」をさびしく夢見ているのだ。その連結の中には「南の国」も「肩こり」もある。
日常の、流通言語でとらえた世界の構造では、そういうものは連結されない。けれど、松川は、そういうものを静かに連結する。
「窓」を「ウルム心」という部品に解体し、そのあと「窓」として連結するとき、窓は少しあたらしいさびしさになっている。
それと同じことが、「海辺の市」の「部品」と「世界」の関係で起きている。「さびしれ」が新しく定義しなおされている。いままで、誰も書かなかった抒情詩である。傑作詩集である。
松川穂波『ウルム心』を読んだ。私は不勉強な人間なので、松川穂波という詩人を知らなかった。同人誌か何かで作品を読んでいるかもしれないけれど、まったく記憶にない。たぶん、今回読むのが初めてだと思う。
読みはじめてすぐ引き込まれた。文体が安定している。とても安心して読むことができる。ただし、文体が安定しているのだけれど、その安定がどこから来るのかよくわからない。そして、文体が安定していると言っても、それは何かを積み上げていくというような文体ではない。うまくいえないけれど、ことばを積み上げて、その果てに何かを築き上げるというような文体ではない。築き上げていくのではないのだけれど、その細部のひとつひとつが堅牢で、その堅牢さが、文体が安定しているという印象を産むのだ。
この堅牢さ、叩いてもこわれない感じ--れは、何なのだろう。
その疑問を抱いたまま、読みはじめたら、やめられない。
表題作「ウルム心」に何か手がかりがあるだろうか。私は、急いで、急いで、急いでページをめくるのだけれど、「ウルム心」という詩がない。目次を見る。やっぱり、ない。どこか、ある1行に隠れているのだろうか。またまた、ぺらぺらぺらとページをめくる。でも、見つからない。一気に読んだので読み落としているかもしれないが、どの作品にも「ウルム心」ということばがない。(もし、どこかにあるのなら、ごめんなさい。読み落としです。)
たしかに、この詩集の文体は、先に書いたように何かを築き上げていくような文体ではないから、うるむ、うるうるゆるむ、というような感じなのだけれど、それはじめじめしていないし、ゆるむといっても構造がゆるやかになるというだけであって、けっしてこわれない。こわれないようながっしりした細部でできあがっている。
これはいったい何なのだろうなあ。
詩集を片手に持って、掌に叩くようにして、ぽんぽんぽん。ふと、「帯」に目がとまった。倉橋健一が書いている。「頽唐意識」などという不思議なことば、私の知らないことばがあっていやだなあ、と思いながら、そのつづきを読むと。
「窓」の一字を「ウルム心」と覚えればと教えてくれた
びっくりした。「ええっ」と思わず、声がでた。
「窓」という漢字を分解したのが「ウルム心」なんだねえ。昔、「疑問」の「疑」という字を、「ヒ、マ、矢(や)」から疑問が浮かぶんだと説明してくれた友人がいたが、それを聞いたときと同じような衝撃を受けた。私は、そんなふうには漢字を見ることができない。
そして、同時に、ああ、そうなのだ、と納得した。というか、何かがわかったような気持ちになった。
松川の文体は、あることがらを、分解して見せたものである。「何かを積み上げていく文体ではない」と最初に書いたが、それは「いま」「ここ」を、独自の距離感で分解していく文体なのだ。安定している--というのは「窓」を「ウルム心」と分解するように、その分解の方法が、誰もが知っているものに向けて分解していて、その誰もが知っているということをけっして踏み外さないところにあるのだ。
そして、この誰もが知っているものを、松川は「部品」と呼んでいる。
「海辺の市」という作品に出てくる。私は本を読むとき、ドッグイヤー(ページの端を三角に折る、犬の耳みたいにね)をつくり、鉛筆で、この部分からなら感想が書けるかな、と思うところに傍線を引きながら読む。最初のドッグイヤーと傍線が、そこにあった。
海は荒れていた
海辺の市にまぎれこむ
ひとたばの菊 鍋 古い切手 鳥かご 歳時記 干魚 ひしゃく 線香 錠前
わすれられたような
部品が並べられ
世界をあたらしく淋しくしていた
この行に、私は「ウルム心」を感じたのだ、きっと。「世界をあたらしく淋しくしていた」の「あたらしく」はあくまで「あたらしく淋しく」である。「あたらしくしていた」ではない。その「あたらしいさびしさ」が「部品」のなかに宿っている。「世界」という「構造物」から解体された「部品」が、何も作り上げることもできず、こんなふうにして実は「世界」をささえていたのは、実は私たちです--と静かに主張するように、そこに存在している。
「世界」の「構造」の一部、その部品となって生きているものたち。そのひとつひとつに、ひっそりとよりそって、そのさびしさを代弁する。ああ、いいなあ、この抒情。
売るものは何もない
買うものは何もない
白い波が沖から押し寄せ
黙って帰っていった
ぼうぼうとテントが鳴り
悪寒が鳴り
わたしはある老人から 南の国の毒蛇のエキスだと称する薄赤いビン入りの水
薬を買わされた 蛇のジュースでしょうか いや 肩こりの特効塗り薬だとい
う 老人の南の国のなまりは温かい テインの下に飾られた毒蛇の剥製の目が
海をみつめていた
その日
海は無心に荒れていた
海も無心も
世界の部品であった
南の国も肩こりも
遥かに連結されていた
海辺の市をさまよいながら
わたしは わたしだけのあたらしい日々を望郷した
白い波が沖から押し寄せ
「遥かに連結されていた」にも、私は傍線を引いていた。世界が部品に解体され、それは同時に、それまでとは違った「構造」というか、「連結」をさびしく夢見ているのだ。その連結の中には「南の国」も「肩こり」もある。
日常の、流通言語でとらえた世界の構造では、そういうものは連結されない。けれど、松川は、そういうものを静かに連結する。
「窓」を「ウルム心」という部品に解体し、そのあと「窓」として連結するとき、窓は少しあたらしいさびしさになっている。
それと同じことが、「海辺の市」の「部品」と「世界」の関係で起きている。「さびしれ」が新しく定義しなおされている。いままで、誰も書かなかった抒情詩である。傑作詩集である。
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