友部正人「おばあさんのやかん」松浦寿輝「旅」(「現代詩手帖」12月号)。
友部正人の「おばあちゃんのやかん」は不思議なあたたかさがある。ふるさと、といっても12月18日に触れた正津勉の「さらばさるべしさようなら」のように具体的な場所(地名)が出てくるわけではない。「おばあさん」が「ふるさと」とし登場する。そして、その「おばあさん」は、常に何かと一体である。「おばあさん」自身がひとつの感情なのである。
「まわり」まで含めて「おばあさん」なのである。「おばあさん」がひとつの肉体というよりも「まわり」を含んだものだからこそ、その一体感のなかに友部はすーっと溶け込んでいく。
書き出しの3行につづく各連も、「まわり」を描いている。2連目。
「街が桜の花びらでうまるころ」は単に「おばあさん」が亡くなった時(日時)をあらわしているのではなく、やはり「まわり」をあらわしているのである。何月何日よりも「まわり」に何があったかが重視されているのである。
そして、その「まわり」は実は時間を超える存在である。
6、7、8連。
外は雪でも裏庭には桜、時間が夜でも裏庭には青空。それは、友部の頭の中の記憶ではなく、感情なのである。「暖かな」ということばがあるが、あたたかな思い出(あたたかな感情)の、そのあたたかささが「まわり」の具体的な在り方なのである。
感情は「忘れる」ということがない。感情はいつも時間を超越する。空間を超越する。そのとき「詩」があらわれる。最終連。
最後の「よ」もいいなあ、と思う。感情をしっかりと押えている。動かないものにしている。なんといえばいいのだろうか、ちょうど俳句の「切れ字」のような感じだ。「おばあさん」はいつも友部のこころのなかに生きている。その喜びが「よ」のなかに輝いている。
*
松浦寿輝「旅」は「感情」というより「感覚」の「旅」である。
「感覚」と「感情」(友部)、「頭脳」(正津勉)はどう違うのか、それ単独に取り上げると説明がしにくいが、正津、友部の作品と松浦の作品をつづけて読んでみると、松浦は「感覚」で考えている、「感覚」で感じていることがわかる。
「旅」という詩には「また」ということばが繰り返し出てくる。
この書き出しには「また」と「ふたたび」と同義のことばが繰り返されてもいる。「また」は20字、22行の作品に 4度も登場する。このすべての「また」は「感覚」である。先に私は、松浦は「感覚」で考え、「感覚」で感じると書いたが、それは便宜上のことであり、ほんとうは思考や感情にまでたどりついていない途中の「感覚」である。思考や感情になる以前の途中というものが松浦の「感覚」なのである。
松浦が「また」を繰り返すのは、その思考でも感情でもない自分自身の「感覚」を「感覚」として立ち止まらせるためである。「感覚」が先走って何かを見落とす--ということを、松浦は恐れているようでもある。世界のすべてを「感覚」と融合させる、そのために「またふたたび」どころか、「また何度でも」「旅」をするというのが松浦のことばである。松浦の肉体が旅をするというより、ことばが旅をするのである。
そういうものが人間に認識できるか。頭脳では認識できない。感情でも抱き留められない。ただ感覚だけが「感知」するのである。
松浦のことばは「感知」の一瞬をもとめて、ひたすら肉体と頭脳と感情をゆっくり歩ませ、なおかつ差異をもとめて繰り返し。繰り返し(また)によって、初めて差異が生まれる。初めて(一度)では差異は存在せず、したがって何も「感知」することはできない。「感知」する人間として、松浦は自分自身を提出しようとしているように思える。
友部正人の「おばあちゃんのやかん」は不思議なあたたかさがある。ふるさと、といっても12月18日に触れた正津勉の「さらばさるべしさようなら」のように具体的な場所(地名)が出てくるわけではない。「おばあさん」が「ふるさと」とし登場する。そして、その「おばあさん」は、常に何かと一体である。「おばあさん」自身がひとつの感情なのである。
