江口節『水差しの水』(編集工房ノア、2022年09月01日発行)
江口節『水差しの水』は、表題作の一連目がとても美しい。
展示室の
壁の裏側に回ると そこも
器の絵だった
どの部屋にも 水差し 壺 花瓶 缶 ボウル
並べ方が変わり
光と影が変わり
一日であって一年であって一生のようでもあった
何も変わらないが
何かが変わるには十分な時間
「一日であって一年であって一生のようでもあった」を「何も変わらないが/何かが変わるには十分な時間」と言い直す。一瞬は永遠であり、永遠は一瞬である。時間は残酷であり、同時に慈悲深い。唐突に、「慈悲」ということばが呼び覚まされる。そういうことばを呼び覚ます力が、ここにはある。
「水差し 壺 花瓶 缶 ボウル」と、無造作に並べられたことばがいい。どんな「水差し」かは言わない。どんなふうに描写しても、それは「水差し」であり、そこにあるのは「一日/一年/一生」変わらず、同時に変わり続けるものだ。
「並べ方が変わり/光と影が変わ」るのは、別な言い方をすれば、それを見る位置が変わるということだろう。同じ並べ方、同じ光と影であっても、それを見る人の位置が変われば、存在のあり方が違ったものに見える。しかし、それはほんとうに違ったものに見えるのか。違っていても、同じものに見える。それが残酷であり、同時に慈悲というものだろう。
見るのではない、見られるのだ。
私は六月にスペインの友人のアトリエを訪ねて回ったが、そのとき思ったことを、ふと思い出した。私は作品を見に行った。けれど、そこで体験したことは「見る」ではなく、「見られる」であった。作品が、私を見る。それは見る以上に、驚愕であり、恐怖であり、同時に歓喜だった。一緒に生きている、その「一緒」を感じる瞬間でもあるからだ。
一日の初め 花瓶に水差しで水を足す
死の説明はしない
日々の器があり
暮らしの振る舞いがあり
江口が見つめているのは「死」であり、それは「説明」ができない。絶対的だからである。絶対に変わらないものが「死」である。「生(暮らし)」は変わる。その違いの中で、整えられていくのは「生」であって、「死」ではない。このことを江口は深く認識している。
「普通電車」は、
読みかけの本を持って
(本のないときも やはり)
帰りは 普通電車がいい
早く帰って来たくはないのである。そして、その「早く帰りたくはない」という気持ちのなかで、こんなことに気がつく。
上りで見て 下りで見て
景色は 一つになっていく
「行き/帰り」ではなく「上り/下り」と言い直されている。抽象をくぐり抜けることで、世界の真実がより明確になる。「景色は 一つになっていく」。この「なる」という動詞がすごい。「景色(世界)」はもともと「ひとつ」である。しかし、気づくためには「行き/帰り」ではなく「上り/下り」という「抽象化」が必要なのだ。「抽象化」が「永遠」を生み出す。
「一日」も旅に似ている
覚えているけど知らない土地
見ているのに見えない時
とばしたページを もう一度めくる
どの駅にも 電車は停まる
どの道も 歩くにはよさそうだ
まだ歩いていなかった あの曲がり角
同じページを また読んでいる
「まだ歩いていなかった あの曲がり角」の「あの」のせつなさ。なぜ、江口は「あの」ということばをつかったのか。知っているからだ。それも、単に「見て」知っているだけではない。「あの」というとき、「あの」ということばで「曲がり角」を共有するひとがいる。
それは江口にとっては「まだ歩いていない」場所であり、覚えている(ことばで知っている)けれど、彼女自身の足では「知らない」曲がり角だろう。だからこそ「歩くにはよさそう」という推定が動く。
そうであるのに、「あの」ということばをつかわずにはいられない。
「あの」ということばを通して、「曲がり角」は絶対的存在、一つしか存在しない曲がり角なる。「景色は 一つになっていく」の「一つ」ように。
「同じページを また読んでいる」の「同じ」には、「水差しの水」に出てきた「一日であって一年であって一生のようでもあった」と同じこころが動いている。だれかに会いに行って、そこから再び帰るしかない。その往復。「一日であって一年であって一生のようでもあ」る。江口は、生きている限り、それを繰り返すだろう。
「絶対性」の前で、人間ができるのは「繰り返し」である。「繰り返し」だけが「絶対性」の前では「真実=正直」なのだ。
ことばが、どこまでもどこまでも、深くなっていく詩集だ。