『旅人かへらず』のつづき。
一六八
永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず
2行目。「心の鶉」。なぜ、「うずら」なのだろう。「こころのうずらのなく」と、もし、ひらがなで書いたら「こころのうずく」と読み間違えるかもしれない。こころが、うずらのように美しい声で鳴く、うずく。--こころがうずく、と書いてしまえば、センチメンタルになる。特に「永劫の根」に触れ、こころが疼くと書けば、「意味」が強すぎて、詩から遠いものになるだろう。
だから、「わざと」、そこに「うずら」を紛れ込ませる。紛れ込ませながら、音の遠く(?)というか、音を聞きとる耳の奥、声をだす口蓋や舌や喉に、かすかに「うずく」を感じさせる。
そして、「うずら」を利用して、「野」に出て行くのである。
あり得ないことだけれど、たとえば2行目が「鶉」ではなく、「カナリア」だったら、「永劫の旅人」は「野」には出て行かないだろう。草原に住む鶉だからこそ、3行目の「野」が自然に引き出される。「野ばら」「野末」。それから「の」。西脇の大好きな、助詞の「の」。
野を通り、村を通り、町を通り、また山を越え、水を渡る。ときには曼陀羅に立ち止まるけれど、それは野や村を通るのが自然・暮らしの道を歩くのに対して、文化の道・哲学の道を歩くといいかえることができるかもしれない。自然を歩き、また文化をも歩く。
そうやって、「永劫の旅人」は帰らなくなる。
「帰らず」は、そのとき、人は人ではなくなるということだろう。詩人は詩人ではなくなる。自分ではなくなる。自分ではなく、別の人間に生まれ変わってしまう、ということだろう。
詩は、何かに触れ、そのとき動いたこころ(こころのうずき)をそのまま書き写すことなのだろうけれど、ことばをうごかすと、人は自分のままではいられない。自分を超えてしまう。その超え方にはいろいろあるだろうけれど、ともかく自分ではなくなる。
「旅人かへらず」のなかで、西脇は、歩きつづけた。歩きながら、「アムバルワリア」の詩人から、また違った詩人になった。そして、そのあとも、変わりつづけていく。生まれ変わりつづけていく。
西脇順三郎全集〈第3巻〉 (1982年)西脇 順三郎筑摩書房このアイテムの詳細を見る |