おばあさんはやかんの上に
やかんは火鉢の上に
火鉢のまわりには十二人の兄弟
「まわり」まで含めて「おばあさん」なのである。「おばあさん」がひとつの肉体というよりも「まわり」を含んだものだからこそ、その一体感のなかに友部はすーっと溶け込んでいく。
書き出しの3行につづく各連も、「まわり」を描いている。2連目。
街が桜の花びらでうまるころ
おばあさんはやかんに乗って旅に出た
まだ年は八十歳だった
「街が桜の花びらでうまるころ」は単に「おばあさん」が亡くなった時(日時)をあらわしているのではなく、やはり「まわり」をあらわしているのである。何月何日よりも「まわり」に何があったかが重視されているのである。
そして、その「まわり」は実は時間を超える存在である。
6、7、8連。
まだおばあさんが家にいて
火鉢の上でお湯をわかしていたころ
ぼくには不思議な思い出がある
外には雪が降っているのに
家の中は暖かく
裏庭には桜が咲いていた
暗い夜道を帰って来ると
やかんの上にはおばあさんがいて
裏庭にはいつも青空があった
外は雪でも裏庭には桜、時間が夜でも裏庭には青空。それは、友部の頭の中の記憶ではなく、感情なのである。「暖かな」ということばがあるが、あたたかな思い出(あたたかな感情)の、そのあたたかささが「まわり」の具体的な在り方なのである。
感情は「忘れる」ということがない。感情はいつも時間を超越する。空間を超越する。そのとき「詩」があらわれる。最終連。
町が桜の花びらにうまるころ
真新しい畳の匂いをかぎに
おばあさんがやかんにのって帰ってくるよ
最後の「よ」もいいなあ、と思う。感情をしっかりと押えている。動かないものにしている。なんといえばいいのだろうか、ちょうど俳句の「切れ字」のような感じだ。「おばあさん」はいつも友部のこころのなかに生きている。その喜びが「よ」のなかに輝いている。
*
松浦寿輝「旅」は「感情」というより「感覚」の「旅」である。
「感覚」と「感情」(友部)、「頭脳」(正津勉)はどう違うのか、それ単独に取り上げると説明がしにくいが、正津、友部の作品と松浦の作品をつづけて読んでみると、松浦は「感覚」で考えている、「感覚」で感じていることがわかる。
「旅」という詩には「また」ということばが繰り返し出てくる。
わたしはまたふたたび幽暗の河をさかのぼり
この書き出しには「また」と「ふたたび」と同義のことばが繰り返されてもいる。「また」は20字、22行の作品に 4度も登場する。このすべての「また」は「感覚」である。先に私は、松浦は「感覚」で考え、「感覚」で感じると書いたが、それは便宜上のことであり、ほんとうは思考や感情にまでたどりついていない途中の「感覚」である。思考や感情になる以前の途中というものが松浦の「感覚」なのである。
松浦が「また」を繰り返すのは、その思考でも感情でもない自分自身の「感覚」を「感覚」として立ち止まらせるためである。「感覚」が先走って何かを見落とす--ということを、松浦は恐れているようでもある。世界のすべてを「感覚」と融合させる、そのために「またふたたび」どころか、「また何度でも」「旅」をするというのが松浦のことばである。松浦の肉体が旅をするというより、ことばが旅をするのである。
葉のへりから滴る雨粒が地面に落ちるまでの 時間の変化に目を凝らす
そういうものが人間に認識できるか。頭脳では認識できない。感情でも抱き留められない。ただ感覚だけが「感知」するのである。
松浦のことばは「感知」の一瞬をもとめて、ひたすら肉体と頭脳と感情をゆっくり歩ませ、なおかつ差異をもとめて繰り返し。繰り返し(また)によって、初めて差異が生まれる。初めて(一度)では差異は存在せず、したがって何も「感知」することはできない。「感知」する人間として、松浦は自分自身を提出しようとしているように思える。