詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田村隆一試論(3-3)

2011-09-13 23:57:59 | 現代詩講座
 そして、最終連。
 いろいろ問いかけて、最初と同じ1行にもどります。3連目のまん中から反転するというのは、このことでわかると思います。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 最初の1行は、冒頭の1行と同じですね。1行目と2行目をちょっと短縮して、「言葉をおぼえたおかげで」という形で、3連目のつづきを話したいと思います。(括弧にくくった部分は最後に話します。)

言葉おぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 これは、言葉を書くこと、言葉で「意味」を書くことをおぼえたおかげで、ぼくはあなたが涙を流している様子をことばにしてしまう。そして「意味」を考えてしまう。「意味」をつけくわえてしまう。「涙」が「哀しみ」という「意味」になるということを知ってしまって、そのことを考える。あなたの「涙」、その「涙」のなかに「ある」意味を考える。考えていることを「立ち止まる」と言っているのです。
 これは3連目の「立ち去るだろう」の反対のことばですね。言葉を書くことを知らなかったら、言葉がなかったら立ち去っていた。けれど言葉があるので立ち去らずに立ち止まる。
 ただ立ち止まるだけではなく、それは「帰ってくる」ことでもある。
 「涙」のなかに「立ち止まり」、「血」のなかへ「帰ってくる」。2連目、3連目をちょっと振りかえってください。涙と血は「感動」につながる「同じもの」でしたね。
「血」はこころの奥で流すもの。涙は「眼」から流れる。「涙」よりも「血」の方が奥が深い。(奥が深い--という表現でいいかどうかわからないけれど、もっと深刻というか重大なものですね。)
 涙が表層であるとすれば、血は深層。
 涙を血という比喩で言い換えるとき、田村は、あなたの「内部」へ(意味の内部、感動の内部、かな?)へさらに奥深く入っていく。
 このことを田村は「帰ってくる」は書いている。「入っていく」「尋ねていく」ではなく「帰ってくる」。
 これは、どういう「意味」だろう。
 もともと田村は「あなたの涙、きみの血」のなかにいた、ということですね。
 でも、へんですね。そんなはずはない。「あなた」や「きみ」が「あなた」「きみ」であるのは「ぼく」とは別人だから「あなた」「きみ」ですね。
 だから、ここに書いてあることは、「比喩」なんです。
 「比喩」というのは言葉をつかって、「いま/ここ」にないことをあるようにみせかけるものです。この詩でつかわれている表現を利用していえば、「比喩」は「いま/ここ」にないものを借りて、「意味」をつくることですね。「いま/ここ」にあるものの「意味」を、「いま/ここ」にない「意味」にかえる。「いま/ここ」が別の意味に「なる」ということです。
 あなたの「涙」「血」を書くことで、「あなた」になる。
 「ぼく」が「あなた」になるのは、まあ、比喩のなかでは「可能」だけれど、現実には不可能ですね。
 この「不可能」のことを「愛」と呼ぶことができると思います。
 「愛に不可能はない」。

 で、最後に。ここからが、私が今回ほんとうにいいたいことです。
 「おぼえる」。この言葉について考えてみたい。
 「知っている」と「わかっている」の区別は、何度か言いましたね。まあ、私の「独断」なのかもしれないけれど「知っている」と「わかる」は違う。「射殺」は言葉として知っているが、ほんとうは「わかっていない」。
 では、「おぼえる」は、どうだろう。

 「知る」「わかる」「おぼえる」はどこが違うと思いますか?
 「知る」「わかる」のとき「射殺」を例にして話しました。「射殺」は言葉として知っている。でも「肉体」はそれを知らない。ピストルを撃ったときの反動。相手が血を流すのを見たときの衝撃。死んでいくのを見るときの気持ち。目も耳も肌も、何も知らない。「わかる」というのは「知識」ではなく、「肉体」でそれを受け止めることだと思う。肉体のあらゆる部分が「知っていること」が総合されて「わかる」と言えるのだと思う。
 「おぼえる」にはやはり「肉体」が関係していると思う。
 田村は、最後に「日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで」というとても変な1行を書いている。わざわざ「外国語」という表現をつかっている。「あなたの涙/血」を書くのに「外国語」をつかっていない。ここには外国語はひとことも書いていないのに「外国語」を「おぼえたおかげ」と書いている。
 変でしょ?
 「日本語」とわざわざ書いているのも変ですね。さっき省略したように「言葉をおぼえたおかげで」で十分「意味」は通じる。それなのに「日本語」「外国語」ということばをつかっている。
 変ですね。
 その変なところは、またまたわきにおいておいて。
 「外国語」。たとえば「英語」。「This is a pen.」知らない単語はないですよね。みんなわかりますよね。
 もう知っていること、わかっていることについてこういうことを聞くととても変なのだけれど、

