詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大家正志「ドア・ツアー」ほか

2006-08-25 15:12:08 | 詩集
 大家正志「翻訳 ③ ドア・ツアー」(「SPACE」69)。
 詩としてというより、提案として、とても魅力的である。

弘井さんからメールがきた
 僕にはドアという打楽器演奏の夢があります
  ドアを文字どおり叩き続けるのですが
   とぼけたチャイムのピンポーンをいれたり……

 その夢の提案に大家がドアを叩いて回るドア・ツアーを提案する。そのメールのやりとりと大家自身の感想が書かれている。とてもおもしろくなりそうなのに、あれ、思いつきだけのことなのかという印象しか残らない。
 私がもっともおもしろいと思った部分は、

三島由紀夫は日本を叩きそこねて幼児のようにすねてしまったし
 寺山修司は見知らぬ女性の風呂場の窓を叩いて「どうも寺山です」

から始まる4行だが、それも「思いつき」でおわっている印象が拭えない。なぜだろうか。大家自身がドアを叩くとき、いったいどんな自分を出したいのかわかっていないからだと思う。どんな音を聞きたいのかわかっていないからだと思う。ただドアを叩いてまわればおもしろいことが起きるのじゃないかという印象が先に立って、実際の大家自身をひっぱっていかない。「頭」のなかのゲームになってしまっていて、肉体、大家の日常がついていっていないからである。
 実際に何かを叩けば、三島のように自害しなければならないときもあるだろうし、寺山のように逮捕されることもあるだろう。その覚悟があって「ドア・ツアー」をやるのなら、そこから「詩」は始まるだろうが、どうも、そういうことは回避したまま、おもしろがっているだけである。
 もちろんおもしろがるのはおもしろがるでとてもいいことだ。おもしろがることをどんどん拡大していけば、それはそれでいいのだろうけれど、どうも中途半端である。実際の音楽ではなく架空の音楽会(頭のなかの音楽会)なら、架空をもっと広げるべきだろう。

だけど
 町を巡れば巡るほど
  叩くべきドアがわからない

と大家が書いてしまっては「ドア・ツアー」は最初から成り立たない。
 弘井さんというのは誰なのか私は知らないが、彼の夢は奇妙に空想のなかにずらされ、空想としてかき消されてしまったのではないか、という感じがして、ちょっと(かなり、という意味です)弘井さんがかわいそうになった。
 素材としてのドア、必ず聴衆というか、そのまわりに人、個人的な生活があるという場での音楽は、叩くひと自身が自分の生活をむき出しにしなければ空想になってしまう。空想を否定するために現実の「場」を呼び込むドアがあるのになあ……。
 不思議なことに、私は大家の詩ではなく、ここにはちょっとしか出てこない弘井さんの音楽についての意見を聞きたくなってしまった。弘井さんが叩く素材として何よりも先に「ドア」を思いついた理由、そこで繰り広げたい音楽とは何か。きっと大家の考えとは違うだろう。もっと弘井さんの声を丁寧に紹介してほしいという思いだけが残った。



 「音」について、八木幹夫は「私の耳は」を同じ「SPACE」69に書いている。音を重ねて音楽にする弘井とは違って単純に音を聞く人間としての八木を書いている。

私の耳は音を聞き過ぎる
闇を飛ぶ無数の蝙蝠の羽ばたき
地を走る無数の昆虫の足音
私の耳は利益につながる音を聞き分ける

 誰でも音を聞きながら音を選別する。聞こえているのに聞こえないことにしてしまったりもする。必要とあればどんな小さな音でものがしはしない。それはずるいことだろうか。そうではなくて、それが日常の正直さというものだろう。

私の耳は東西南北から聞こえる異なる音を聞く

私の耳は たった一匹の蚊の羽音でも眠れない
私の耳は 鼓膜を引き裂かんばかりの爆音にも慣れてしまう

 この肉体の正直さ。それをひっくりかえし、覚醒させ、意識だけではなく、肉体そのものを変化させるものとして「音楽」があるのだと思う。たとえば弘井のドアを叩いて音楽にするというパフォーマンスがあるのだと思う。
 弘井がドア叩き演奏会をするなら、大家ではなく、八木のような聴衆、正直な肉体、日常の正直さをいつでもことばにできる聴衆こそがふさわしいと思う。日常そのものが叩き方次第で音楽になる。それは日常そのものが聞き方次第で音楽になるという意味でもある。
 八木の最後の2行は、それだけでは単なる人間の習性を描写しているように見え兼ねないが、そうみえてもいいと覚悟して八木はそう書いているだけであり、それでいいのだとは主張していない。それは、それに先立つ行、

私の耳は顔の両側に左右対称に付いている
私の耳は毎日大きくなったり小さくなったりする

を読めば明らかである。耳は大きくなったり小さくなったりする。これは、もしかすると、別の形で「音」を聞くことが可能であるということだ。八木の最後の2行は正直な絶望、正直な怒りのようなものであるが、その正直さゆえに、いつでも違った耳に変わりうる可能性を秘めている。
 書かれていない、その正直な耳の願いが、行間から聞こえてくる。


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