永島卓『永島卓詩集』(砂子屋書房版「現代詩人文庫」)。(その4)
『わが驟雨』(1975年)。
「脈動」という詩は不思議な作品である。「ハンス・ベルメール」という版画家(?)が登場する。実在の外国人、芸術家が作品のなかに登場するのは永島の作品では珍しいことだと思う。(『碧南偏執的複合的私言』に「おれたちのレ・バンクエンの夜」という作品もあるけれど。)
私はハスン・ベルメールという版画家はほとんど記憶にない。なんだか体がどろりと溶けたような人物や曲線が交錯する昆虫(?)のようなものを描いていたと思う。そういうあいまいな記憶だけで言うのだが、というか、その版画の印象のせいだろうと思うけれど、永島のこの詩には何か、版画家の描く「不定形」(どろりと溶けた感じ、曲線が交錯する感じ)に似たものがあるような気がする。
「脈動」の書き出し。
「油ヶ淵」には注釈がついている。愛知県で2番目に大きい湖沼で、永島が幼少時に育った土地だという。
ところが、私にはそれが具体的な湖沼には見えない。永島にとっては具体的な土地、肉体となってしまった土地なのだろうが、その水面を見たことがない私には、油がひろがった淵、ゆらりとした印象のある淵にしか感じられない。
その抽象的な印象に、次のことばがさらに追い打ちをかける。
「西端」には油ヶ淵を抱える土地の名前という注釈がついているが、私には「端」という辺境を指す印象の方が強く残る。地名そのものが抽象化し、抒情になっている感じがするのだ。「脈動の神経線」「闇に映る水明」「羽根を剥ぎ取られてしまった鳥の叫び声」「透きとおった細い光りの道」という抒情的なことばがの動きは、さらにその印象を強める。
不思議でしようがないのは、この作品には「おれは油ヶ淵の葦を切り裂いてゆくのだ」と「おれ」が登場しているにもかかわらず、なぜか「おれ」というものが強く感じられない。「ひとみさんこらえるとゆうことは」では強く感じた「おれ」が何か違ったものに感じられる。
「物語」ということばが出てくるが、なんだか「おれ」は永島自身というよりも「物語」のなかの「おれ」という感じがするのだ。ここに書かれているのは物語、寓意であり、そうした構造のなかで、永島はこれまでと違ったことばの動きを追求しているような感じがする。「おれ」はもちろん主体なのだが、主体がいつでも主人公であるわけではなく、土地の名前が持っている何かこそが「主体」となって、「おれ」のなかから何かを引き出していくというような感じがするのだ。土地の名前が、「おれ」のなかにある「抒情」のようなものを出していくような感じがするのだ。
これはいったい何だろうか。
「ふるさと」そしてそこに暮らすひとびと。そのひとたちが地名に何を感じているか。地名に対してどういう感覚を共有しているのか。それは肉体の共有と同じものだろうか。よくわからないが、永島は、ここでは「ふるさと」という「土地」、その「地名」が抱え込む肉体を「おれ」を媒介にして「物語」にしたてているように思える。「地名」は「物語」を持っているのだ、その「物語」をひとは無意識のうちに生きるのだ、とでもいっているようにも見える。
ハンス・ベルメールの版画について永島が実際にどういう印象を持っているのか。それについて語ったものがあるかどうか、私は不勉強なので知らない。知らないから印象だけで言うのだが、永島はハンス・ベルメールの版画に「物語」を感じたのではないだろうか。たとえばそこに描かれている人物(固有名詞)が、どこかどろりと溶けだして空間を埋めている姿に、その人物の「物語」(隠された時間)を見たのではないだろうか。そして、それと同じことを永島は自分が住んでいる「土地」(ふるさと)を題材にやってみようとしたのではないだろうか。
地名が持っている不可思議なもの、何らかの「物語」を呼び覚ますもののなかに、永島の感受性を溶け込ませ、新しい「物語」を語る。そうすることで「古い物語」を攪拌する。それは、まだ「物語」として共有されていない永島自身の感受性、肉体の反応を、目に見える形で提供することである、と考えているのではないだろうか。「物語」は実はそれまで信じられているような完全な形(?)、いつでも決まった姿で共有されるものではなく、もっと不定形なもの、輪郭を失い、厚みを失い、どこかへ溶けだしていくようなものを含んでいるという可能性を差し出そうとしているように思える。
永島のことばは「ふるさと」から離れない。そして離れないということを逆手にとって、「ふるさと」のなかへ何かをそそぎこもうとしているように感じる。永島の感受性をそそぎこむとき、それまでの「ふるさと」が奇妙に押しつぶされ、引き延ばされ、ハンス・ベルメールの版画のように、存在を不定形にしてみせる。不定形とは形が安定していないととらえれば否定的な要素だろうが、他の形になりうるものととらえれば肯定的な要素だろう。もちろん、その否定的要素、肯定的要素というものは、それ自体安定していない。どちらが正しいというものでもない。自分の肉体とどうなじむかが問われることがらである。「ふるさと」を不定形にするこで、ふるさとのひとびとの肉体そのものを不定形に、自由なものにしようと試みているように感じられる。
*
「層」という作品には「地名」は出てこない。「部屋」あるいは「壁」というものが抽象的に描かれているだけだ。だが、そこでも問題になっているのは「壁」が安定した存在ではなく「不定形」であるということだ。壁が不定形になるとき、「おれ」も不定形になる。不定形のなかで何ができるか。永島は、それを肉体の問題として問うている。「壁はつぎの渇きのなかで沈黙したまま因習の層域をつくりはじめる」と「層」はおわるのだが……。
『わが驟雨』(1975年)。