質問 英語をおぼえるとき、どうしました?
「書いたり、声に出して読んだりしました」

 見て、読んで、書く。このとき、「見る」は目をつかう。「読む」ときは喉や口をつかう。そして、動かす。書くときは目で見ながら、手を動かす。そこに「肉体」の動きが入ってきます。「肉体」をつかっています。
 何かを「おぼえる」というのはもちろん「頭」もつかうけれど、基本的には「肉体」(体)をつかって、「肉体」に何かを定着させることですね。

受講生「肉体で、おぼえたことって、忘れないですね。自転車にのるとか、泳ぐとか、一度おぼえたことは忘れないですね」
受講生「忘れない、というより、忘れられない、かな」

 そうですね。ほんとうに、そう思います。
 先に、みなさんの方から「答え」というか、私がいいたいことを言われてしまったので、私の説明がしにくくなるのだけれど……。

 ここで、こういう例を挙げるのはちょっとまずいのかなあとも思うけれど。「おぼえる」には、酒をおぼえる、とかセックスの快楽をおぼえるというような使い方がある。もちろん、酒の味を知っている、セックスを知っているという言い方もあるけれど、「おぼえる」は、何かもっと実践的ですね。あるいは、どっぷりつかっているといえばいいのかな? おぼれてしまう。じっさいに、肉体を動かす。「知る」は頭でコントロールするけれど「おぼえる」は肉体が反応する。自然に動く。酒やセックスをおぼえ、それににおぼれるというのは、それが忘れられないということですね。

 で、脱線しすぎたので、ちょっともどります。

質問 外国語を知っている、わかる、おぼえる。--このとき、知っている、わかる、おぼえる、の違いはなんですか?
「おぼえたことはつかえる」

 そうですね。「おぼえた」外国語は、「つかえる」ということですね。
 さっき英語を例にしたけれど、フランス語、ドイツ語、アラビア語--それは、文字を見ればある程度「わかる」部分がありますね。見て「知っている」。だから「わかる」。まあ、それを「おぼえている」のでわかる、と言えるかもしれないけれど、知っている、わかるだけでは、つかえませんね。つかえる言葉が限られている。
 ズィス・イズ・ア・ペンくらいならいつでも言える(つかえる)かもしれないけれど、ややこしいこは言えない。たとえば、私がいま話していることを私は英語では言えない。おぼえていないからです。おぼえるというのはつかえるようになることなのです。
 自由に動かせるということです。
 自転車乗りや水泳をおぼえる--その結果、自由に自転車をこげる、運転できる、自転車がつかえる。水泳なら、手足がつかえる。泳げる。

 このことから類推(?)していくと……。

 田村の書いている1行。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」は、「言葉なんかつかえるようになるんじゃなかった」ということになるのだと思います。言葉をつかえるようになった。それは言葉で「意味」をつくる(成立させる)ことができるようになる、ということになります。
 「あなたが美しい言葉に復讐されても」というのは、変なことばですね。そういう「つかい方」は、だれもしていない。だれもしていないけれど、田村はそういうつかいかたができる。それが「おぼえる」なのです。
 言葉をそれまでつかわれていたつかい方ではなく、田村自身のつかい方で動かし、しかも、それに深い「意味」をこめることができる。いままでの言葉のつかい方では言えなかったことを言える。それが「おぼえる」なのです。

 前回、田村隆一風の詩を書いてみましたね。まねしてみましたね。
 このまねしてみるというのは、「おぼえる」ことです。外国語をおぼえるとき、まねをする。まねのつみかさねです。まねの積み重ねで「肉体」のなかに何かが溜まる。そのたまったものがエネルギーになって、動く。その動きを肉体で制御できる。それが「おぼえた」ということになります。
 「言葉なんか知るんじゃなかった」(知らなければよかった)ではなく「おぼえるんじゃなかった」と田村が書いている--その1行がいちばん印象に残ると私が言ったのは、そういう理由です。
 私は、この詩の「おぼえる」のように、「肉体」のなかを通って出てくる言葉がとても好きで、そういう言葉を書いている詩人が好きだし、そういう詩が好きです。そして、こんなふうに「肉体」と結びついて自然に動く力をもった言葉を「肉体のことば」といったり、また「ことばの肉体」という言い方で、詩を読むときの基準にしています。

 最後の連には、もうひとつ、大事な要素があります。
 2連目と比較して、何かが違います。
 2連目は「あなた」が「復讐される」、「きみ」が「血を流す」。ところが、最終連は「ぼく」が「立ち止まる」、「ぼく」が「帰ってくる」。これが、大きく違います。
 2連目では「言葉のなかにある意味」によって、「あなた(きみ)」が復讐され、血を流す。無傷の状態が、傷を負った状態に「なる」ということが書かれていました。
 いま言った「傷を負った状態になる」の「なる」は、「意味が意味になる」というときの「なる」と同じで、変化です。
 このときの「主語」というか、「なる」の変化は「あなた」「きみ」に起きています。「あなた」「きみ」が、いわば主語です。
 ところが、最終連では、「ぼく」が「なる」のです。
立ち止まる状態に「なる」、あるいは「立ち止まる」という運動をする人間に「なる」。「帰ってくる」という状態に「なる」。帰ってくるという運動をする人間に「なる」。
 それは、言葉を書くということは(ことばをつかう)ということは、別の人間に「なる」ということにつながります。

 詩を書く前と、詩を書いたあとでは違う人間に「なる」。
 詩を読む前と、詩を読んだあとでも同じですね。読んだあとでは、違う人間に「なる」。
 この詩の中の表現をつかっていえば、田村の美しい言葉を読んでしまったあと、あなたは復讐されて、こころが血を流してしまった。傷ついた人間(ことは比喩ですが)に、「なる」。
 一方、何かを「おぼえて」、実際にそれをつかいこなす。そうすると、そのときから、そのひとは「別の人」にななっている。田村は、そういうことばを書くことによって「詩人」に「なる」。なっている。
 人間には肉体があるために、その「別の人になる」という感じがなかなかわからないのだけれど、「こころ」は変わっている。別の人になる、そういうことがありますね。
 で、この「別の人になる」ということを、この詩にあてはめると……。
 2連目で、田村は「ぼくとは無関係だ」「そいつも無関係だ」と「無関係」を強調していた。けれど最終連では「無関係」ということばをつかっていない。逆に、「きみの血のなかに」ということばをつかって、「きみ」の「なか」に入っていく。「関係」ができる。「きみ」と「ぼく」は「無関係」ではなく、「きみ」の「なか」に「ぼく」がいるという関係になる。
 ここにも大きな変化がある。「ぼく」は「きみ」になる。これは一体になるということ、愛するというこ意味にもなると思います。
 言葉のこと、あるいは詩を書くことをテーマにして田村はこの詩を書いていると思うけれど、どこかロマンチックな感じがするのは、そういうことかな、と思います。



「現代詩講座」は受講生を募集しています。
事前に連絡していただければ単独(1回ずつ)の受講も可能です。ただし、単独受講の場合は受講料がかわります。下記の「文化センター」に問い合わせてください。

【受講日】第2第4月曜日(月2回)
         13:00~14:30
【受講料】3か月前納 <消費税込>    
     受講料 11,300円(1か月あたり3,780円)
     維持費   630円(1か月あたり 210円)
※新規ご入会の方は初回入会金3,150円が必要です。
 (読売新聞購読者には優待制度があります)
【会 場】読売福岡ビル9階会議室
     福岡市中央区赤坂1丁目(地下鉄赤坂駅2番出口徒歩3分)

お申し込み・お問い合わせ
読売新聞とFBS福岡放送の文化事業よみうりFBS文化センター
TEL:092-715-4338(福岡) 093-511-6555(北九州)
FAX:092-715-6079(福岡) 093-541-6556(北九州)
  E-mail●yomiuri-fbs@tempo.ocn.ne.jp
  HomePage●http://yomiuri-cg.jp

田村隆一全集 1 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
河出書房新社
田村隆一全集 3
田村 隆一
河出書房新社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 樫田祐一郎「残暑」 | トップ | 田村隆一試論(3-2) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

現代詩講座」カテゴリの最新記事