「脈動」という詩は不思議な作品である。「ハンス・ベルメール」という版画家(?)が登場する。実在の外国人、芸術家が作品のなかに登場するのは永島の作品では珍しいことだと思う。(『碧南偏執的複合的私言』に「おれたちのレ・バンクエンの夜」という作品もあるけれど。)
私はハスン・ベルメールという版画家はほとんど記憶にない。なんだか体がどろりと溶けたような人物や曲線が交錯する昆虫(?)のようなものを描いていたと思う。そういうあいまいな記憶だけで言うのだが、というか、その版画の印象のせいだろうと思うけれど、永島のこの詩には何か、版画家の描く「不定形」(どろりと溶けた感じ、曲線が交錯する感じ)に似たものがあるような気がする。
「脈動」の書き出し。
柔らかに影を織りすすむハンス・ベルメールの夜はやってくるのか
終結を告げぬ脈動の神経線に乗っておれは油ヶ淵の葦を切り裂いてゆくのだ
「油ヶ淵」には注釈がついている。愛知県で2番目に大きい湖沼で、永島が幼少時に育った土地だという。
ところが、私にはそれが具体的な湖沼には見えない。永島にとっては具体的な土地、肉体となってしまった土地なのだろうが、その水面を見たことがない私には、油がひろがった淵、ゆらりとした印象のある淵にしか感じられない。
その抽象的な印象に、次のことばがさらに追い打ちをかける。
闇に映る水明で羽根を剥ぎ取られてしまった鳥の叫び声が西端を被う
透きとおった細い光りの道だけが浮かび誰も油ヶ淵の物語へ近付くことができない
「西端」には油ヶ淵を抱える土地の名前という注釈がついているが、私には「端」という辺境を指す印象の方が強く残る。地名そのものが抽象化し、抒情になっている感じがするのだ。「脈動の神経線」「闇に映る水明」「羽根を剥ぎ取られてしまった鳥の叫び声」「透きとおった細い光りの道」という抒情的なことばがの動きは、さらにその印象を強める。
不思議でしようがないのは、この作品には「おれは油ヶ淵の葦を切り裂いてゆくのだ」と「おれ」が登場しているにもかかわらず、なぜか「おれ」というものが強く感じられない。「ひとみさんこらえるとゆうことは」では強く感じた「おれ」が何か違ったものに感じられる。
「物語」ということばが出てくるが、なんだか「おれ」は永島自身というよりも「物語」のなかの「おれ」という感じがするのだ。ここに書かれているのは物語、寓意であり、そうした構造のなかで、永島はこれまでと違ったことばの動きを追求しているような感じがする。「おれ」はもちろん主体なのだが、主体がいつでも主人公であるわけではなく、土地の名前が持っている何かこそが「主体」となって、「おれ」のなかから何かを引き出していくというような感じがするのだ。土地の名前が、「おれ」のなかにある「抒情」のようなものを出していくような感じがするのだ。
これはいったい何だろうか。
「ふるさと」そしてそこに暮らすひとびと。そのひとたちが地名に何を感じているか。地名に対してどういう感覚を共有しているのか。それは肉体の共有と同じものだろうか。よくわからないが、永島は、ここでは「ふるさと」という「土地」、その「地名」が抱え込む肉体を「おれ」を媒介にして「物語」にしたてているように思える。「地名」は「物語」を持っているのだ、その「物語」をひとは無意識のうちに生きるのだ、とでもいっているようにも見える。
ハンス・ベルメールの版画について永島が実際にどういう印象を持っているのか。それについて語ったものがあるかどうか、私は不勉強なので知らない。知らないから印象だけで言うのだが、永島はハンス・ベルメールの版画に「物語」を感じたのではないだろうか。たとえばそこに描かれている人物(固有名詞)が、どこかどろりと溶けだして空間を埋めている姿に、その人物の「物語」(隠された時間)を見たのではないだろうか。そして、それと同じことを永島は自分が住んでいる「土地」(ふるさと)を題材にやってみようとしたのではないだろうか。
地名が持っている不可思議なもの、何らかの「物語」を呼び覚ますもののなかに、永島の感受性を溶け込ませ、新しい「物語」を語る。そうすることで「古い物語」を攪拌する。それは、まだ「物語」として共有されていない永島自身の感受性、肉体の反応を、目に見える形で提供することである、と考えているのではないだろうか。「物語」は実はそれまで信じられているような完全な形(?)、いつでも決まった姿で共有されるものではなく、もっと不定形なもの、輪郭を失い、厚みを失い、どこかへ溶けだしていくようなものを含んでいるという可能性を差し出そうとしているように思える。
永島のことばは「ふるさと」から離れない。そして離れないということを逆手にとって、「ふるさと」のなかへ何かをそそぎこもうとしているように感じる。永島の感受性をそそぎこむとき、それまでの「ふるさと」が奇妙に押しつぶされ、引き延ばされ、ハンス・ベルメールの版画のように、存在を不定形にしてみせる。不定形とは形が安定していないととらえれば否定的な要素だろうが、他の形になりうるものととらえれば肯定的な要素だろう。もちろん、その否定的要素、肯定的要素というものは、それ自体安定していない。どちらが正しいというものでもない。自分の肉体とどうなじむかが問われることがらである。「ふるさと」を不定形にするこで、ふるさとのひとびとの肉体そのものを不定形に、自由なものにしようと試みているように感じられる。
*
「層」という作品には「地名」は出てこない。「部屋」あるいは「壁」というものが抽象的に描かれているだけだ。だが、そこでも問題になっているのは「壁」が安定した存在ではなく「不定形」であるということだ。壁が不定形になるとき、「おれ」も不定形になる。不定形のなかで何ができるか。永島は、それを肉体の問題として問うている。「壁はつぎの渇きのなかで沈黙したまま因習の層域をつくりはじめる」と「層」はおわるのだが……。